マリーアントワネット編⑧

アントワネット最後の日々の巻


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「オルセー河岸からみたチュイルリー宮殿」

ニコラ・ジャン=バティスト・ラグネ 作

1757年

パリ歴史美術館

 

1789年10月6日、王家一家はパリに到着し、チュイルリー宮殿(焼失し現在はありません)に移り住みました。チュイルリー宮殿は16世紀に建設された宮殿で、ルイ14世以来、70年以上も使用されず捨て置かれていた建物なので、荒れ放題に荒れ果てていました。

煌びやかなベルサイユ育ちの4歳の次男ルイ・シャルルが、「ここはずいぶん汚いね、ママ」と言った時、アントワネットは「ここにはルイ14世がお住みになり、居心地が良いと思われていたのですよ。私たちがそれ以上を要求してはなりません」という感嘆すべき言葉で言い聞かせています。

取り巻きの貴族たちが亡命し、孤立したルイ16世とアントワネットは、そうした状況を打開するため、1790年2月に、密かにミラボーと手を結びます。

フランス革命初期のリーダーであるオノーレ・ミラボー伯爵は常識では測れない型破りなタイプの人物でした。若い頃から借金だらけで、女癖の悪いことでも有名でした。あまりにも身持ちが悪いので顰蹙(ひんしゅく)を買い、三部会では貴族の代表になることができず、貴族であるにもかかわらず、平民身分の代表として選出されました。ところが、その雄弁さでたちまち頭角を現すことになります。立憲君主政を目指していたミラボーは国王夫妻に忠誠を誓い、莫大な報酬と引き換えに、新しく制定される憲法を国王に有利なものにすることを約束しました。そして、直接の接触を避け、数々の報告書を提出することで、国王夫妻に迫っている危険や、彼らが取るべき最善の方法について助言を行いました。

「国王の側には男がひとりしかいない。それは彼の妻だ。(略)国王の権威を再構築することの中にしか彼女の安全はない。王冠がなければ彼女は生きながらえることができないと私は確信している」とミラボーは覚え書きに記しています。

アントワネットが、側近に見限られた夫ルイ16世を男性並みに補佐したと言うより、自ら中心となって画策していたのが分かります。

革命が進行するにつれて、だんだんと恐怖を感じるようになったアントワネットは、残された道はパリから脱出することしかないと考えるようになります。その計画に反対したミラボーが1791年4月2日に42歳という若さで病死すると、国王夫妻の気持ちは一気に亡命へと傾いていきます。

小説「マリー・アントワネット」の著者として知られるシュテファン・ツヴァイクは「ミラボーは王政と民衆を調停できたかもしれない最後の人物だった」と言っています。

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マリー・アントワネット」上下巻

シュテファン・ツヴァイク

中野京子 訳

角川書店 発行

 

「『不幸になってはじめて、自分が何者かが分かります』という、美しく感動的な言葉が、彼女の手紙の中でふいにきらめく。母親や友人といった忠告者たちは、何十年かかってもこの強情者に影響を与えられなかった。マリー・アントワネットにとっては、苦悩こそが最初の本当の教師であり、素直に教えを受けた唯一の教師である」

「いつの日か、今わたしたちがしていること、苦しんでいることが、せめて自分の子たちを幸福にしてくれるのなら!これが私に残された唯一の願いです」

「私に幸福があるとするのなら、それはふたりの子どものおかげでしょう」

 

すべてツヴァイク著「マリー・アントワネット」より引用しました。

マリア・テレジアに信頼され、ベルサイユ駐在のオーストリア大使としてアントワネットが成婚した後もフランスに滞在して、アントワネットの側に仕えて、陰に日に彼女を守るために奮闘した、オーストリアのメルシー伯爵に宛てた手紙に書いた文章です。このような感動的な文章が書かれたのは、アントワネットが王政を護持するためにチュイルリー宮殿で画策していた頃です。

幼い頃、遊び好きで勉強嫌い、気まぐれで集中力がなく、怠惰な性格であったため、好きな踊りや音楽以外は身に付かず、母親のマリア・テレジアを落胆させ、心痛させたアントワネットが、試練なくして得られなかったものを獲得し成長したことが分かります。

 

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「パリからモンメディまでの逃亡ルートとヴァレンヌからパリまでの帰還ルート」

