懐かしのシネマ編⑩

ナポレオンの巻✨

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「ナポレオン」

監督・プロデューサー  リドリー・スコット

脚本  デヴィッド・スカルパ

2023年 アメリカ・イギリス

パンフレットより引用

1793年、フランス。4年前に始まったフランス革命で、国王ルイ16世が処刑され、王妃マリーアントワネットも、ギロチンの下で生涯を終えました。コルシカ島に生まれた若き軍人ナポレオン・ボナパルトは、広場にて彼女の最後をじっと見ていました。革命の混乱に揺れるフランスで、ナポレオンは目覚ましい才能を発揮します。南部の都市トゥーローンを王党派(王政支持者)から奪還し、パリの市街地では、王党派の反乱を大胆な戦法によって鎮圧しました。その実力を買われ、軍の総司令官に任命されました。その頃、ナポレオンには最愛の女性ジョセフィーヌがいました。ある日、彼女の亡き夫が愛用していた軍刀を自宅に届けたことから、親密な関係となったのでした。2人は正式に夫婦として結ばれ、ジョゼフィーヌの連れ子たちも家族となります。しかし、ナポレオンの溺愛ぶりとは裏腹に、元より奔放なジョゼフィーヌは、すぐに別の男とも関係を持ちました。エジプト遠征中に妻の浮気を知ったナポレオンは、すぐさま帰国し、「よくも私の気持ちを踏みにじったな」と激怒しました。ジョゼフィーヌは、涙を流して謝罪しましたが、既に夫婦関係は奇妙にねじれ始めていました。

ナポレオンは快進撃を続け、自ら起こしたクーデターを成功させ、政府の最高権力者である第一統領に就任します。フランス帝国の皇帝にまで上り詰め、ジョゼフィーヌも皇后となりました。今やナポレオンは政治家・軍人のトップに立ち、すべてが思いのままでした。ジョゼフィーヌも豊かで優雅な生活を送る日々でした。しかし、それでも2人の心は満たされないままでした。

やがて、ナポレオンは戦争にのめり込み、凄惨な侵略と征服を繰り返すようになります。敵を容赦なく殺し、味方の犠牲も厭わない彼の残酷さを、既に人々は恐れていました。輝かしい栄光に翳りが見えてもなお、ナポレオンは戦いを続けます。才能溢れる若き軍人は、なぜ冷酷非道な悪魔に変貌したのでしょうか。果たして、ナポレオンを狂気に駆り立てたものとは何だったのでしょうか?

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監督・プロデューサー  リドリー・スコット

脚本  デヴィッド・スカルパ

2023年 アメリカ・イギリス

ポスターより引用

 

ナポレオンが配流先のセントヘレナ島で51歳の生涯を閉じる時、最後に呟いた言葉が「フランス、陸軍(軍隊)、陸軍総帥(軍隊のかしら)、ジョゼフィーヌ」だったといわれています。

 

この、彼の最後の言葉を軸に、ナポレオンの生涯を辿ってみたいと思います。

 

1つ目の言葉 「フランス」

ナポレオンが生まれたコルシカ島ジェノヴァの属国でイタリア領でした。長い間、コルシカ島の住民は、ジェノヴァの圧政に苦しめられていました。フランス領となったのは、ナポレオンが生まれる前年の1768年でした。

フランス本土ではなく、フランスに帰属してからの歴史も浅かったコルシカ島からやってきて、またたくまに「皇帝」となったナポレオンですが、フランス革命が勃発した当初は、フランスの政治に対する関心はあまり持っていなかったといわれています。政治に対するナポレオンの無関心ぶりが表れているのが、映画「ナポレオン」の冒頭における、マリー・アントワネットの処刑のシーンです。観衆から罵声を浴びせられ、野菜や汚物を投げつけられ、屈辱に耐えながら向かった断頭台で、ギロチンの刃が切って落とされアントワネットの首が転がります。死刑執行人がアントワネットの髪をつかみ、群衆に首をさらすシーンの残酷さに、どうして、こんな演出をする必要があるのか疑問に思った直後、斬首されたアントワネットの首を無表情に眺めているナポレオンが映し出され、その瞬間、このナポレオンの登場のために、アントワネットの処刑のシーンが必要だったのだと理解しました。ナポレオンの顔が映し出された瞬間、アントワネットは過去の人、ただの脇役になってしまいました。フランスに対する愛国心を持たないナポレオンにとって、フランス王家もそれほど憎むべき対象ではなかったのではないかと感じさせる、感情が欠如しているような表情でした。

ナポレオンは、9歳の時、親元を離れ、フランスのブリエンヌ=ル=シャトー陸軍幼年学校へ入学しました。拙いフランス語(田舎者まる出しのコルシカ訛り)でしか話せなかったため、無口で人づきあいも悪く、頭が大きくて背の低い、痩せっぽちのナポレオンは、格好のイジメの対象になっていました。

12歳の冬の出来事でした。大雪が降って、級友たちが雪合戦を始めました。自分がいたチームが劣勢に陥った時、ナポレオンが声を上げます。「みんな、各人がバラバラに攻撃したのでは、勝てる戦も勝てないぞ。まず陣地を構築せよ。兵站部隊(雪玉を作る係)を編成せよ」「部隊を左右両軍に分け、右翼は敵軍からの正面攻撃に耐えよ。そのすきに、左翼は敵部隊側方に回り込め」「今だ!左翼、敵軍側方砲撃開始!」ナポレオンの優れた指揮のおかげで、一気に形勢は逆転し、勝利を得たといいます。その日から、いじめられなくなったのは言うまでもありません。

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「ナポレオン」

監督・プロデューサー  リドリー・スコット

脚本  デヴィッド・スカルパ

2023年 アメリカ・イギリス

パンフレットより引用

 

2つ目の言葉 「陸軍(軍隊)、陸軍総帥」

ナポレオンの戦闘における初勝利は、ナポレオン24歳の12月、トゥーローン港においての攻囲戦に成功した戦いです。トゥーローン港は、フランスの地中海における重要な軍港でした。それは、現在もフランス海軍がトゥーローンに最大規模の軍事力を置いていることでも分かります。日本の横須賀港のモデルとなった港でもあるそうです。

1793年6月、フランスは「6月危機」と呼ばれる危機的な状況にありました。国境周辺は「対仏大同盟諸国」(イギリス・オランダ・プロイセン・ロシア・オーストリアサルディニア・スペイン・ポルトガル)に囲まれ、周囲のほとんどすべての国が敵国という状態でした。パリではジャコバン派ジロンド派が激突し、ジロンド派が追放されるという混乱劇があり、地方では、地下に潜っていた王党派たちが各地で反乱を起こし交戦状態にありました。こうした情勢の中で「トゥーローン要塞」において、王党派がジャコバン派を追放するという事件が起こります。王党派はトゥーローンの港を押さえてイギリスやスペインからの支援を取りつけることに成功し、陸上は堅固な要塞に護られつつ、海上からは潤沢な支援物資が得られることで、革命政府にとって看過できない勢力になっていました。

そんな状況のなか、砲兵隊長として赴任してきたのが、少佐になったばかりの24歳のナポレオンでした。「トゥーローン要塞」を正面から攻撃するのは愚策だと判断したナポレオンは、対岸のルケール丘を攻撃して陥とし、次に、ルケール丘から一望できるエギュイット岬を陥して、そこからトゥーローン港に砲弾を浴びせるという戦法を取ります。ナポレオンは戦死をも厭わない獅子奮迅の活躍を見せ、騎乗した馬は直撃弾を受け即死し、彼自身も足を負傷しながら、12月17日「トゥーローン要塞」を陥落させることができました。 指揮権を与えられてから1ヶ月も経っていませんでした。

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「歴史を探究し未来を創造する 世界史のミュージアム

発行者 星沢卓也

発行所 東京法令出版 株式会社

より引用

 

「トゥーローン要塞」を陥落させた後、「ヴァンデミエールの王党派の反乱」を鎮圧し、司令官に就任して「イタリア遠征」を行い、大勝利を得ます。1798年の「エジプト遠征」には失敗しましたが、「ブリュメール18日のクーデタ」を起こして総裁政府を倒し、第一統領として政権を握ってフランス革命に終止符を打ちます。1802年の「アミアンの和約」で、イギリスと講和した功績により、1804年、ナポレオンは、国民投票により皇帝として即位します。

 

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「ナポレオンの戴冠式

ダヴィ

「NEW  STAGE 世界史詳覧」

発行者 株式会社 浜島書店

    代表者  浜島拓央

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

ナポレオンはフランス皇帝としての戴冠式から2週間あまりが経った1804年12月18日、画家のジャック=ルイ・ダヴィッドを皇帝の主席画家に任命しました。ダヴィッドはナポレオンが皇帝に即位する前後の行事をいくつか描くことをナポレオンに提案しました。

4つの作品の提案があり、「聖別式」「即位式」「鷲の軍旗の授与」「皇帝の市庁舎到着」でした。このうち、「聖別式」と「鷲の軍旗の授与」が完成しました。「聖別式」が今日、ルーブル美術館に展示してある「ナポレオンの戴冠式」です。この絵には、歴史の事実とは違っている点がいくつかあります。戴冠しているナポレオンを正面の観覧席から見ているナポレオンの母、レティチアは息子が皇帝になることに反対し、ジョゼフィーヌのことも快く思っていなかったことから、戴冠式には出席せず、イタリアへ行っていました。ナポレオンの背後で、椅子に座って戴冠を見守る教皇ピウス7世の隣に並んでいるのは、カプララ枢機卿ですが、彼もまた当日病気のために欠席していました。ナポレオンの背後に座る教皇ピウス7世の描き方ですが、これほど教皇の立場をないがしろにした絵は珍しいといわれています。まるで式の添え物のような扱いになっています。この教皇の描き方で、ダヴィッドが伝えたかったのは、フランス皇帝の戴冠式という、それまでの歴史には前例のない儀式をナポレオンがどう執り行おうとしたかです。それまでの歴代フランス国王の聖別は「ランス大聖堂」で行われていましたが、それに対抗してかナポレオンは「ノートルダム大聖堂」を選んでいます。その上、新皇帝は教皇によって戴冠されるのではなく、国民投票による圧倒的多数の支持を得て、自らの力によって皇帝になるというナポレオンの強い自負がそこにあります。 ピウス7世は憮然とした表情でミサを行い、皇帝夫婦の額に、聖油を塗って聖別し、ナポレオン自らが冠を自分の頭に載せた後、ジョゼフィーヌにも皇妃として戴冠するのに立ち会うと、すぐに退場させられています。実際ピウス7世は、戴冠式に出席を要請された時、健康上の理由で、ローマからパリまで行くことを断ったといいます。最初の完成画では、ピウス7世は両手を膝に置いていましたが、教皇の賛同を強調したいナポレオンが描き直しを命じたといわれています。嫌々戴冠式に立ち合わされたピウス7世の胸の内を、ダヴィッドは見事に描いています。

