キングダム編⑤

早過ぎた秦の滅亡の巻

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「KINGDOM キングダム  大将軍の帰還

Visual  Bookビジュアルブック」より引用

 

前210年、始皇帝は丞相(じょうしょう)の李斯(りし)、始皇帝の末子・胡亥(こがい)、皇帝の璽(じ・皇帝の印章)を司る役職にいた宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)を引き連れて、全国巡行に出ました。浙江省の会稽山(かいけいざん)に登った後、河北省の沙丘(さきゅう)に着いた時、始皇帝は重い病に倒れました。死を悟った始皇帝は、趙高に、陝西省の上郡(じょうぐん)にいる長男・扶蘇(ふそ)に、軍は蒙恬(もうてん)将軍に任せて自分の葬儀を取り仕切るように記した手紙を渡しました。

事実上の後継者指名と考えられます。扶蘇は、始皇帝の二十数人いた男子の長子でしたが、それまで太子には立てられていませんでした。

前212年、不老不死の仙薬で始皇帝を欺(あざむ)いた方士ら460人余りを捕らえて生き埋めにするという「坑儒」の事件が起きると、扶蘇は、父である始皇帝を諌めました。「天下は初めて平定され、遠方の民は安息を得ていません。学者たちは孔子の教えに従っています。ただ今、上(始皇帝)は、彼ら全員に対する刑罰を厳しくして、ただしております。私は天下の民が不安を感じることを恐れます。上、このことをお察し願います」と、何度も諌められた始皇帝は怒って、扶蘇に上群にいた蒙恬を監督させることにして、蒙恬のいる北の辺境の地へ追いやってしまいました。

こうした状況の中で、始皇帝の手紙と玉璽(皇帝の印鑑)の両方を持っている趙高は胡亥に、兄ではなく、胡亥が帝位に就くように説得しました。

「兄を廃して弟が立つのは不義である」と言って拒否した胡亥に、趙高は、「断じて行えば鬼神もこれを避(さ)く」(断固とした態度で行えば、鬼神でさえ気おされて避けて行く、つまり、決心して断行すれば、どんな困難なことでも必ず成功する)と言い放って、説き伏せ、全て自分と李斯に一任させました。李斯も初めはこの陰謀に加担することに難色を示しましたが、趙高に、「剛毅で武勇にすぐれ、人望があり、兵士たちを奮い立たせることができる扶蘇が即位すれば、扶蘇に親しい将軍の蒙恬が丞相になり、李斯やその一族の立場は危うくなり、失脚してしまうだろう」と説得され、この陰謀に同意してしまいます。

始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを恐れた李斯は、始皇帝の死を伏せ、遺体を窓を開けて温度調節のできる大型の車に乗せ、死臭をごまかすために大量の魚を積んだ車を伴走させ、始皇帝が生きているように振る舞い続けました。

 

趙高、李斯、胡亥の三人は、咸陽の都への帰路、始皇帝扶蘇への文書を破り捨て、始皇帝の詔を偽り、胡亥を太子として立てました。さらに、始皇帝の詔と偽り、皇帝の印を押して封じた文書を扶蘇蒙恬のもとに届けました。

「朕(始皇帝)が天下を巡行して、名山にいる諸々の神々を祀り、長寿を得ようとした。扶蘇蒙恬に数十万の軍を率いらせ、辺境に駐屯させること十数年経ったのに、前進することはできず、数多くの兵士を失った。尺寸の土地を得る功績はないにもかかわらず、かえって、何度も上書して、私の行いを直言して誹謗した。(扶蘇が北地における蒙恬の監督を)罷免されて、咸陽に帰還しても太子になることができないゆえに、日夜、怨望しているからだ。扶蘇は人の子として不孝である。剣を賜うゆえ、自決せよ。将軍の蒙恬は、扶蘇とともに外地にありながら扶蘇の行いを矯正しなかったのは扶蘇の謀計を知っていたからである。これは、人臣として不忠である。死を賜うゆえ、軍は副将の王離の下に配属させるように」

始皇帝崩御したことを知らない扶蘇は、この父が書いたと信じる文書を読んで、泣いて部屋に入り、自決しようとします。蒙恬が偽(にせ)の文書かもしれないので少し待つように進言しましたが聞き入れず、毒を仰いで自決しました。自決を拒んだ蒙恬は捕らえられ、後に自決に追い込まれました。

咸陽に戻った胡亥は、太子として始皇帝の死を発表した上で、二世皇帝に即位しました。

趙高は、宮門を司る郎中令に就任し、暗愚な胡亥を丸め込んで、宮中にこもって酒と女色に溺れる生活で堕落させ、自らが代わって政務を取り仕切って実権を握りました。そして、蒙恬をはじめ、気骨のある忠臣や始皇帝の親族など有力者や敵対者をことごとく冤罪(えんざい)で死罪にしていきました。これにより、始皇帝が在位していた時は豊富であった人材が枯渇し、悪臣ばかり増えていくことになります。

趙高は、自らの権威を高めるため、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課し、法と罰をどんどん厳しくしていきました。

秦の刑罰が苛酷であったことは有名です。秦の農民にとって、強制労働に駆り出されることほど辛いことはありませんでした。国が小さいと、あまり遠くまで行かなくて済みますが、秦のような大帝国になると、はるばる北辺の万里の長城建設に駆り出されたりするようになります。往復のために多くの日数がかかり、労役そのものより、経費がかさむことが人民を苦しめました。しかも、秦の命令は厳しくて、規定された期限内に目的地に着かないと斬罪(首を斬られる)になりました。

 

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陳勝呉広の乱」

中国国家博物館 蔵

 

