マリーアントワネット編⑤

ベルサイユ宮殿✨🏰の巻 

第2章 マリー・アントワネット 美のカリスマ

 

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「フランス王妃 マリー・アントワネット

ヴィジェ・ル・ブラン 作  1785年

ベルサイユ宮殿美術館

 

スカートを美しく拡がらせるパニエ付きの白いサテンの宮廷用ドレスを着たアントワネットの肖像画です。

ルイ15世時代に、ローブ、横広がりのパニエを入れたジュップ(スカート)、コルセットで持ち上げた胸をさらにピエス・デストマ(胸あて)で強調する衣装で構成された「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」が宮廷服となり、各国の宮廷モードに影響を与えました。アントワネットが王妃になった頃から、髪型の巨大化と同時にパニエは左右に極端に広がり、スカートも巨大化していきます。

王妃になった1774年からフランス革命までの15年間、アントワネットの最大の関心事は自分の服装であり、おしゃれをすることでした。アントワネットがその時代のファッションを創り出したファッションリーダーと呼ばれる所以です。

アントワネットがファッションの忠告や意見を尊重したのは、平民で、ただのファッション・ブティックの経営者マリ=ジャンヌ・ベルタンでした。(自分で仕事用に選んだ名前はローズ)

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「ローズ・ベルタン マリー・アントワネットのモード大臣」

ミシェル・サポリ 著

北浦春香 訳

白水社 発行

 

ベルタンを紹介されるまでは、アントワネットの服装についての趣味は簡素なものだったといいます。

ベルタンは毎日のように、生地見本やリボンや羽飾りを満載した自家用馬車でパリからベルサイユにやって来ては、王妃の私室に引きこもり、王妃と何時間も最新の流行について意見を出し合い、新しいドレスの注文をもらって帰りました。

「この習慣は10月6日(ベルサイユ行進が起こり、パリに連行される)まで、途切れることなく続きました。例外は、皇后陛下マリア・テレジア)のご逝去後の1ヶ月間だけでした。つまり、15年間、ほぼ毎日、ほとんど2人きりで顔を合わせ続けました」

と、「ローズ・ベルタン マリー・アントワネットのモード大臣」の本に書いてあります。

お抱えデザイナーとして全幅の信頼を寄せられたことから、世間から「モード大臣」と呼ばれるようになります。

毎年、王妃が注文する衣装は170着にのぼり、衣装の中には一度しか着用されないものもあり、そうした衣装は古着屋に払い下げられ、女官長をはじめとする女官たちの懐を潤す役得になりました。

国庫の赤字が増える一方なのに、浪費する王妃は国民の反感を招きます。王妃の衣装用の年間予算は、1725年以来、12万リーブルでしたが、毎年赤字が計上され続けました。赤字額は、1776年は2万8千リーブル、1780年は7万4千リーブル、1783年は8万3千リーブルと増加していきます。1783年の赤字について、衣装部屋の主任女官はベルタン嬢のせいだと報告しています。毎年のベルタンへの支払いは10万リーブルを越えていました。

マリー・アントワネットの伝記作家たちは、ほとんどの場合ベルタンを毛嫌いし、『財を成そうと積極的に立ち回った、金にあざといお針子』『王妃の堕落を先導した』『金の亡者』『盗人』『王妃につけ込んだ』『悪徳の天才』などと書いた。ベルタンとポリニャック公爵夫人は『アントワネットの存在に破滅をもたらす影響を与えることになった2人の女性』と捉えられているのだ。こうした伝記作家たちによれば、かつて労働者だったこの女性は、王妃の悲劇的な最後について、部分的にでも責任があり、王妃の世間知らずをいいことに、まだ形成途上にあった純真な若き令嬢を、本人が思ってもみなかったような、決して許されることのない桁違いの浪費に引きずり込んだ」と、

「ローズ・ベルタン マリー・アントワネットのモード大臣」に書いてあります。

 

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マリー・アントワネットの髪結い  素顔の王妃を見た男」

ウィル・バショア 著

阿部寿美代 訳

原書房 発行

 

モード大臣ベルタンとともに、宮廷にヘアモードの流行を生み出したのが、王妃の専属結髪師ジャン・レオナール・オーティエでした。

私がこの本で感銘を受けたのは、革命の足音が聞こえる1789年5月、三部会開会式の日に、

「さあ、髪を結ってちょうだい、レオナール。私をののしるであろう国民たちの目の前を、私は女優のように歩かなくてはいけないのです」と、アントワネットがレオナールに言った言葉です。

そのことは、この次の次の章で触れたいと思います。

 

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「大盛装姿のマリー・アントワネット

クロード=ルイ・デレの原画に基づく

マルシャル・ドニの版刻

1775年頃 ベルサイユ宮殿美術館

 

この版画のアントワネットは、真珠や花飾りや房の付いた豪華な宮廷用ドレスを身につけ、金色の百合の花で装飾されたスミレ色のマントをまとっています。髪は、真珠や花、羽飾りで飾り、ダイヤモンドのピンを差していて、「ア・ラ・レーヌ(マリー・アントワネット風)と呼ばれました。

 

レオナールは他にも、アメリカ独立戦争でイギリスと戦い、フランスが勝利した戦艦名「フリゲート艦ユノ」「戦艦ベルプール(美しい雌鶏風)」「勝利の女神のボンネット」など、時代の旬な話題を取り入れてネーミングし、斬新なアイデアで髪を結い上げました。

アントワネットがこうしたヘアでオペラ、舞踏会、競馬場などに出かけると、1週間後にはベルサイユ宮殿に広まり、外国にも波及していきました。

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新人物往来社発行の「別冊歴史読本 マリー・アントワネットヴェルサイユ 華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」より引用しました。

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マリー・アントワネット   ファッションで世界を変えた女」の本に、

「パリのモード商は、王妃に似せたマネキンに王妃のためにデザインした衣装を着せてヨーロッパ中に送り出した。ヨーロッパ中のファッショナブルな女性たちが、ローズ・ベルタンがデザインした衣装をまとう王妃のマネキンを、まるで実物の王妃に拝謁するかのように熱狂して迎えたという」と書いてあります。

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マリー・アントワネット  ファッションで世界を変えた女」

石井美樹子 著  河出書房新社 発行

 

マリー・アントワネットが愛される 魅力の4つ目は、「ファッションリーダー、美のカリスマとして時代を牽引した」ことだと思います。

ヨーロッパの近代女性史は、アントワネット抜きには語れないと言っても過言ではないと思います。

 

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5月に行われた「FETES  GALANTES」

私の隣に写っておられる方は、日本から参加された方ですが、この日舞踏会に参加されたどの方よりもマリー・アントワネットでした✨

ドレスは、おそらく、「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」の本の表紙にもなっている、ジャン=パティスト・アンドレ・ゴーティエ=ダゴティが描いたアントワネットの肖像画のドレスを元に製作されたドレスだと思います。

私は、ロココ調のドレスの上にオーガンジーの色打ち掛けを羽織っている都合上、横に広がる楕円形のパニエではなく、普通の円形のパニエを着用しましたが、やはり、横に広がるパニエの方が、「これぞロココ!」という感じで素敵です。

 

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ダゴティが描いたこの肖像画は、まるで全世界を支配していると言わんばかりに地球儀の上に手を置いているアントワネットが傲岸に見えると、散々に非難されましたが、ドレスは甘くロマンティックで素敵です。アントワネット22歳の肖像です。

 

次は、

第3章 花を愛したマリーアントワネット