ダヴィッドが提案した皇帝就任におけるセレモニーの4つの絵の内、2つの作品しか完成しなかったのは、ナポレオンの立場が少しずつ悪くなったからです。

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「NEW  STAGE 世界史詳覧」

発行者 株式会社 浜島書店

    代表者  浜島拓央

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

ナポレオンが皇帝に即位したことで、1805年、イギリスとロシアが対仏大同盟を結成します。オーストリアは「リュネヴィル条約」(1801年2月にフランスとオーストリアの間で締結された平和条約)があったので、これに参加できませんでしたが、ナポレオンの皇帝即位には憤慨しました。当時のオーストリアの正式な地位は「大公」でしたので、皇帝一族としての歴史と伝統を持つ、由緒正しく、格式もある誇り高きハプスブルク家コルシカ島の小貴族出身であるナポレオンのボナパルト家より格下になってしまいました。フランツ2世は「神聖ローマ帝国の帝位」を持っていましたが、既にこの頃の神聖ローマ帝国は「有名無実」で実体のない名ばかりの帝国でした。そこで、神聖ローマ帝国フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世として即位しました。その後、「リュネヴィル条約」で獲得したイタリア共和国を王国に改編し、国王に即位したナポレオンを条約違反として糾弾したオーストリアはイギリス・ロシアの同盟に参加し、ここに「第3回対仏大同盟」が成立しました。

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「NEW  STAGE 世界史詳覧」

発行者 株式会社 浜島書店

    代表者  浜島拓央

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

潰しても潰しても生まれてくる「対仏大同盟」この悪循環を断ち切るためには、元凶のイギリスを粉砕しなければならないと考えたナポレオンはイギリス本土上陸を試みます。ところが、フランス海軍がイギリス海軍との戦いに手間取っているうちに、オーストリア陸軍が動き始めました。

「イギリス上陸作戦」を断念し、ドーバー海峡に集めていた軍隊を転進させ、さらにパリからも軍を動員し、総計21万の大陸軍(グラン・ダルメ)を以て、南ドイツに展開するオーストリア軍に対峙させます。オーストリア軍を「ウルム」に釘付けにしておいて、ナポレオンは大陸軍主力を迂回させ、オーストリア軍の背後を突き、包囲します。退路を絶たれたオーストリア軍を降伏に追い込み、「ウルムの戦い」で勝利しました。

ウルムでの大勝利の報にフランス国民は沸き立ちます。しかし、その翌日、フランス・スペイン連合艦隊がネルソン提督率いるイギリス艦隊に「トラファルガー沖の戦い」で粉砕されてしまいます。この敗戦により、フランス海軍は壊滅し、イギリス本土上陸作戦が潰えただけではなく、ウルム戦後の和平交渉も頓挫する可能性が濃厚になりました。ナポレオンは、トラファルガーの敗戦を払拭する大戦果を挙げるため、わずか1ヶ月でウルムからウイーンまでを走破しました。オーストリア皇帝フランツ1世は帝都を放棄し、モラヴィア(現チェコ共和国東部)でロシア皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍と合流したので、ナポレオンはウィーンに無血入城を果たします。しかし、ウイーンには、西からオーストリアのイタリア方面軍が、東からは、老将クトゥーゾフ率いるロシア軍が迫り、三方からウイーンを包囲しつつありました。ナポレオンはモラヴィアアウステルリッツで決戦することを決意します。

ナポレオン軍とロシア・オーストリア連合軍との決戦が行われたのは、12月2日、ちょうど1年前、ナポレオンの戴冠式が行われた記念すべき日でした。戦いが始まると、ナポレオンはわざと右翼(南翼)を手薄にした布陣をとり、敵の攻撃をそちら側に集中させます。そして、右翼への攻撃により、敵軍の中央部が薄くなったところを突破して、敵を分断し、包囲殲滅することに成功しました。こうして、フランス軍は大勝利を収めました。この、「アウステルリッツの戦い」は、フランス皇帝ナポレオン1世オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が会して戦ったことから、「三帝会戦」と呼ばれるようになります。当時、ヨーロッパに3人しか存在しなかった皇帝が相まみえた稀有な戦いといえます。

 この「アウステルリッツの戦い」で、ナポレオンはその軍事的才能を最大限に発揮し、最も輝かしい勝利をもたらしました。

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「戦争の世界史 大図鑑」

編集者 R・G・グラント

日本語版総監修 樺山紘一

翻訳 マーリンアームズ株式会社

発行者 小野寺優

発行所 株式会社河出書房新社

より引用

 

アウステルリッツの戦い」を巡る有名な「伝説」として、ザッチェン湖の話があります。フランス軍に追い詰められたロシア・オーストリア連合軍が、戦場の南部にある氷の張ったザッチェン湖の上を渡って逃げ出しました。ナポレオン軍は途中で追撃をやめ、逃げる連合軍が湖の中ほどまで行ったのを見届けると、湖上の敵ではなく、天に向かって砲撃命令を出します。大砲25門が一斉に天に向かって砲撃を開始し、やがて落下した砲丸は次々と湖の氷を割っていきました。その結果多くの連合軍兵士や馬が氷の海に飲み込まれて溺れ、冷たい水に体力を奪われて凍死したといわれています。

映画「ナポレオン」で、一番印象に残っている戦闘シーンが、この「アウステルリッツの戦い」です。特殊効果スーパーバイザーとして起用されたニール・コーボールドのこの映画における一番の功績は「敵の馬が落ちる湖」を作ったことです。彼がとった方法は、雪で凍った湖そのものを作り上げることでした。彼は、200〜300エーカー(約80万〜120万m2 東京ドーム約17〜26個分)のロケ地に大きな穴を掘り、傾斜をつけ、固めるしかなかったと語っています。共に仕事をした調馬師のダニエル・ナプロスは、凍てつく氷の上で馬が氷を突き破る戦闘シーンを撮影するのに、「本物の馬が演じられる場面と、機械の馬を使う必要がある場面を見極めることが重要で、私たちは安全な範囲内で、できる限り本物の馬を起用しました」と語っています。

 

当時、ナポレオンを最も敵対視していた国は、大英帝国(イギリス)でした。ナポレオンをセントヘレナ島へ流してしまうまで、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。この徹底ぶりが最後には、ワーテルローでナポレオンの息の根を止めることになるのですが、そこに至るまでのイギリスの反ナポレオン作戦は、まさに国を挙げての攻撃でした。そのイギリスのピット首相は、ナポレオンを「革命騒ぎの宝くじを、最後に引き当てた男」と蔑んだ表現をしています。

アウステルリッツの戦い」の結果を聞いたピットは、天を仰ぎ、側にいた召使いに「そこにあるヨーロッパの地図をしまいたまえ。もはやその地図は、今後7年間は使い物にならないだろう」つまり、「この戦いの勝敗により、ヨーロッパの国々の領域支配が大きく変更され、地図は塗り替えられるだろう」しかも、7年後といえば、1812年でナポレオンが「ロシア遠征」で敗退する年です。ピットの慧眼ぶりには目を見張るものがありますが、ピットは間もなく病に倒れ帰らぬ人となります。

下の絵は、地球というケーキを取り合うナポレオンとピットを描いた風刺画です。

イギリスが海洋を、フランスが大陸を取ろうとしています。

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

発行者 松本洋介

発行所 株式会社 第一学習社

より引用

 

アウステルリッツの戦い」で敗れたオーストリアは、「プレスブルクの和」という、極めて過酷な講和条約を結ぶことになります。「ヴェネツィア」「イストリア」「ダルマティア」「チロル」を割譲させられた上、5000万フランという莫大な賠償金を課せられます。これにより、オーストリアは、人口の15パーセント、歳入の17%を失いました。さらに、西ドイツの16の諸邦に「神聖ローマ帝国」からの離脱を宣言させ、そこに「ライン同盟」を結成させ、オーストリアに代わりフランスが新しい統治者になりました。有名無実の帝国であった「神聖ローマ帝国」の、その名前すら消えてしまうことになります。こうして、1806年「神聖ローマ帝国」は消滅しました。

オーストリアに、過酷な条件を押し付けたために、イギリス、ロシアはもちろん、これまで中立を保ってきたプロイセンまでフランスを警戒するようになります。プロイセンは「第1回対仏大同盟」には参加したものの、その後「第2回、第3回の対仏大同盟」には中立を保ってきました。そのプロイセンが再びフランスへの開戦を決意します。

しかし、「イエナ、アウエルシュタットの戦い」でプロイセン軍は大敗し、ナポレオンは10月27日にベルリンに無血入城を果たします。

ベルリンを占領したナポレオンは「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発布しました。ナポレオンの支配下、あるいは同盟関係にあるヨーロッパ諸国に対して、イギリスとの通商を全面禁止し、イギリスの商品を大陸から締め出すことで、ヨーロッパをフランス産業の市場にすることを狙ったものです。

 