陳勝呉広は、淮水(わいすい)辺りに住む日雇い百姓でした。北辺の賦役に駆り出され、出かける途中、大雨にあい道が通れなくなり、とうとういくら計算しても期限までに間に合う見込みがなくなってしまいました。期限に遅れれば斬罪で、このまま行っても殺されます。謀反を起こしても殺されます。どうせ殺されると考えた二人は、決意して反乱を起こすことにしました。「壮士(おとこ)が死なないと決まっているなら話は別だが、一度は死ぬものなら大名をあげて死ぬに限る!」と考えた陳勝が仲間に決起をうながす時に言った「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や諸侯、将軍や宰相となるのに、決まった種[家柄]があるだろうか、ありはしないのだ!俺たちだってなれるんだぞ!」という言葉は、カッコいい世界史の名言として、あまりにも有名です。

結局、陳勝呉広も戦死するのですが、中国史上最初の農民反乱の指導者として歴史に名を残すことになります。

厳しい政治に対する不平不満は増大し、天下に満ちた怨嗟は、陳勝呉広の乱をきっかけに、一気に全土へと拡大していきました。

反乱の鎮圧よりも、宮殿内部の権力固めに画策する趙高の諫言で陥れられた李斯は、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に、腰斬(胴斬り・受刑者を腹部で両断し、即死させずに苦しんで死なせる残酷な刑)の刑に処せられました。李斯が刑死した後、丞相に任じられた趙高は、名実ともに秦の最高権力者になりました。胡亥を誅殺することを考え始めた趙高は、後に「馬鹿問答」と呼ばれるもので、誰が自分の言うことを聞くか見極めようとしました。胡亥を宮殿に呼び、鹿を馬だと言って胡亥に献上しました。胡亥が「これは馬ではなく鹿であろう」と言うと、趙高は、馬に見えるか鹿に見えるか、一人ずつ問うてみました。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿だと言いました。趙高は、鹿だと答えた官吏を一人残らず処刑しました。

趙高は反対者を粛清した後、胡亥を誅殺しました。

二世皇帝の死後、趙高は自ら皇帝になろうとしますが従う者はなく、諦めて、皇族で、人望の厚い子嬰(しえい)を三世皇帝として擁立しますが、趙高を憎悪する子嬰は、即位する直前に趙高を殺し、一族も皆殺しにしました。趙高の死により、秦国内の士気は高まりましたが、時既に遅く、反乱軍のリーダーの一人である劉邦(漢の高祖)の率いる軍勢が咸陽に迫っていました。漢の劉邦軍が咸陽に侵攻し、子嬰を守る者が一人も現れない中、子嬰が妻子を引き連れて、首に組紐をかけ(いつでも自殺する用意があることを示す)、皇帝のシンボルである玉璽(ぎょくじ)を捧げて、劉邦に降伏したのは、それから間もなくのことでした。子嬰が帝位にあったのは、わずか3ヶ月に過ぎません。

 

秦による中華統一から15年後、始皇帝崩御から、わずか2年半後に、秦王朝は、中国史上最も短命な王朝の一つとして滅亡しました。

始皇帝に抜擢されて、宮中の車馬係となり、始皇帝の末子胡亥の世話係に過ぎなかった宦官の趙高が裏切りの急先鋒となって権力を簒奪し、あれほど強大で盤石に見えた秦帝国を崩壊させてしまうとは、さすがの始皇帝も夢にも思わなかったことでしょう。趙高は、南宋の秦檜(しんかい)と並んで、中国史上最も悪名高い人物です。

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらわす  驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」

平家物語」の冒頭として有名なのは、ここまでですが、ここからが大事になります。

「遠く異朝(いちょう)をとぶらへば 秦の趙高 漢の王莽(おうもう)  梁の朱忌 唐の禄山 これらは皆君主先皇の政にも従わず 楽しみを極め 諌めをも思い入れず 天下の乱れんことを悟らずして 民間の愁うるところを知らざりしかば 久しからずして 亡じにし者どもなり」

平家物語」でも、趙高は、国を滅ぼした悪の権化のように語られています。

秦の早過ぎる滅亡の主たる原因は、趙高による乗っ取りだと思います。権力を皇帝一人に集中させた中央集権体制の乗っ取りです。

もう一つ、原因として挙げられるのが、「厳しい法」だと思います。西の外れの後進国だった秦が中華を統一することができたのは、商鞅が行った法家政策で富国強兵に成功し、国力をつけたからです。

でも、もし、労役に駆り出された場所に期限内に着けなくても、事情があれば考慮するという臨機応変な対応をとっていれば、陳勝呉広は反乱を起こさなかったかもしれません。厳し過ぎた法が秦を滅亡に導いたのなら、「秦は法によって興(おこ)り、法によって滅んだ」と言えます

 

始皇帝の晩年は、「不老不死」に憧れたり、長男を北辺の地に追いやったりと、迷走している印象を受けます。

 

塩野七生さんが、著書「ローマ人の物語」で、地中海帝国になった後のローマ帝国の歴史に「勝者の混迷」というサブタイトルを付けられたことに感銘を受けたのを覚えていますが、晩年の始皇帝もまさに、その言葉が当てはまるのではないかと思います。

中華統一を果たすまでが花だったのかもしれません。始皇帝と呼ばれるまでの嬴政から目が離せません。映画「KINGDOM  キングダム Ⅳ   大将軍の帰還」をお盆に観に行くのが楽しみです。

 

「LOVE♡で学ぶ世界史」の「キングダム編」は今回で最終となります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次の、「ディズニー編」も読んでいただけると幸甚です。