1791年6月20日、国王一家はアントワネットの実家ハプスブルク領へ亡命するため、パリからの逃亡を企てます。この逃亡劇に欠かせない人物がフェルゼン伯爵でした。国王一家を援護する兵士を手配し、王党派のブイエ将軍が司令官として駐屯するモンメディを目指すこの計画は、フェルゼンによって綿密に練られました。でも、実行の段階で失敗が続きます。変装しパリを脱出するまではうまく進みますが、無事に脱出できたことで気が緩んだのか、特別あつらえの大型のベルリン馬車の馬を替える宿場ごとに休憩を取ったため、約束の時間に約束の場所でブイエ将軍の兵士と落ち合うことができませんでした。ルイ16世の希望で計画の主軸であるフェルゼンをパリからほど近いボンディで離脱させたことも失敗の一因だったといわれています。夜道を急ぐ一行は怪しまれ、護ってくれる兵士もおらず、ついにヴァレンヌで国王一家であることを見破られ身柄を拘束されてしまいます。たった1日の逃亡劇はこうして幕を閉じました。

 

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ライニエル・フィンケルス(1741-1816)と

ダニエル・フライダハ(1765-1822)

ジャン=ルイ・プリウール(1759-1795)の連作に基づくヤン・ビュルタイス(1750-1801)の下絵による

「ヴァレンヌでのルイ16世の逮捕 1791年6月22日」

アムステルダム 1799年

ヴィジル、フランス革命美術館

 

ヴァレンヌからの、民衆に罵声を浴びせられる屈辱的な長い道のりをへて、ようやくたどり着いたパリで国王一家は民衆の重苦しい沈黙に迎えられますが、とりあえずは何事もなく、一行はチュイルリー宮殿に帰還します。

帽子を取ったアントワネットを見て驚いた侍女が「奥さま!」と叫びました。何事かと鏡を見たアントワネットは悲鳴をあげます。逃亡に失敗しヴァレンヌで逮捕され、パリに帰還するまでの恐怖とストレスにより、アントワネットの美しかったブロンドの髪が一日で白く変わっていたのでした。

 

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「ヴァレンヌ逃亡 マリー・アントワネット 運命の24時間」

中野京子 著

文藝春秋 発行

 

この「ヴァレンヌ逃亡 マリー・アントワネット 運命の24時間」の本の表紙にある、荒々しい馬の蹄の音と馬車の轍(わだち)の音が聞こえてくるような写真を選ばれた、著者中野京子さんに脱帽しました。追う者と追われる者の緊迫感が伝わってきます。

 

このような事態を引き起こし、民衆の信頼を完全に失ってしまった国王一家を、国民議会の議員たちはどのように扱っていいか分かりませんでした。立憲王政を基本とする憲法がまとまりかけている直前に、国王が亡命を企てたなど、あってはならないことだったからです。

 

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1792年8月10日     フランス国民を裏切った国王一家に怒った民衆が槍やピッケル武装してチュイルリー宮殿を襲撃しました。アントワネットは子どもたちやエリザベート内親王ルイ16世の妹)とともに、震えながら国王の寝室に逃げ込みました。宮殿の扉が凄まじい勢いで叩き壊され、一瞬のうちに宮殿は暴徒によって占拠されました。ルイ16世は悩み抜いた末に議会に避難することを決断しました。予想外の事態に驚いた議員たちは、国王一家を議場の後ろにある小さな控え室に押し込め、国王一家の処遇を決めることもできず、チュイルリー宮殿で繰り広げられていた戦闘の結果を待ちました。宮殿ではまだ、スイス近衛兵たちが暴徒と戦っていたからです。ルイ16世は文書でスイス傭兵部隊に戦闘中止命令を出しました。怒りを感じながらも命令通り武器を捨てたスイス近衛兵たちは暴徒たちに虐殺されていきました。これで宮殿守備隊の敗北は決まりました。パリの民衆の勝利を確認した議会は、王権の停止を決定しました。こうして王政は崩壊しました。夜になると、国王一家は修道院の一室に移されました。


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「タンプル塔」

作者不詳

1795年頃

パリ歴史美術館

 

8月13日、議会は国王一家をタンプル塔に投獄することを決定します。

タンプル塔は、中世に隆盛を誇ったテンプル騎士団の本拠地で、修道院だったタンプル塔は革命以降、監獄として使用されるようになります。堅牢な要塞のような建物は警備が容易で、民衆の敵とされた国王一家を襲撃から守る役割も果たしました。

 

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「家族に別れを告げるルイ16世 1793年1月20日

チャールズ・ベナゼック 作

ベルサイユ宮殿美術館

 