「ベルリン勅令」はポルトガルやスペイン、ロシア等のイギリスへの穀物輸出が重要であった国に反発をもたらしました。「 革命の申し子」として登場し、フランス革命の所産である「自由の精神」と「人間解放」を標榜したナポレオンでしたが、皇帝即位後は兄のジョゼフをスペイン王に、弟ルイをオランダ王に据えるなどボナパルト家の栄達を図り、支配者然とするようになったことも反発を受けました。

1808年、イギリスとの密貿易をやめないスペインとの「半島戦争」が始まります。後にナポレオンが「スペインの潰瘍が私を破滅に追い込んだ」と供述したように、これが、ナポレオン没落の始まりとなります。

 

ナポレオン軍の強さの理由の1つ目は、「兵士の士気の高さ」です。フランス革命期の対外戦争の中で形成された義勇軍に、1793年に成立した「国民総動員法」により、兵士として駆り出された18歳から25歳までの男性が加わります。そして、1798年には正式に徴兵制度が確立します。祖国を防衛するという目的意識を持つ兵士が多かったことに加え、他国に比べてフランス軍の費用が安かったことも功を奏します。他のヨーロッパ諸国は、傭兵による高額な軍隊を使っており、それはどこの国にとっても重い財政負担になっていました。でも、フランスは徴兵制の導入により、安い費用で大きな軍隊を動かすことができました。

 

2つ目は「優れた機動力」です。ナポレオンは、独立的に行動できる師団と複数の師団から成る軍団を編成して、戦闘を超える「作戦(オペレーション)」という概念を作りました。「作戦」は、今日の軍隊では常識となっていますが、その発端はナポレオンの戦術革命で、軍事史上におけるナポレオン最大の功績であるともいわれています。

ナポレオンは横隊と縦隊の混合隊形を好みました。戦場の最末端で行動する部隊の基本単位である歩兵大隊を徹底して鍛えることにより、ナポレオンの意図する戦い方が戦場で具現できるようになりました。彼は、歩兵大隊を中隊、小隊に分割して、縦隊から横隊へ、横隊から縦隊へ素早く変換できるように、ブローニュ宿営地で徹底して教練を行いました。ドーバー海峡に面するブローニュは、カレーのおよそ30キロメートル南西に位置しています。ナポレオンはイギリス本土への侵攻に備えて、ブローニュ郊外に10万人をはるかに超える部隊を集結しました。大規模な宿営地を建設して、イギリス上陸後の戦闘を想定した野外訓練を2年間にわたって徹底して行いました。部隊の団結力は、ブローニュの同一場所で同じ部隊が寝食を共にし、実際の戦闘で彼らを指揮する将校、下士官と訓練を共にすることによって、さらに強固なものになりました。ブローニュ宿営地の長期訓練から誕生した新生陸軍(1805年8月26日に発足した「大陸軍」)は、革命後に徴収され、おどおどしていた素人の兵隊たちの集団ではありませんでした。タフでプロフェッショナルなヨーロッパ最強の軍隊に成長していました。

 

3つ目は「徹底した作戦」です。ナポレオンは、「火力を集中」して激しい砲撃を浴びせ、「中央突破」した後「各個撃破」するのを得意としました。

しかし、この戦法は、ヨーロッパの平原では上手くいきますが、スペインの山岳地帯では通じませんでした。しかも、敵は「民間人によるゲリラ戦」で、ナポレオン軍がまったく経験したことのない敵でした。ゲリラはバラバラに散開して戦うので、これまでのように集中的に砲撃(火力を集中)して中央突破して分断し、各個撃破するというナポレオン戦法が通用しませんでした。

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「大ナポレオン展 文化の光彩と精神の遺産」

図録 より引用

 

ナポレオンについて書かれた本は三十万点を超えるといわれています。これだけの数になると、当然ナポレオンに対し、様々な見解が出てくることになります。英雄視するものもあれば、侵略者、征服者として扱っているものもあります。いずれにしても、彼が戦闘に長けただけの軍人ならば、後世にこれほど語り継がれる英雄にはならなかったでしょう。彼は己の行動を演出し、装飾し、権威付ける天才でもありました。アレクサンドロス大王しかり、ジュリアス・シーザーしかり、自己宣伝に長けた人物が英雄として歴史に名を残します。

軍事的指導者、政治家として、並外れた才能でフランス革命後の混乱を統制し、国外へも勢力を広げて、強大なフランス帝国を築き上げたナポレオンは、その一方で、文化や芸術面にも強い関心を寄せ、彼の時代には、新古典主義アンピール様式といった新しい美術が流行します。こうした美術様式は、絵画や彫刻のみならず、建築や室内、装飾、家具などにも、取り入れられ、美しい品々が、数多く製作されました。また、エジプト遠征の際には、多数の学者や芸術家を同行させて、エジプトについての調査・研究を行ったり、ルーブル宮殿を美術館として、広く一般市民へ公開し、さらには、サロンの組織改正にも取り組むなど、19世紀初頭のフランス文化、芸術はナポレオンの存在によって大きな飛躍を遂げました。

ナポレオンの戦闘における装備品の美しさは、軍旗一つをとっても、デザイン、色み、豪奢さにおいて、当時のヨーロッパの軍隊の中で、並外れて優美であったことが分かります。ナポレオン直属の近衛兵の軍服、銃剣、大砲、馬具等は、戦闘するための道具というより、舞踏会へ、そのまま出られるような華奢なものでした。戦前の日本においても、若者が軍隊へ入る時に、「海軍のあの軍服に憧れて」という言葉をよく口にしていたそうですが、軍隊というところは、伝統として「伊達ぶり」を大切にして、それは全世界共通のものでした。

 

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参考文献

「図説 戦争と軍服の歴史」

著者 辻元よしふみ 

イラスト 辻元玲子 

発行者 小野寺優

発行 株式会社河出書房新社

 

それなのに、ナポレオン自身は、あれほど出世した人物であるにもかかわらず、驚くほど着るものに無頓着であったといわれています。彼は、士官学校へ入って以来、ほとんどの時間を軍服で過ごしました。皇帝となってからも同じ服装で通した、数少ない人物です。一般に「ナポレオンの帽子」と呼ばれる、ナポレオンのトレードマークとなった「二角帽」は共和制フランス革命の象徴として、革命派が愛用していた帽子です。

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2024年5月に、フランス旅行した時に、訪れた「La Procope」という、フランス革命時代からあるパリ最古のカフェに、ナポレオンの帽子が展示してありました。

 

ナポレオンの時代にフランスで初めてガストロノミー(美食芸術学)が生まれます。この時代に、パリには、大型のレストランが次々に誕生し、貴族や特権階級の人たちが、美食を楽しむことができました。ですがナポレオンは、何かにつけ、常に急いでいる人でしたので、食事も鶏の手羽を口に放り込み、ワインをコップ1杯飲んで、たったの10分で済ませたりしていました。節度を重んじていたので、酒は嗜む程度しか飲みませんでした。

フランスの歴史の中で、ナポレオンの時代の国民は失業者もほとんどなく、唯一の完全雇用の時代でした。しかも、好景気でした。革命以前のフランスは農業国で国民の90%を占めていた農民は不当な重税に苦しんでいました。封建主義の法律に、庶民は虐げられていました。革命政府は、貴族や聖職者が支配していた土地や資産を没収し、農民は、これらの土地を無償で手に入れることができました。この改革は、平等と言う名のもとに発せられた「人権宣言」の賜物でもあります。ナポレオン戦争は、それまでの封建社会を守ろうとする他のヨーロッパ諸国に対して、「人権宣言」を擁護する戦いでもあり、戦いに勝てば、フランスの経済利益を生みました。軍事力を増やすために、若者は兵士になり、労働者は高いサラリーを得るようになり、公務員は行政の仕事に従事し始め、失業者はいなくなりました。農民と労働者の生活が飛躍的に改善されたのもナポレオンの時代でした。こんなフランスの繁栄が「ロシア遠征」まで続きました。

 

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映画「ナポレオン」

監督・プロデューサー  リドリー・スコット

脚本  デヴィッド・スカルパ

2023年 アメリカ・イギリス

パンフレットより引用

 

 

3つ目の言葉   「ジョゼフィーヌ

「ナポレオンにとって人生最大のキーパーソン、それが最初の妻であるジョゼフィーヌ・ボーアルネ。時には愛をささやき、時には互いを罵る、二人の奇妙な夫婦関係。これは激しく愛し合い、信頼し合い、そして激しく傷つけ合った夫婦の歴史でもある」

映画「ナポレオン」パンフレットより引用

 

6歳年上で二人の子持ち、ましてや自身の上官の愛人でもあったジョゼフィーヌにナポレオンは一目惚れしてしまいます。出会った日のジョゼフィーヌは、当時フランスの流行の最先端だったショートヘアにウエストを絞らないエンパイア型のドレスに身を包んでいました。フランス革命後の「恐怖政治」時代に、貴族としての誇りは捨てずに、自由を求める進取の気性も持ち合わせ、ファッションから言動に至るまで、それまでとは違う価値観を持つ先進的な女性でした。コルシカ島生まれのうぶで武骨な軍人が、際立ってクールで洗練された雰囲気を持つジョゼフィーヌに一瞬で心を奪われたのも無理からぬことでした。

 

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」 

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

1810年1月10日、自らの権威を増すために、ナポレオンは嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚しました。これにより、オーストリアとの関係が改善すると、ナポレオンはロシアを制圧して大陸支配を完成させようとしました。ロシアは「ベルリン勅令」に背いて、イギリスへの穀物輸出を継続していました。1812年6月に、60万の遠征軍がロシアに侵攻しました。9月に「ボロディノの戦い」でロシア軍を退却させ、モスクワに入城しましたが、モスクワの火災とクトゥーゾフ将軍による「退却、焦土戦術」により、ナポレオンは得意の短期決戦に持ち込むことができず、 例年より早く冬将軍(マイナス30度のシベリア寒気団)が襲来したことも重なり、10月に撤退を余儀なくされます。フランス軍が撤退すると見るや、ロシア軍は容赦なく追撃し、大敗北を喫したフランス「大陸軍」は消滅し、祖国に生還できた兵士は一万人もいませんでした。

