マリーアントワネット編③

ストラスブール✨⛪️の巻

 

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「1775年の皇帝一家の肖像」 

マッティン・ファン・メイテンス 作

ベルサイユ宮殿美術館 所蔵

 

フランツ1世、マリア・テレジア夫妻と子供たち

中央に置かれたゆりかごの中の赤ちゃんが

マリー・アントワネットです。

 

神聖ローマ皇帝の祖は、西暦800年にローマ教皇の戴冠を受けたフランク王国カール大帝(シャルル・マーニュ)です。フランク王国は、かつての西ローマ帝国の復活とも称されましたが、その後、フランス・ドイツ・イタリアのもととなる3つの王国に分裂してしまったため、再び、10世紀にドイツ王教皇の戴冠を受けて皇帝となり、神聖ローマ帝国が誕生しました。その後、帝国内の諸侯が力を伸ばし、諸侯の連合国家となったため、一時は諸侯が選挙で王を選びましたが、後に、ハプスブルク家世襲で皇帝位に就くようになりました。

 

ハプスブルク家とフランスのブルボン家は、200年にわたって敵対関係にあり、何度も戦争をしました。

 

☝️1477年、ハプスブルク家のマクシミリアン1世がブルゴーニュ公国の王女と結婚しました。ブルゴーニュは毛織物産業でヨーロッパで最大の富を築いていました。この地を狙っていたフランスは、獲物を横取りしたハプスブルク家を敵視し、以来、200年にわたる犬猿の仲となります。

 

でも、マリア・テレジアにとって、ブルボン家よりもっと憎いプロイセン王国のフリードリッヒ2世という仇敵が現れ、煮え湯を飲まされます。目覚ましい発展を遂げる北方の新興国プロイセンに対抗するため、宿敵ブルボン家と手を結ぶという、ヨーロッパ中を驚愕させる外交政策の大転換(外交革命)を行うことになります。そして、フランスとの協力関係をより強固なものにするために、マリア・テレジアが考えたのが、末娘マリーアントワネットをブルボン家に嫁がせることでした。

 

「他の者(国)には戦争をさせておけ。

幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ」

 

ハプスブルク家の家訓です。

この家訓通り、ハプスブルク家はヨーロッパ中の王家と婚姻により結びつき、勢力を拡大してきました。 マリア・テレジアもまた、多産による沢山の持ち駒を最大限に利用しました。

マリー・アントワネットは1歳年上のフランスの皇太子ルイ・オーギュストに嫁ぐことになります。

 

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1770年4月21日、アントワネットの行列は、1570キロ先のベルサイユに向けてウィーンを出発しました。

57台の馬車から成る行列の参加者は250人。376頭もの馬を毎日3回取り換えるのに、延べ2万頭にも上る馬が使用されました。

旅の最初の夜は、ウイーン郊外のメルク僧院で過ごすことになっていましたが、皇帝である兄のヨーゼフ2世が先回りして待ち構えていたので、アントワネットは驚き喜んだそうです。

 

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マリー・アントワネット

惣領冬実 作 講談社 発行

 

このコミックに、この辺りのことが分かりやすく描かれています。

細部にこだわって描かれた、繊細で美しいロココ調のドレスを何着も見ることができ、うっとりさせられる素敵なコミックです。宮殿の柱やレリーフ、シャンデリア等、惣領冬実さんの「正確さ」へのこだわりには目を見張るものがあります。

 

「ベルサイユ宮殿が同地を舞台にしたマンガを描ける日本人の作家を探しています。日本とフランスの出版社で共同制作を行い、新作は2カ国語で同時出版しませんか」とベルサイユ宮殿からの白羽の矢が当たったのが、「チェーザレ」という歴史マンガを執筆し、フランス国内で高い評価を得ていた、日本人の漫画家、惣領冬実さんでした。

 

「フランスで最も有名な世界遺産であり、観光名所であるベルサイユ宮殿は、長い間芸術家を支援する活動を行ってきた。今回、さらに多くの人々にベルサイユを知ってもらうツールとして、ベルサイユ宮殿は『日本のマンガ』に着目した」と、

 

マリー・アントワネットの嘘」

惣領冬実/塚田町有那  講談社 発行

 

の本に書かれています。

 