12月半ば、ルイ16世は起訴され、家族から引き離されました。そのまま連絡が絶たれ、クリスマスにも戻れず、翌1793年1月にやっとタンプル塔に帰されたのは、一票差で死刑が決まり、翌日処刑という夕方でした。彼はいつも通り感情を表さないで裁判の様子を語り、誰も恨まないようにと皆に告げました。アントワネットが今宵はずっと一緒にいたいと頼みましたが、一人になりたいと自室にこもり、翌朝も顔を見せることなく黙々と処刑場に向かって行きました。家族は遠くから響いてくる太鼓連打と「共和国万歳」の歓声で、処刑が執行されたのを知ります。

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「ルイ・カペー(元ルイ16世)の処刑 1793年1月21日」

作者不詳

ヴェルサイユ宮殿美術館

 

ルイ16世は、「国民の自由と国家全体の安全に対する反逆」の罪で、1月21日の10時頃、革命広場(現コンコルド広場)でギロチンにかけられました。

「私に負わされたいかなる罪に対しても、無実のままこの世を去ります。私を死に追いやる人々を許しましょう。神よ、どうかあなたが流そうとされている血が、再びフランスに落ちることがないよう願います」が最後の言葉でした。

 

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ギロチンのモデル

パリ市立博物館

 

ジョゼフ・イグナス・ギョッタンは、ルイ16世の長弟プロヴァンス伯の侍医でした。初期から革命に参加して、「階級によらずに、平等に同じ死刑を執行すべきだ」と主張しました。

1791年6月5日、国民議会は「死刑は斬首で行う」との刑法を議決しました。ギョッタンはこの時、ドイツ人技師シュミットとフランス外科学アカデミー終身幹事ルイ博士が発明した首切り装置を提案しました。この機械は、提案者の名前にちなんで「ギロチン」と命名されました。ギロチンはギョッタン(Guillotin)を英語読みしたものです。

受刑者の頭は半円形のくぼみに置かれ、死刑執行人が綱を切って、約50Kgの刃を落としました。

死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの回想録に、刃を斜めにすることを提案したのはルイ16世だという記述があります。

生命の剥奪以外に、何ら残虐性を加えるべきではないという、人道的な見地から考案されたのが、一瞬で死に至るギロチンでした。

1792年4月に処刑道具として正式に認められたギロチンは、その9ヶ月後に国王を処刑することになります。ルイ16世が自ら許可した処刑装置によって人生を終えることになったのは皮肉なことです。

 

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「母から引き離されるルイ17世

ジャン・ジャック・オエール

1989年

パリ市立博物館

 

ルイ16世処刑の6ヶ月後の1793年7月3日、ルイ17世は、国民公会政令でタンプル塔内の別の場所に移されることになりました。9歳の少年は、母にも、姉にも、叔母のエリザベートにも再び会うことはありませんでした。

 

家族と次々に引き離された、このタンプル塔時代が、アントワネットにとって一番辛く悲しい時代だったかもしれません。

 

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それから1ヶ月後の真夜中の2時、いきなり押しかけてきた役人に対しては冷静でした。通達は、アントワネットだけコンシェルジュリ監獄へ移送するというものでした。この監獄の異名は「ギロチン控えの間」で、処刑が確定的と考えられる重罪人を収監する牢獄で「死の監獄」とも呼ばれていました。急かされたアントワネットは身の回りのものを用意し、王妹エリザベートと14歳の娘マリー・テレーズを抱きしめました。3人とも半ば覚悟ができていたのかもしれません。もう二度と会えないと知りながら、ルイ・シャルルとの別れの時とは違って静かな別れでした。

 


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セーヌ河岸のファサードをバックに

コンシェルジュリは、パリ発祥の地であるシテ島に置かれた最初の王宮です。

14世紀後半、シャルル5世は居城をシテ宮からサン・ポール宮に移します。

シテ宮には司法権をもった財務監督官(コンシェルジュ)が残されたため、コンシェルジュリと呼ばれるようになりました。

フランス革命期には革命裁判所が置かれ、重罪人を収監する牢獄となりました。

アントワネットの囚人番号は280。収監者名簿に「フランスに対して陰謀を企てた容疑」と書き込まれました。このコンシェルジュリで、処刑までの76日間を送りました。

 

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ゴシック式のリブ・ヴォールトの天井が美しい「警備の間」

アントワネットがこの美しい天井を見たのはどんな状況でだったのでしょうか。

 