 

ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚した時「大陸軍」の兵士たちは不安に駆られます。ナポレオンが不敗神話を築き上げていった時期とジョゼフィーヌと結婚した時期が重なるため「大陸軍」の兵士たちは、ジョゼフィーヌを「勝利の女神」と見立てていました。ナポレオンが離婚をほのめかすあたりから、次第に夫を敬い、愛するようになったジョゼフィーヌでしたが、時既に遅く、不貞を詫び「離婚しないで」とすがる彼女に、もはや恋多き女、悪妻の面影はありませんでした。

離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だったといわれています。それ以降、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送りましたが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許されました。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリー・ルイーズが嫉妬するほどでした。

ジョゼフィーヌと離婚して以降、ナポレオンの戦勝記録にケチが付き、負け戦を重ねていくようになります。雄々しいほどの包容力を持つ、この糟糠の妻こそ、やはり「勝利の女神」であったことが、映画「ナポレオン」を観ることで理解できます。

「38戦35勝」という輝かしい戦勝記録を残すナポレオンが敗れた3つの戦いとは、1812年の「ロシア遠征」、「諸国民開放戦争」とも呼ばれる1813年の「ライプチヒの戦い」、1815年の「ワーテルローの戦い」です。

ライプチヒの戦い」で、ほぼ全ヨーロッパ諸国を敵に回し、敗れたナポレオンは退位に追い込まれ、1814年4月エルバ島に配流されます。ルイ16世の弟、ルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活しました。しかし、1815年2月26日、ナポレオンは、わずか千の手勢でエルバ島を脱出し、熱狂のなかパリに凱旋し、皇帝に復位しました。

再起を賭けて、ナポレオンが「第7回対仏大同盟」を結成したイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンスウェーデン等、ヨーロッパの主要国全てを敵に回して戦ったのが「ワーテルローの戦い」です。同盟軍の総兵力67万に対し、フランス軍はわずか12万4000でした。5倍以上の同盟軍が続々とベルギーに集結しようとしていました。ベルギーに同盟軍が集結する前に、イギリスのウェリントン将軍率いるイギリス・オランダ連合軍を撃破するため、ナポレオン軍はウェリントンが陣を構えるベルギーのワーテルローに向かいます。ナポレオンがワーテルローに到着した6月17日は土砂降りの雨が降り、決戦は翌日に延期されました。翌日は晴天となりましたが、前日までの雨で辺り一面ぬかるんだ状態でした。ナポレオンは、大砲を移動させるのに、地面が整うのを待ち、さらに数時間決戦を延期しましたが、この数時間の延期が勝敗を分けることになりました。この戦いは「時間との戦い」でした。続々と集まってくる同盟軍が結集する前に、勝敗を決しなければ勝てる見込みはありません。開戦し、時間が経つにつれて敗色濃厚となるなかで、「プロイセン軍を追撃せよ」という命令を受け、別行動をとっていたグルーシー元帥が駆けつけてくれるのを信じて、東からグルーシー軍が現れるのをナポレオンは待っていました。ところが、待ち続けたグルーシー率いる援軍のかわりに、ナポレオン軍から見て東側(右翼方面)に現れたのがプロイセンの大軍であったことが、戦いを決定付けたことはよく知られています。

ウェリントン将軍に「ナポレオンはまともに戦えていない」と言わしめるほどの空転ぶりを露呈してしまった、この「ワーテルローの戦い」に敗北し、ナポレオンは再び退位し「百日天下」と呼ばれます。

ジョゼフィーヌは、ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が「百日天下」でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死してしまいます。彼女の最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王(ナポレオンとマリー・ルイーズとの間に生まれた嫡子)、エルバ島」でした。帰還したパリで彼女の急逝を知らされたナポレオンがどれほど落胆したか、想像に難くありません。ジョゼフィーヌは、ナポレオンが生涯愛し続けた女性であり、運命で結ばれた女性でした。

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「ナポレオン」

監督・プロデューサー  リドリー・スコット

脚本  デヴィッド・スカルパ

2023年 アメリカ・イギリス

パンフレットより引用

 

グルーシーが駆けつけてくれていたら」

ワーテルローに前日雨が降っていなければ」

そして、

ジョゼフィーヌが生きていたら」

歴史に「IF」は禁物ですが、フランス贔屓の私としては、つい、そんなことを考えてしまいます。  同盟軍を率いたウェリントン将軍は、後に「戦中、何度も負けるのではないかと不安に駆られた。実際、もう少しで負けるところだった」と述懐しています。ウェリントンはまた、「ワーテルローの勝利は、イートン校の校庭で成し遂げられた」という言葉も残しています。母校イートン校での修練が将軍としての資質を磨いたということでしょうか。好きな言葉です。

この「ワーテルローの戦い」が、三つ目の負け戦となり、そしてナポレオン最後の戦いとなります。 イギリスによって大西洋の孤島「セントヘレナ島」に配流され、再びフランスの地を踏むことはありませんでした。

 

歴史において、価値観の大きな転換が起こる時には、時代のシンボルとなるような「英雄」が生まれて民衆の心に神話のように刻まれて残るということは少なくありません。けれども、ナポレオンのように、名もない一般民衆から知識人や思想家に至る全ての階層の人々を熱狂させた人間はいません。そのような英雄を前にして、瀕死の神の権威を引きずっていたヨーロッパの王たちは慌てざるを得ませんでした。王たちの敗北は、神から王権を授けられていたはずの彼らの驕りに対する「神罰」のようにも見えます。

無名の流れ者に等しかった若きナポレオンによってヨーロッパを征服された王たちは、ナポレオンの没落とともに「復活」しましたが、一旦「神罰」によって滅ぼされた王たちは、再び「王権神授説」のオーラを纏うことはできませんでした。

 

「私の遺体はセーヌ川のほとりに葬ってほしい」というナポレオンの遺言は無視され、セントヘレナ島に葬られましたが、20年後、遺言どおり、セーヌ川のほとり、廃兵院(アンヴァリッド)の地下墓地に葬られ、そこがナポレオンの安住の地となりました。

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「ナポレオンのデスマスク

「大ナポレオン展」

図録 より引用

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「大ナポレオン展」

図録 表紙

より引用
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「大ナポレオン展」

フライヤー

より引用

 

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「NEW  STAGE 世界史詳覧」

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

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参考文献

「世界史劇場 駆け抜けるナポレオン」

著者 神野正史

発行者 内田真介

発行 ベレ出版

名著です。

 

 

懐かしのシネマ編⑨

蒼き狼 地果て海尽きるまで✨の巻

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蒼き狼 地果て海尽きるまで」

モンゴル建国800年記念作品

製作総指揮 角川春樹

製作 角川春樹 千葉龍平

原作 森村誠一「地果て海尽きるまで

   小説チンギス汗(上下)」

2007年製作

フライヤーより引用

 

監督 澤井信一郎

脚本 中島丈博 丸山昇一

モンゴル部族の長イェスゲイの第一子として生まれ、彼らの始祖「蒼き狼」の生まれ変わりと言われたテムジン(後のチンギス・ハン)は、部族の未来を担う存在として大切に育てられました。ところが、14歳の時、父イェスゲイが対立する部族に毒殺されると、イェスゲイの勢力は一気に瓦解してしまいます。母親が敵から略奪された身であることを理由に、父の部下たちに見捨てられ、その上、母は父と出会う前に既にテムジンを宿していたのではないかという疑いまでかけられました。

しかし、不屈の魂を持つテムジンは、母と弟妹たちを守るため、様々な困難に決然と立ち向かうのでした。やがて、テムジンのリーダーとしてのカリスマ性に心酔する者たちが集まり、一目で恋に落ちたボルテを妻に迎え、テムジンは着々と勢力を拡大していきました。しかし、モンゴルを統一するという壮大な夢に向かって踏み出した時、ボルテを敵の部族に略奪されてしまいます。10ヵ月後、ようやく、妻を救出した時には、彼女は妊娠し既に臨月を迎えていました。やがて生まれた自分の子かどうかわからない赤ん坊を、テムジンはジュチ(よそ者)と名付けます。再び繰り返される宿命に苦悩するテムジン。やがて、成長した息子ジュチに、テムジンは、過酷な任務を与えるのでした。

自らの出生の秘密にまつわる苦悩、同じ宿命を背負った息子への愛と憎しみ、生涯の友情を誓った友との対立と裏切り、略奪された妻を愛するが故の葛藤、そして、めぐり逢ったもう一つの愛。歴史に秘められた英雄の素顔が、今解き明かされます。

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映画「蒼き狼  地果て海尽きるまで」

蒼き狼の地 モンゴル〜

PHOTO  BOOK

より引用

 

チンギス・ハンがテムジンと呼ばれる少年だった1170年代、ユーラシア大陸には、東から順に、ツングース女真族の金、チベット系タングート族の西夏、タミル盆地東部のトルコ系ウイグル王国、モンゴル系契丹族の西遼、シル川の南にトルコ系のイスラム王朝であるホラズム王国と、人種も言語も宗教も異なる国々が並んでいました。

