マリーアントワネット編②

シェーンブルン宮殿の巻✨🏰

 

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「シェーンブルン」とは「美しい泉」という意味で、17世紀初め、神聖ローマ帝国の皇帝マティアスが近くの森に澄んだ泉を発見したことから名付けられたと言われています。マリーアントワネットの母、マリア・テレジア(1717-1780)の時代に大改築が行われ、1749年にロココ様式を取り入れた壮大な宮殿が完成しました。

マリア・テレジア・イエロー」と呼ばれる黄色い外観と、色鮮やかな花々を配した庭園が美しく調和しています。

 

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マリーアントワネットの母、マリア・テレジアは偉大な「女帝」として知られていますが、実際には婿入りして来た夫であるシュテファン・フォン・ロートリンゲン公の共同統治者で帝位にはついていません。なぜなら、神聖ローマ帝国の帝冠は男性にしか与えられず、夫が戴冠することによって、この領土内の統治がハプスブルク家のものであるという名目が保たれたからです。

 でも、現実に政務を司ったのは彼女であり、数々の戦争において、どんな困難な時にも強靭な意志を持って立ち向かい、信仰心を忘れず、国家を切り拓いていきました。また16人もの子どもをもうけた偉大な母であり、女性の忍耐力を発揮して祖国を守り抜いた国母でもあります。ハプスブルク家中、唯一の女性統治者です。

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シェーンブルン宮殿には1441室の部屋があり、マリーアントワネットは、姉たち同様、5室分を私室として与えられ、そこで生活しました。この宮殿で少女時代を過ごしたマリーアントワネットは、6歳の時、ここで神童の誉れ高いモーツァルトに会っています。マリア・テレジアをはじめ皇族一同を前にした御前演奏で、モーツァルトチェンバロを見事に演奏し、拍手喝采を浴びます。演奏後、マリーアントワネットより3ヶ月歳下のモーツァルトは床で滑って転び、手を差し伸べたマリーアントワネットに、「ありがとう、優しいね。大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったというエピソードがあります。

 

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「彼女は音楽よりも何よりもダンスに才能を発揮した。王妃となってからも誰もが認めた独特の優雅な歩き方は、ダンスの訓練の賜物である。

 そしてこの足運び、姿勢、なめらかな物腰が、アントワネットを何ともいえず愛らしく見せ、また、美女と思わせることになった。人は顔だけで美を測りはしない。肖像ならいざ知らず、目の前の相手を見るとき、全体の雰囲気から美を決定づける。アントワネットの顔そのものは必ずしも整ってはおらず、十歳の絵からも明らかなように額が広すぎ、目と目の間はややあきすぎていた。ハプスブルク家伝来の突き出た下唇も、受け口となってあらわれていた。長い鼻は鷲鼻気味で、歯並びも良くない(矯正でかなり治った)」

 

「美術品でたどる マリーアントワネットの生涯」 中野京子著 NHK出版新書 NHK出版 発行

 

より引用しました。

 

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「少女マリーアントワネットは、決して美人とはいえなかった。広い額に鉤鼻、やや不ぞろいの歯並び。しかし、金髪に碧い目、輝くような色艶の顔と透き通るように白い肌が人々を惹きつけた。それにもまして、優雅な立ち居振る舞いと、滑るように歩く姿に人々は魅了された。

 自由で活発な少女は、母親譲りの踊りを最も得意とした。」

 

「マリーアントワネット 38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」 

別冊歴史読本 新人物往来社 発行

 

にも同じようなことが書いてあります。

 

ハプスブルクの下唇」と呼ばれる特徴的な受け口は、近親婚を繰り返したことによる弊害だと言われています。

 

マリーアントワネットが愛される、魅力の2つ目は、「優雅で美しい身のこなし」だと思います。

 

マリーアントワネットは、フランスで一番美しく歩く人だったと書いであるのを以前本で読んだことがあります。

 

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この絵は、マリア・テレジアの11歳の肖像画といわれています。化粧っけもなく、マリーアントワネットのように髪も衣装も飾り立てていませんが、清楚でマリーアントワネットより美しく端正な顔だちだと思います。

 

ウィーン美術史美術館所蔵、

1727年、アンドレアス・メラー

 

のこの絵は、「THE ハプスブルク 華麗なる王家と美の巨匠たち」展が、

 

2009年9月25日 〜12月4日    東京六本木 

             国立新美術館

2010年1月6日〜3月14日       京都・東山七条

             京都国立博物館

 

で開催された時に、来日しました。

 

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ハプスブルク家 美の遺産を旅する」

「THE ハプスブルク」展公式MOOK 

別冊家庭画報 家庭画報特別編集

株式会社 世界文化社 発行

 

の中で、池田理代子さんがやはり「マリーアントワネットより綺麗だな、と思いました」と、対談で話されている文章が載っています。

 

f:id:nori_nori_queen:20240625143751j:image「シシィ」の愛称で知られる美貌の皇妃エリザベート(1837-1898)

 

国家家財管理局 宮廷家財庫 

ウィーン家具博物館所蔵

1865年  当時ヨーロッパで最も著名な宮廷画家ヴィンターハルターによる

 

バイエルン公女に生まれたエリザベートは、姉の見合い相手だった若き皇帝フランツ・ヨーゼフ1世ハプスブルク家最後の皇帝)に見そめられ、オーストリア帝国の后妃になりました。当時のヨーロッパ宮廷一の美貌に加え、172cmの長身、ウエスト51cm、体重は43〜47Kgというスーパーモデル並みのスタイルを生涯維持しました。

名君といわれたマリア・テレジアを敬愛し、貧しい人や社会的弱者に同情するなどの一面もあったと言われていますが、ウィーンの宮廷生活から逃避し、旅から旅の放浪生活を続けるために莫大な費用を費やし、 マリーアントワネットに勝るとも劣らない浪費家であったと言われています。

 

ホーフブルク宮殿にある「シシィ博物館」には寄りませんでした。世界一の美女と謳われ、最後は暗殺者の凶刃に倒れるという数奇な運命を辿った伝説の皇妃なのに、共感や憧れの気持ちを抱かないのは何故でしょうか、、

美人ではないマリーアントワネットの方に、より多くの魅力を感じます。

 


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シェーンブルン宮殿の「マリア・テレジアイエロー」に合わせて、イエローのワンピースで出かけるほど気合を入れて臨んだウィーン旅行。

 ハプスブルク家の栄光を今に伝えるウィーンは洗練された街でした。「ホーフブルク宮殿の巻」で紹介した、日本人ガイドの井上さんの言葉を借りれば、「京都に似ている」そうで、都としての歴史と伝統を持つが故にプライドが高く、ドイツ統一にあたって、疎まれ外されてしまったという話は興味深かったです。

 

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ディナーをとるレストランを探している時に、突然目に飛び込んできた、薄暮のウィーンの街の中に黒々と高くそびえるシュテファン寺院の異様なほど迫力ある姿に驚愕したことは生涯記憶に残ると思います。聖堂の巨大さに当時の人々の信仰の深さを見る思いでした。

 

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ガイドの井上さんと。

 

神聖ローマ帝国の都としての歴史を持ち、音楽の都でもあるウィーン等、文化、芸術の地を有し、かつドナウの流れやアルプスの峰等の美しい自然にも恵まれたオーストリアは、マリーアントワネットの故郷、憧れの国であり、ヨーロッパ最強の国だと思います。

 

次は、神聖ローマ帝国を旅立ち、フランスに嫁ぐマリーアントワネットが最初に踏んだフランスの地、ストラスブールを訪ねます。