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アントワネットが収監されていた独房は半地下室で、明かり取りの窓が地面すれすれの所にありました。すぐ側をセーヌ川が流れていることもあって部屋全体がじめじめと湿気を帯びていました。

アントワネットの独房は現在は「贖罪礼拝堂」になっており、アントワネットの衣服やアクセサリー等の所持品が展示されていました。


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処刑当日、使われた水さし

も展示されていました。

 

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女性囚人の独房舎に囲まれた中庭

女性囚人の日中の散歩に使われた場所が、当時のままの姿で残っていました。

でも、独房から出ることを許されなかったアントワネットがここを散歩することはありませんでした。青空を見ることもなかったでしょう。

 


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「未亡人マリー・アントワネット

アレクサンドル・クシャルスキ

1793年頃

ベルサイユ宮殿美術館

 

1789年に、ヴィジェ・ルブランが亡命した後、アレクサンドル・クシャルスキがアントワネット付きの画家になりました。

ルイ16世の処刑以降、アントワネットは常に喪服を着用し、カペー未亡人と呼ばれるようになります。

最晩年の姿は、堂々とした佇まいで描かれており、窮地にあってなお、王妃としての威厳をたたえていて、心を打つ肖像画に仕上げられています。 

 

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「裁判のアントワネット」

ポール・ドラッシュ 作

ニューヨーク、フォーブズ・コレクション蔵

 

ルイ16世亡き後、反革命の象徴となったアントワネットは、三度も行われた予備尋問を経て、

10月14日に、革命裁判所に出廷しました。

「死刑」という結論ありきの名ばかりの裁判は、勝利なき孤独な闘いでしたが、一歩も退くことなく闘い抜きます。言質を取らせないアントワネットの見事な供述の前に、尋問者たちはなかなか攻め手を見つけることができませんでした。

それでも、裁判の翌日には死刑の判決が下りました。

裁判が終わり、コンシェルジュリを出発する前に死刑執行人のサンソンによって、アントワネットは後ろ手に縛られ、頭髪を短く切られました。これは、ギロチンの刃が頭髪に妨げられることのないようにするためですが、これは現代で言えば、丸坊主にされるに等しい屈辱的なことでした。

 

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コンシェルジュリー獄を出るマリー・アントワネット

ジョルジュ・カン 作

 

王政復古(1815年)後、ルイ16世一家の最後を賛美するようになり、なかでも、王妃の姿は、人々の同情を呼び悲劇のヒロインになります。

この絵は、監獄を出て、刑場に向かう荷車に乗ろうとする王妃を描いています。アントワネットは、栄光の絶頂にあった時より、権力を失った後の方が気高い姿で描かれています。

 

マリー・アントワネットが愛される、魅力の8つ目は、「人間としての成長」だと思います。

 

幼い頃は気まぐれで、楽しいことにばかり夢中になり、嫌なことから逃げ回るような、天真爛漫ですが軽薄といえる性格でした。

フランス王妃になってからも、宮殿の堅苦しいしきたりを無かったことにしてしまい、好きなこと、楽しいことだけを追い求め、お気に入りの貴族たちとのプチ・トリアノンでの享楽的な生活に酔いしれ、国民の窮状に目を向けることもなかったため、あらゆる階級の人々から反感を買うことになりました。

 

 

「子どものころの家がすでに宮殿であり、少し大きくなると王冠を与え、若い盛りになれば優美さと富の贈り物をふんだんに積み上げ、おまけにこうした贈り物の値段や価値をまったく気にとめることのない軽薄な心まで授ける。長年かけてこの未熟な心は甘やかし放題に甘やかされたため、ついには感覚まで鈍り、ますます無思慮になってゆく。しかし、これほど素早く、これほどやすやすとこの女性を幸福の絶頂へ引き上げた運命は、今度はいっそう残酷で手の込んだやり方で、しかもゆっくりそこから彼女を引きずりおろす」

シュテファン・ツヴァイク著 「マリー・アントワネット」より引用しました。

 

「不幸になってはじめて、自分が何者か、本当に分かるのです」という珠玉の言葉が彼女の人間としての成長を物語っています。

 

未だかつて誰も経験したことのないような、困難で残酷な悲しく辛い経験をすることによって成長することができたアントワネットに、共感し、自分自身を投影し学ぶことができるのだと思います。

 

次は、「命をかけた恋」