これらの諸国を貫く、いわゆる「絹の道(シルクロード)」と呼ばれる貿易ルートはありましたが、その道は、細くて危険で、コストのかかる道でした。そこには、共通の秤(はかり)もなく、升(ます)も通貨もなく、取引は物々交換でした。だから、絹のような高価なものが中国から少量運ばれるにとどまりました。交易路から外れた北方の草原では、住民は貧しい遊牧生活を営んでいました。彼らにできたのは、毛皮や馬匹(ばひつ)を提供して、せいぜい綿や茶、穀物等を得るくらいでした。だから、北方の遊牧社会は常にモノ不足で、それを補うために、農耕社会に侵入して略奪するか、軍事的圧力をかけて、経済援助を取り付けるかしかなかったのです。中国の歴代王朝は、漠北(ばくほく)と呼ばれた、中国領土の北側からの侵入と略奪を防ぐため、万里の長城を築きました。たとえ、自身が遊牧民族出身の王朝であってもです。チンギス・ハンの少年時代に中国北部を支配した女真族金王朝は、狩猟民族出身であるにも関わらず、モンゴル草原の有力部族を制圧して監視と防衛に当たらせると同時に、大興安嶺山脈とゴビ砂漠に沿って長大な塹壕を掘って防衛線としました。チンギス・ハンが現れる前のユーラシア北部の情勢は、千年前の漢の時代とあまり変わっていなかったといえます。

 

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」

発行者 株式会社 浜島書店

    代表者 浜島拓央

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

ところが、チンギス・ハンが征服活動を進め、13世紀後半になる頃には様相は一変します。東は黄海から西は黒海まで、南はアラビア海南シナ海から北はタイガ地帯まで、ユーラシア大陸の8割以上がチンギス・ハンの子孫の支配に服し、地理的な境界と人種や宗教による差別のない世界になっていました。「13世紀はモンゴルの時代」と呼ばれる所以です。チンギス・ハンの孫のフビライ南宋を滅ぼした後、中国本土に建国し、初代ハンとなったのが元王朝です。チンギス・ハンの次男のチャガタイが初代ハンとなったのがチャガタイ=ハン国で、長男ジュチの息子バトゥがロシアに建国したキプチャク=ハン国、四男トゥルイの息子フレグがペルシアのアッバース朝を滅ぼして建国したイル=ハン国と合わせて三ハン国と呼ばれます。

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」

発行者 株式会社 浜島書店

    代表者 浜島拓央

発行所 株式会社 浜島書店

より引用

 

「13世紀はモンゴルの時代」を可能にしたモンゴル軍の強さの秘訣として3つ挙げるとすれば、

1つ目に挙げられるのが、「弓矢の威力」です。

モンゴル軍の圧倒的な強さは、中心兵器である弓矢の殺傷能力の高さにありました。射手は重い弓と軽い弓の2種類を携えていました。重い弓は短距離用の広い矢尻がつけられました。軽い弓は長距離用で、矢尻は鋭く尖っていました。真っ赤にしてから塩水につけて、鍛えられた矢尻は極めて硬かったといわれています。

 モンゴル騎兵が弓を引く際は、石を刻んで作った指輪を親指にはめたといいます。チンギス・ハンの時代、指輪は工芸品として珍重されました。映画「蒼き狼 地果て海尽きるまで」の中で、ジュチがチンギス・ハンに「戦利品の中から好きなものを取っていい」と言われて選んだのは、親指にはめる石製の指輪でした。

 

1241年のワールシュタット(リーグニッツ)の戦いで、ジュチの息子バトゥ率いるモンゴル軍にポーランド・ドイツ諸侯連合軍は敗北しました。馬上から矢を射ることなど考えもせず、鈍重な馬で、ただ突進し、槍で1対1の勝負をしていたヨーロッパの騎士たちは、馬と一体となって、凄まじいスピードで矢を連続して射ってくるモンゴル騎兵の前にひとたまりもありませんでした。

 

2つ目に挙げられるのが「モンゴル馬の特性」です。

比較的小柄なモンゴル人と同様に、モンゴル馬も小型で短脚で、最も野生の馬に近いと言われています。品種改良が繰り返されて、背が高くなったサラブレッドやアラブ系の馬と比べると、かなり小さいです。モンゴルでは、馬の背に乗せる鞍は「立ち鞍」と呼ばれる独特の鞍で、座るための形をしていません。モンゴル騎兵は馬にまたがる時、鞍から尻を浮かせて、ほとんど直立姿勢で騎乗しました。両足でしっかりと馬の胴体を挟めば、フリーハンドになることが可能でした。さらに、モンゴル馬には珍しい特徴がありました。多くの馬が左右の足を同時に前に出して走るのに比べ、人間と同じように、左右の足を交互に出して走る「ジョロー(側対法)」と呼ばれるタイプの馬が珍重されました。このジョローは、乗っていて、上下の揺れが非常に少ないため、モンゴル騎兵は、ジョローの上で直立姿勢で弓矢を構え、揺れの非常に少ない状態で狙いを定めることができました。驚くべき命中率で次々と矢を連続発射し、居並ぶ敵を次々と倒すことができたのはこのためです。モンゴル馬とアラブ系の大型長脚馬とを走らせると、初めの2千メートルまではアラブ馬が速くて二百メートルほど先行します。でも、それからは同じくらいになり、五千メートルを超えるとモンゴル馬が優位に立ちます。強そうに見えないモンゴルの人と馬に挑発されて、イスラムやヨーロッパの騎士が攻撃するとモンゴル軍は退却します。その差はみるみる縮まり、もう少しで捕捉できそうに思えるのですが、それからが縮まりません。焦るうちに重装備のイスラムやヨーロッパの騎兵は人馬ともに疲れ果て、そこに伏兵が現れて退路を断ち、逃げていたモンゴル騎兵は突然反転して逆襲してきます。馬の動きには、アルハ(常足)、ショクショ(速足)、ツォギョー(駆足)、ホルタラホッ(襲足)があり、速度と距離の兼ね合いにより、効果的に使い分けました。

 

モンゴル軍が騎馬散兵戦を得意とした一方で、中国や西域では城攻めでも強みを発揮しましたが、チンギス・ハンや彼の指揮官たちに攻城戦の方法を教えたのは、他ならぬ中国人でした。堅固な城壁に囲まれた都市を攻略するのに、投石器などの大型攻撃兵器を大量に利用したのはモンゴル軍が最初でした。

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映画「蒼き狼  地果て海尽きるまで」

蒼き狼の地 モンゴル〜

PHOTO  BOOK

より引用

3つ目は、「情報戦を得意とした」ことです。

チンギス・ハンは、情報戦、組織戦を重視して、できれば戦う前に敵方が自滅するか投降するように誘導しました。農耕民族が自分が今住んでいる場所で畑を耕し、水を引き入れ、種を蒔いて収穫するのに対して、遊牧民族は自ら出かけて行って資源や食糧を求めます。だから彼らにとって、「どこに資源があるか」という情報こそが命運を握るカギとなります。遊牧民族は資源を作るのではなく、資源のある場所を察知してそこに行くというのが生活の基本スタイルでした。だから、遊牧民族同士が出会えば、情報交換に余念がなく、外部から入ってくる情報の有り難みを知り尽くしていました。情報を得るため、烽火台を連ね、駅伝の制度を整え、諜報要員を全ユーラシアに派遣しました。これが確実な制度になったのは、次のオゴタイの時代です。

 

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「地果て海尽きるまで 小説チンギス汗」

著者 森村誠一

発行者 大杉明彦

発行所 株式会社 角川春樹事務所

より引用

チンギス・ハンが最初に勝利を収めたのは、誘拐された妻ボルテを救い出すためにメルキト族と戦った「セレンゲ川の戦い」でした。妻を奪われたテムジンは、亡き父の盟友(アンダ)であるトオリル・ハンを訪ね、助けを求めました。トオリル・ハンは、テムジンとアンダの誓いをしたジャムカにも加勢を求めます。この3人の同盟軍がメルキト軍を奇襲攻撃して打ち破り、ボルテを奪還することに成功しました。

チンギス・ハンの最後の戦いとなったのが、三度にわたる攻略で、モンゴル帝国に降ったはずの西夏が背いたため、懲罰のために再び行った西夏への侵攻でした。

1227年8月25日、西夏侵攻の前線での、突然の死でした。チンギス・ハンは一代で、発展を続ける広大な帝国をつくり、死後、世界最大の領土を持つ帝国に成長する基礎を残しました。

チンギス・ハンの生涯には、数多くの謎と伝説が残されています。本当の父親は誰なのか、出生の秘密も定かではなく、生まれた年も分かっていません。中でも最大の謎とされているのが、崩御した後に埋葬された地がいまだに分かっていないことです。「元史」によると、チンギスと歴代のハンたちは、ある地域にまとまって埋葬されたといいます。「東方見聞録」によると、チンギス・ハンの遺骸を運ぶ隊列を見たものは、秘密保持のために人のみならず動物までも全て殺されたといいます。埋葬された後は、その痕跡を消すために一千頭の馬を走らせ、一面の地面を完全に踏み固めたとされます。

2004年、日本の調査隊は、ウランバートルから東へ250キロメートルのヘルレン川(ケルレン川)沿いの草原地帯にあるチンギス・ハンのオルド(宮廷)跡とみられるアウラガ遺跡の調査を行い、この地が13世紀にチンギス・ハンの霊廟として用いられたことを明らかにしました。調査隊はチンギス・ハンの墳墓もこの近くにある可能性が高いと報告しましたが、モンゴルには土を掘る事を嫌う風習があり、加えて、民族の英雄であるチンギス・ハンの神聖な墓が、外国人に発掘されることに不満を持つ、モンゴルの民族感情に配慮して、今後、墳墓の探索や発掘を行うつもりはないといいます。

 

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映画「蒼き狼  地果て海尽きるまで」

蒼き狼の地 モンゴル〜

PHOTO  BOOK

より引用

 

次は、モンゴル人による支配が百年以上続いた理由として考えられるものを3つ挙げます。

①「経済を重視したこと」

チンギス・ハンが重視したのは経済、とりわけ通商の拡大でした。遊牧民族の生産は片寄っており、周辺の農耕民族との交易がなければ生活が成り立ちませんでした。

チンギス・ハンが即位した頃、ヨーロッパは金、中東は銀、中国は銅、モンゴルでは羊が交換手段となっていました。

銀を共通の基準とする通貨概念が生まれ、それを基盤とした不換紙幣が通用するようになりました。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンが建国した元王朝は、不換紙幣(宝鈔 ほうしょう)を唯一の基軸通貨とした史上初めての国です。