この本を読んで、「ルイ16世は背が低く小太りだった」という定説が嘘だということを知りました。  コンピエーヌの森でアントワネットに初めて会った時、15歳のルイ・オーギュスト(ルイ16世)は178cmで、若い時は、192cmと背が高く、痩せていたそうです。(晩年は太っていたそうですが)

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行列は順調に進んでいき、5月7日には、アントワネットの馬車はライン川にかかる橋を渡りました。対岸はフランスであり、ストラスブールの街が広がっています。行列は橋を渡りきらず、ライン川の中ほどにある中洲に止まりました。今回のために中洲には2棟の建物(東側の建物はオーストリア使節団用、西側の建物はフランスの使節団用)が建てられました。そしてこの2つの建物の間には両者をつなぐ大広間がもうけられ、そこで、花嫁引き渡しの儀式がとりおこなわれました。身の回りの世話をする5人の侍女をはじめ、今後、アントワネットに仕える宮廷人として紹介された人々は、いずれも老男、老女でした。ショックを受けたアントワネットは、女官長のノワイユ伯爵夫人にすがりついて泣き崩れたと伝えられています。

コミック「マリー・アントワネット」では、

抱きついて「どうか、どうか私をお守りください。私を導いてください」と懇願するアントワネットに対して、ノワイユ伯爵夫人は、「フランス王太子妃は、人前でそのような言葉を口に致しません」とたしなめています。

 

マリー・アントワネットが愛される 魅力の3つ目は、「善良な人柄、人間性」だと思います。

素直で純粋、裏表のない率直な人柄であったのではないかと思います。アントワネットが優しい性格であったという侍女の証言も数多くあります。

 

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引き渡しの儀式が終わり、アントワネットはストラスブールの街に入りました。出迎えたストラスブールの最高行政官は、ドイツ語圏からやって来たアントワネットにドイツ語で歓迎の言葉を述べ始めますが、アントワネットはすかさず「皆さん、ドイツ語は話さないでください。今日からは私はもう、フランス語以外の言葉は耳にしたくありません」と言ったというエピソードがあります。健気で意地らしく、やっぱり善良な人柄であるのが伝わってくるエピソードだと思います。

 

ストラスブールで宿泊した、ロアン枢機卿の館です。ストラスブール大聖堂の目の前にあります。

 

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私はこの門から入りましたが、アントワネットは反対側の門から入ったそうです。


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現在は、「パレス・ロアン」と呼ばれています。博物館、美術館になっており、見学することができました。



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80歳のロアン枢機卿の甥のロアン司教補佐の肖像画です。

 

翌朝、ストラスブール大聖堂前で行われた歓迎式典で、体調不良の叔父に代わり、歓迎の辞を述べたこの若いロアン司教補佐こそ、のちに「首飾り事件」で王妃アントワネットの人気凋落に一役買うことになる人物です。2人の運命の出会いとなりました。

 

 

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ストラスブール大聖堂

正式名称は「カテドラル・ノートルダム・ド・ストラスブール

1015年に建造が始まり、1439年に尖塔が完成しています。高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築物でした。1874年、ハンブルクの聖ニコライ教会に抜かれ、現在は、教会としては、世界第6位の高さです。ヴォージュ産の砂岩を建材としているため、独特なピンク色(くすみピンク色)をしています。

大聖堂の外観には繊細な透かし細工の装飾が施され、「石でできたレース」と呼ばれています。

イル川に囲まれた街の中心部にある、この美しい大聖堂をマリーアントワネットも感動の眼差しで見上げたことでしよう。

 

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外側から見た「バラ窓」

 

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内側から見た「バラ窓」

 

「バラ窓」は、バラの花のような形にステンドグラスがはめ込まれた円形の窓のことです。

 

フランスでは親しみを込めて、聖母マリアを「ノートルダム(我らの貴婦人)」と呼びます。

「女性の中の女性」とされる聖母マリアに捧げられた大聖堂に「花の中の花」と讃えられる薔薇の花びらを型どったものが「バラ窓」なのでしょうか?

 

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332段の螺旋階段を登って展望台に上がりました。

 

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窓の外に見える景色を楽しみながら、登っていったので、思ったほど疲れを感じませんでした。

 


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尖塔には登れませんが、屋根部分まで上がれるので、地上66メートルの高さから、ストラスブールの街を一望することができました。


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ドイツの黒い森(シュバルツバルト)まで見渡すことができました。

 

次は、アントワネットが華やかな時代を駆け抜けたベルサイユ宮殿を訪ねます。