チンギス・ハンは征服戦争でも、手工業の職人だけは殺さずに拉致して生産に当たらせることがほとんどでした。交易の基礎になる製造業の振興や技術移転にも熱心でした。

モンゴル帝国がチンギス・ハンから二世代の間に、史上稀に見るほどの経済成長を遂げたのは、チンギス・ハンの通商経済重視の結果といえます。

チンギス・ハン以前は、か細く危険だった東西の交易が安全な産業となり、チンギス・ハンの死後四十年のフビライ・ハンの治世ともなれば、ベニスの商人マルコ・ポーロが中国に来るほど東西交通は安全になりました。

 

②「寛容な政策」を採ったこと

チンギス・ハンの征服戦争で重要なのは、自らの信仰や習慣、つまり「固有の文化」を征服地に広めようとしなかったことです。大抵の征服者は自らの文明を誇り、それを世界に広めることに使命感を持ちますが、チンギス・ハンは違いました。遊牧民族の文化を農耕民族や都市住民に押し付けることはせず、人種や信仰や風俗による差別のない、グローバルな世界を作ろうとしました。最古のグローバリズムと言えます。

 

③「行政組織 + 抑止力」

チンギス・ハンは、「文書と印鑑を使用する行政機構」をつくりました。もともと遊牧民族は物財を蓄えず、文書を残しません。チンギス・ハン自身も読み書きはできなかったようです。ところが、1204年、ナイマン部を攻略した時、ナイマン王の印璽(いんじ)を預かるタタトンガが降伏してきました。チンギス・ハンは、この人物からウイグル文字と印璽の効用を学んで、行政機構を整備しました。

 

モンゴル帝国は、支配した各地に「ダルガチ」と呼ばれる地方統治官(知事または総督)とごく少数の警護兵のみを置きました。俗に「ダルガチと60人のモンゴル兵」と言われるものです。

こんなに緩(ゆる)い統治では、反乱を抑制することはできず、モンゴル帝国の崩壊は避けられません。これを防止するために、反乱が起きると、モンゴルの大軍が攻めてきて、城(都市)を完全に破壊し住民を皆殺しにするという大量報復戦略が採られました。これが二度、三度と繰り返されると、誰も反乱を企てなくなります。史上「モンゴルの大虐殺」と言われる、チンギス・ハンの報復のすさまじさはいくつも逸話になりました。都市を包囲して猛攻、陥落させると、虐殺と略奪の限りをつくし放火しました。「ディズニー編③アラジン✨の巻」にも書きましたが、アッバース朝の首都バグダードは、この大量報復戦略により徹底的に破壊され、当時のものはほとんど残っていません。

チンギス・ハンは、敵対者には厳しく残忍でしたが、降伏した者、帰順した部族や都市には寛容でした。モンゴル平原の東側で部族間闘争を繰り返していた頃から、帰順した部族は同盟者として扱いました。ここでは、「先に臣従した者ほど上座に座る(厚遇される)」という遊牧民族の伝統的な社会習慣に基づく差別だけが残りました。「モンゴル人(モンゴル草原の民)、色目人(西域のイラン人・トルコ人)、漢人(旧金王朝の人々)、南人(旧南宋の人々)の順列」で支配されたのは、単純に帰順した順位で分けられたのであり、人種や本籍、宗教や文化で分けられたのではありません。

 

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映画「蒼き狼  地果て海尽きるまで」

蒼き狼の地 モンゴル〜

PHOTO  BOOK

より引用

 

モンゴルは、1911年に中国の清王朝が倒れて漢民族中心の「中華民国」が成立すると、中国の支配から抜け出ようと独立宣言をしますが、「中華民国」から自治を認められるだけにとどまりました。その後、ロシアの力が弱まったことを受けて自治権さえも奪われたモンゴルは、ロシア革命後の1924年、モンゴル人民革命を起こし、「モンゴル人民共和国」として再度独立を宣言しました。ただし、独立できたのは、現在の「モンゴル国」である外モンゴルだけで、南部の内モンゴルは、そのまま中国に残ることになりました。「モンゴル人民共和国」はソ連の支援のもとに、社会主義国として国づくりを進め、1961年に国際連合に加盟しました。ソ連解体後の1992年には、社会主義の考えを取り去った新しい憲法が制定され、国名も「モンゴル国」に改め、一滴の血も流さず、一人の逮捕者も出さず、国民の投票によって大統領を選ぶ民主主義の国となりました。

社会主義時代には政治的な思惑に翻弄され、チンギス・ハンは多くの非難を浴びました。「侵略者」の烙印を押され、称賛することはおろか、口にすることさえタブー視される時代が続きました。

 

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蒼き狼 地果て海尽きるまで」

モンゴル建国800年記念作品

パンフレットより引用

テムジンがモンゴルを統一し、オノン河畔でハン位に即位して、チンギス・ハンを名乗ったのが、1206年。モンゴル国は2006年、チンギス・ハン即位800年記念を「モンゴル建国800周年」と定めて国を挙げて祝いました。街にはチンギス・ハンがあふれ返り、国会議事堂前には巨大なチンギス・ハンの像が立ち、国際空港はチンギス・ハン空港と改名され、紙幣にはチンギス・ハンの肖像が刷り込まれ、酒の銘柄にチンギス・ハンが登場し、書店にはチンギス・ハン関連本が山積みにされました。

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モンゴル国」の、2024年現在の、

人口は、約348万人(家畜は人間の約20倍以上)

人口密度 1㎢に2.2人(世界一人口密度の低い国)

国土 約156万4,100㎢(日本の約4倍)

人口の半分が集中している首都ウランバートルは約1350メートルの高地にあります。

国土の約80%が草原です。

日本とは、1972年に国交を結び、日本からの支援も本格化するなか、「第三の隣国」として新たな関係を築いています。

 

 

参考文献

堺屋太一が解く チンギス・ハンの世界」

著者 堺屋太一

発行者 野間佐和子

発行所 株式会社 講談社

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懐かしのシネマ編⑧

アレキサンダー✨の巻

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アレキサンダー

監督 オリバー・ストーン

脚本 オリバー・ストーン

   クリストファー・カイル

   フェルナンド・スリチン

製作 モリッツ・ボーマン

   ジョン・キリック

   イアイン・スミス

   トマス・シューリー

2004年製作 アメリカ映画

パンフレットより引用

ストーリー

マケドニアアレキサンダー大王が、32歳の若さで亡くなってから、40年の歳月が流れました。地中海を一望できるアレキサンドリア図書館のテラスで、エジプトプトレマイオスが自伝の口述を始めています。その中で、若き日に、仕えたアレキサンダーの数奇な生涯を、詳らかに語るつもりでした。王との栄光の日々を思い出し、年老いた瞳に輝きを取り戻すプトレマイオス。果たして、彼は胸に秘め続けたあの真相を告白するつもりなのでしょうか?

紀元前356年、マケドニア王フィリッポスと西方の王国の出身である妻オリンピアスとの間に、アレキサンダーが生まれました。

彼が物心ついた頃には既に、父と母は激しく争っていました。大酒を飲んでは、男女構わずに手を出す粗暴なフィリッポスを嫌悪していたオリンピアスは、悦楽と狂気の神ディオニソスへの崇拝に魂を捧げ、世界の頂点に立つという野望を息子に注ぎ込むのでした。

アレキサンダーに初めて心の平安をもたらしたのは、プトレマイオスら同年代の友人たちとの友情でした。中でも、へファイスティオンは特別な存在でした。格闘の技に秀で、学問でも、家庭教師のアリストテレスも一目を置く、突出した才能を示すアレキサンダー

彼はこの頃、荒馬ブーケファラス(頑強なる者)と出会います。父と母、民衆の見守る中、見事この馬を乗りこなした時から、一人と1頭は「生涯の友」となりました。

ある日、珍しく息子を連れ出したフィリッポスは、古い宮殿の地下のギリシャ神話の壁画を見せます。勇者アキレスの絵の前で目を輝かせるアレキサンダー。短くも栄光に満ちた彼の人生に憧れていたのです。恐ろしい神々を指し示しながら、栄華と挫折を繰り返す人間の悲しい運命を語るフィリッポス。アレキサンダーは、初めて、父の孤独を知るのでした。

フィリッポスは、正当なマケドニアの血筋の新しい妻を迎えます。既に彼女は妊娠しており、男の子が生まれれば、王位継承権を奪われるかもしれません。オリンピアスは、どんな手を使ってもそれを阻止することを決意します。

フィリッポスは、東方のアケメネス朝ペルシアを支配するという志半ばで凶刃に倒れます。父王の突然の死を受けて、その遺志を継ぎ、東方遠征を行ったアレクサンドロスは、紀元前331年、ペルシャ帝国の都バビロンに程近いガウガメラで、ダレイオス3世率いるペルシア軍を破り、ダレイオスを敗走させました。

豪華絢爛なバビロンの門をくぐるアレキサンダーは、民衆の熱狂的な歓迎に驚きます。彼は宮殿の奴隷たちを解放し、置き去りにされたダレイオス王の一族にも家族として扱うと約束します。アジア人を蔑視するアレキサンダーの部下たちは、王の真意が理解できず、不満を抱きます。

アレキサンダーは、へファイスティオンにだけは、世界征服の真の目的を打ち明けます。これからも、制覇した国の人々を解放すると言うのです。学問を広めて、彼らの精神も解放したい。へファイスティオンは、王への深い愛を打ち明けましたが、ギリシャの人々から見れば、彼の野望があまりにも危険だと感じるのでした。

アジア侵攻の途中で、アレキサンダーは、バクトリアの王女ロクサネを第一夫人に迎えます。将軍たちの我慢が限界に達しました。アジア人との子供が次の王になるなど、到底、許せないことでした。抗議するパルメニオンに「バビロンへ帰れ」と冷ややかに命じるアレキサンダー。怒りに震える彼らの中で、へファイスティオンと王の宦官バゴアスだけが、悲しみを胸に抱えていました。

マケドニアには、もっと激しい怒りを燃やす者がいました。オリンピアスです。今や神を畏れないアレキサンダーでしたが、この母への恐れだけは克服できませんでした。

ある日、差し出された酒の香りに異変を感じたアレキサンダーは、命を狙われたことに気づきます。パルメニオンの息子フィロタスが告発され、処刑されます。アレキサンダーは、パルメニオンにも疑いの目を向け、彼を暗殺することを決意、自分への忠誠を試すため、パルメニオンの同志であるクレイトスを刺客に送るのでした。

長い行路の末、アレキサンダーは遂にインドの地を踏みます。故郷マケドニアを離れ、バビロンの栄華を捨て、愛と友情を見失い、それでも、アレキサンダーが「世界の果て」で手に入れたかったものは何か?プトレマイオスの物語は、遂に核心に触れるのでした。

 

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「パノラマ・マップ・ストーリー

アレクサンダー大王の遠征」

文 ジャン・ブルーノ・ラヴェンニ

絵 セルジョ

訳 そのひかる

日本語版監修 向山 宏

発行 評論社

より引用

映画の題名「アレキサンダー」は英語表記です。以前は教科書も人名や国名は英語表記でした。近年の原語主義に基づき、ギリシア語表記の「アレクサンドロス」に改められました。

アレクサンドロスの東方遠征が実現するには、いくつもの前提条件がありました。充実した国力、強力な軍隊、ギリシアに対する支配、そして遠征の大義名分です。これらは全て、父フィリッポス2世が20年余りの治世で作り上げたものでした。フィリッポスこそマケドニア王国興隆の立役者であり、父王の遺産なくして息子の偉業もあり得なかったといえます。東方遠征でアレクサンドロスがアケメネス朝ペルシアを征服したことにより、ギリシア文化が東方に広まり「ヘレニズム文化」が生まれ、古代メソポタミアの流れを汲む古代オリエント文明は終焉しました。これほどの偉業を成し遂げたアレクサンドロスは「大王」と呼ばれるようになります。「メガス・アレクサンドロスアレクサンドロス大王)」英語では「The Great」の称号をつけて呼ばれています。

 

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「図説 アレクサンドロス大王

より引用

前7世紀半ば頃、マケドニア人たちは、ギリシア北部の山岳地帯で牧畜を営んでいました。アレクサンドロス1世(紀元前498〜紀元前454)の治世において、独自の社会を形成していたマケドニアは、南部のギリシア世界への参入を図りました。その後、国王アルケラオス1世はアテネの悲劇詩人エウリピデスを始めとするギリシャの高名な知識人や芸術家を数多くペラ(マケドニア王国の首都)の宮殿に招き、マケドニア人に王族や貴族として必須となる教養を身に付けさせました。アレクサンドロスエウリピデスの悲劇を暗唱できたのも、このような文化教育の賜物といえます。アレクサンドロスの家庭教師として招かれたのは「万学の祖」と呼ばれる、超一流の哲学者アリストテレスでした。

 

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

発行者 松本 洋介

発行所 株式会社 第一学習社

より引用

前359年に、フィリッポス2世が23才で即位した時、マケドニア王国は風前の灯でした。北からは、イリュリア人らの異民族が侵入し、王位簒奪を企む王族が現れて、外国がこれを支援しました。フィリッポスは軍を立て直し、王位を狙う者たちを退け、イリュリア人を打ち破り、王国の独立を守りました。 富国強兵策を推し進め、金鉱や木材等豊かな資源を活用し、征服地を広げて農地を開墾し、都市を建設して、征服した諸民族を移住させ、国土と領土を飛躍的に拡張していきました。これらを可能にしたのが、「サリッサ」と呼ばれる長さ5.5メートル、刃先の長さが50センチの長槍を装備した密集歩兵部隊(ファランクス)と、自在に馬を操り楔形隊形で突進する騎兵部隊を組み合わせて作り上げた強力な軍隊でした。

アレクサンドロスは、父王の目覚ましい躍進を目の当たりにしながら成長しました。名誉を求め、気位の高かった少年アレクサンドロスは、父王が都市を攻め落とし、戦いで勝利したとの知らせを聞くたび、友人たちにこぼして言いました。「父上は何もかも先に取ってしまい、私には立派な仕事は何も残してくださらない」

前338年、カイロネイアの平原で、マケドニア軍とギリシア連合軍の最終決戦が行われました。この戦いで18歳のアレクサンドロスが左翼の騎兵部隊を指揮し、正面に布陣するテーべの精鋭歩兵部隊を激戦の末に打ち破り、初陣を飾りました。テーべの精鋭歩兵部隊「神聖隊」は、300人が生存者46人になるまで戦い続けました。

カイロネイアの戦い後、フィリッポスは全ギリシアの代表をコリントスに集め「コリントス同盟」と呼ばれる支配体制を作り上げました。そして、ギリシア人から全権将軍に任命され、いよいよ対ペルシア遠征である「東方遠征」に着手します。

約150年前「ペルシア戦争」で、ペルシア帝国の大軍がギリシア本土に侵攻し、アテネを占領して、アクロポリスの神殿を焼き払いました。ペルシア人ギリシアの神々を冒涜したことに報復するというのが、フィリッポスに与えられた大義名分となりました。そのために結成したギリシアとの同盟であったと言えます。

前336年春、フィリッポスは1万の先発部隊を小アジア(現在トルコがあるアナトリア半島)に派遣しました。ところがその年の初夏、娘の結婚式の祝宴で、彼は側近護衛官の一人によって暗殺されます。同性愛の三角関係のもつれから生じた個人的な恨みによるものでした。こうして偉大なる父王は、栄光の絶頂であっけない最期を遂げました。

父王の突然の死により、アレクサンドロスアレクサンドロス3世として即位しました。しかし、バルカン半島全体に不穏な空気が漂いました。ギリシア人をはじめ、征服されて間もない諸民族が、弱冠20 歳の若造を見くびって独立への動きを見せたのでした。即位して最初の2年間は、王国の支配体制を立て直すことに費やされました。

 

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「図説 アレクサンドロス大王

森谷 公俊 著

鈴木 革 写真

発行者 小野寺 優

発行 河出書房新社

より引用

前334年春、アレクサンドロスは東方遠征に出発しました。ダーダネルス海峡を渡り、アジアに上陸したアレクサンドロスの部隊は、2年前に上陸していた1万の先発部隊と合流して、遠征軍は総勢4万7100となりました。遠征軍の本隊の前を走っていた騎馬の斥候から、グラニコス川の対岸にペルシア軍が整列しているとの報告が入りました。数の上ではアレクサンドロス側が優勢でしたが、川の流れは速く、切り立った土手は急で、敵前で渡河するのは危険でした。ペルシア軍は騎兵だけで決着をつけようと、1万の騎兵部隊を川の右側にずらりと並べ、ギリシア人傭兵を丘の上に置きました。対するマケドニア軍は、左右両翼に騎兵部隊、中央に密集歩兵部隊が配置され、アレクサンドロスが右翼側を、副将パルメニオンが左翼側を指揮しました。アレクサンドロス自ら、槍をふるって戦いました。彼の兜と盾は美々しく、兜の両側には大きな白い羽根飾りが立っていて、彼が王であることは誰の目にも明らかでした。当然、投げ槍の標的にされ、ペルシア軍の指揮官も彼をめがけて襲いかかり、一騎打ちとなりました。アレクサンドロスはまず、突進してきたミトリダテスの顔を槍で一突きして地面に落とし、次いで、ロイサケスが偃月刀(えんげつとう)で肩に切りつけましたが、アレクサンドロスは槍でロイサケスの胸当てを刺し、心臓を貫いて倒しました。この時、スピトゥリダテスが背後から偃月刀を振りかざしましたが、側近のクレイトスがいち早く相手の肩先に切りつけ、腕を切り落としました。クレイトスの加勢がなかったら、アレクサンドロスはここで命を落とすところでした。ペルシア軍の中央部が退却を始め、これを見て左右両翼も敗走し、アレクサンドロス軍の勝利となりました。

 

グラニコス川を越えると、道は港湾都市、属州の首都、さらに「王の道」を南下してサルディスに通じます。グラニコスはまさに「アジアの門」でした。サルディスは、かつてのリディア王国の首都であり、小アジアにおけるペルシア帝国の拠点となっていました。また、ペルシア帝国の首都スーサに至る「王の道」の起点でもありました。「王の道」は、ダレイオス1世が軍隊の派遣と命令の伝達、情報収集のために建設した国道です。駅伝制を使い、111の宿場駅ごとに食料を調達し、馬を乗り換えた王の使者は、約2400キロメートルの行程を1週間で走破しました。

前334年の冬も遠征軍の活動は休みなく続きました。古代ギリシアでは、戦争を行うのは夏だけで、冬の間は出征しないのが慣例でした。しかし、フィリッポス2世は、職業兵士を養成し、農作業の季節にとらわれることなく冬にも戦争を遂行しました。アレクサンドロスの軍もこれに倣いました。副将のパルメニオンに、騎兵とギリシア同盟軍、輜重(しちょう)部隊を率いてサルディスから、フリュギア地方のゴルディオンに向かうように命じました。かつてのフリュギア王国の首都ゴルディオンを出発する時、有名な逸話が生まれます。城砦にはフリュギア王ミダスが奉納した荷車があり、その轅(ながえ)を結んだ紐の結び目を解いた者がアジアの王になるとの伝説がありました。結び目はミズキの樹皮で固く縛られ、結び目の先端も見えない状態でした。諸説ありますが、一説では、アレクサンドロスが剣で一刀両断にしたといわれています。英語で「Cut the Gordian knot」は、「難問を一気に解決する」という意味で使われます。アレクサンドロス将兵を鼓舞するためのパフォーマンスを演じて見せたのでしょう。

 

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」

発行者 株式会社 浜島書店

より引用

ダレイオス3世は、バビロンに集めた大規模な軍勢を率いて、自ら遠征に赴きます。親征を決意した理由として、即位してまだ4年目のダレイオスは、自らの勝利によって王の威信を高める必要があったということが挙げられます。

ペルシア軍が布陣したのは、イッソス湾の奥に位置するイッソスの南を流れる現バヤス川の北側で、海と山の間が2.5キロメートルしかない、大軍が展開するには狭すぎる地でした。この海と山の間の狭い平野が戦場となったことが勝敗を分けました。現バヤス川の北側に布陣したペルシア軍は、推定で総勢7万2000、対するマケドニア軍は推定で、総勢1万9000。騎乗したアレクサンドロスは、自軍右翼の全騎兵を率いて、中央に位置するダレイオス目がけて突進しました。ダレイオスの周囲で激戦となり、間もなく彼は戦車に乗ったまま敗走しました。ペルシア騎兵は、戦場の狭さのため数の優位を生かせず、その力を発揮できませんでした。わずか500メートルの範囲に万単位の兵力が集中したため、戦列を十分に展開することができず、実際に敵兵士と交戦したのは、前線にいるごく一部の兵士だけでした。こうしてペルシア軍は、まず山側の左翼が崩れ、次いでダレイオスが逃走して中央部も敗走し、これを知った海側の右翼も退却し、総崩れとなりました。

 

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アレキサンダー」DVD

より引用

前332年8月、アレクサンドロスはエジプトに向けて進路をとりました。ダレイオスとの決戦の前に、東地中海の周辺を完全に平定しておかなければならなかったからです。

エジプトは前525年に、ペルシア王カンビュセスによって征服されましたが、エジプト人ペルシア人の支配を憎み、前404年に独立を回復して以来、何度もペルシア人の侵攻を退けてきました。前343年に再びペルシアに服属させられたエジプト人アレクサンドロスを解放者として歓迎したことから、エジプトを無血で平定することができました。

「世界中に我が名を冠する都市を建設せよ」というアレクサンドロスの命令によって、征服した地に都市が次々と建設され、ギリシア人が入植しました。この、アレクサンドリアと名付けられた都市は、 記録に残されているだけでも70ヵ所以上ありますが、その中で最も栄えたのが、最初に建設されたエジプトのアレクサンドリア市でした。

 

 

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「図説 アレクサンドロス大王

より引用

前331年6月、アレクサンドロスはメンフィスを発ち、テュロスに着きました。ここからメソポタミアの平原を越え、ダレイオス3世のいるバビロンに向かおうとします。彼はバビロンでペルシア軍との決戦を行うつもりでした。しかし、実際の戦場はバビロンではなく、そこから460キロメートルも北のガウガメラです。彼はタプサコスから船でユーフラテス川に沿って南下し、直接バビロンに到達する計画を立てていました。計画通りにいかなかったのは、糧食の補給ができなかったからだと考えられます。

ダレイオスは、北部で決戦を行うべくバビロンを進発します。アルベラを本拠地とし、そこから北へ100キロメートルほどのガウガメラの平原を戦場に定めました。イッソスでは狭い土地に入り込んで敗れましたが、今度は大軍に有利な大平原を自分で選んで戦場としました。

アレクサンドロスがペルシアの大軍勢を視野に収めたのは9月30日でした。副将のパルメニオンはアレクサンドロスに夜襲を勧めましたが、アレクサンドロスは「私は勝利を盗まない」と答え、あくまでも白昼堂々の決戦を望みました。

会戦が行われたのは10月1日でした。戦闘開始直後の騎兵同士の戦いを制したのはマケドニア側でした。ダレイオスは、戦列の前面に配置していた、200両の鎌付き戦車に突撃を命じました。しかし、マケドニア兵は列を乱すことなく整然と対処し、馭者(ぎょしゃ)を引きずり降ろし、馬を囲んで斬り殺しました。また、いつもならば壁の役目をするはずのファランクス(密集歩兵部隊)が突然、わざと道を開け、戦列の間を通過させてから、孤立した戦車を難なく制しました。マケドニア人にとって、戦車部隊は初めての経験でしたが、冷静に対処してこれを無力化することができました。ダレイオスは、ガウガメラ平野で戦車が使えるように、事前に石を取り除き、地面を平らにならすよう命じたと記録されていますが、鎌付き戦車による攻撃は、完全な失敗に終わりました。その後、ペルシア軍の左翼で騎兵と歩兵の間に切れ目が生じるや、アレクサンドロスは自軍を率いて自ら先頭に立ち、ペルシア軍中心部のダレイオス目がけて、突き進んで行きました。ダレイオスの周辺で激戦が起こり、ペルシア軍の隊列はじわじわと後退します。間もなくダレイオス自身が退却し、ペルシア軍左翼の騎兵も敗走に転じました。マケドニア軍と互角に戦っていたペルシア軍の右翼、中央の諸部隊も、それを見て退却に移りました。イッソスの戦いもそうですが、アレクサンドロスの、敵の総大将たるダレイオス目がけて一気に突入する果敢な決断と実行力により、勝敗が一気に決したといえます。この、ガウガメラの戦いは、東方遠征における決定的な出来事でした。これにより、アケメネス朝ペルシア帝国は事実上、崩壊しました。アケメネス朝ペルシア帝国が名実ともに滅亡するのは、前330年7月、逃亡中のダレイオスが臣下である、バクトリア州長官のベッソスの裏切りで殺害された時でした。享年約50歳でした。ダレイオス3世が即位したのは、アレクサンドロスの即位と同じ前336年です。わずか6年の短い治世でした。後2世紀に「大王伝」を書いたアリアノスは、「ダレイオスは、戦争については他の誰よりも臆病で洞察力に欠ける人物だったが、他の事柄では特に間違いを犯したわけではない。というより、即位すると同時に、マケドニア人、ギリシア人と戦わざるを得なくなったため、間違いを犯す機会もなかったのである」(「アレクサンドロス大王東征記」第3巻22章)

フィリッポス2世が派遣した、マケドニア軍の先発部隊が小アジアに上陸したのは、ダレイオスが即位して1年目のことでした。治世3年目にアレクサンドロスの東方遠征が始まり、4年目にはイッソスで直接対決して敗れました。次のガウガメラの戦いでも敗れて逃走したことから、臆病で無能な王であったとの誹(そし)りは免れないものがあります。ダレイオスが暗殺されたことから、「王殺しへの懲罰」を理由に、アレクサンドロス中央アジアからインダス川左岸までの征服を続行することになります。

アレクサンドロスの評価については、「戦術の天才」「天才的な指揮官」「果敢な決断と実行力」等の高い評価を得る一方で、「冷酷」「感情的」「衝動的」という欠点も挙げられます。

前330年5月の「ペルセポリス炎上」は、東方遠征における最も劇的で最も謎めいた事件です。「大王伝」の多くは、アレクサンドロスが宴会で酩酊し、アテネ出身の遊女タイスにそそのかされて衝動的に火をつけたと伝えています。

前328年秋の宴会では、アレクサンドロスの側近クレイトスが大王と激しい口論を起こし、酩酊していた大王は逆上して、彼を槍で刺し殺してしまいます。

マケドニア人はギリシア人から「蛮族」として劣った存在と見なされていました。その要因の一つがお酒の飲み方です。ギリシア人はぶどう酒を水で割って飲んでいましたが、マケドニア人は生(き)のままで酒を飲んでいました。「酒を割らずに飲むなんて野蛮だ」と、古代ギリシア人たちは眉をひそめていたようです。アレクサンドロスマケドニア宮廷の風習を受け継ぎ、お酒を割らずにそのまま飲みました。いったん飲み始めれば酔いつぶれることも珍しくなく、飲酒のエピソードは数え切れません。

 

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Wikipedia 「地理学の歴史」より引用

 

ギリシャの自然哲学者アナクシマンドロス (紀元前546年頃に死去) の地図を元にして、ヘカタイオスが描いた世界地図です。 地中海の描写はかなり正確ですが、インダス川ナイル川は繋がっていて、その内側に半島ではないアラビアが収まっていて、紅海が湖のようになっています。当時は、世界の東端はインドで、周囲を海が囲っていると考えられていました。

 

アレクサンドロスは、果てしない征服欲に突き動かされるまま、家庭教師のアリストテレスに世界の果てだと教えられたインドに進撃します。

前326年5月、インダス川の支流ヒュダスペス川で、ポロス王が戦象130頭を含む大軍勢を率いて待ち構えていました。アレクサンドロス軍は携行していた石油(揮発油)を使って炎の盾を作って象を撃退し、ポロス軍を打ち破りました。東方遠征における正規軍同士の戦いはこれが最後になりました。

さらに、その東にはガンジス川と豊かな国土が広がることを聞き、アレクサンドロスの心は逸(はや)りたちます。しかし、将兵がこれ以上の進軍を拒否しました。9年に及ぶ行軍と戦闘、雨季の豪雨と雷鳴、増水した川の渡河の困難さ、これらが兵士の気力も体力も消耗させていました。信頼する側近の勧めもあり、遂にアレクサンドロスは帰還することを決意しました。

前324年、スーサに帰還して、アケメネス王家の二人の娘を妻に迎え、側近たちと共に集団結婚式を挙げました。この祝宴は5日間も続いたと記されています。さらに、イラン系の若者3万人を軍隊に編入して、マケドニア人古参兵を除隊させて、軍隊の比率を東方系民族に移していきました。

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Wikipedia 「エラトステネス」より引用

19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図です。エラトステネス( 紀元前275年 〜 紀元前194年)は、ヘレニズム時代のエジプトで、地理学、数学、天文学で活躍したギリシア人の学者です。

「東方遠征」により発見されたアラビア半島が描かれ、ナイル川インダス川は繋がっておらず、だいぶ正確さが増してきたのが分かります。

 

前323年春、バビロンに入ると、休む間もなく次の計画に着手します。新たに艦隊を建築し、アラビア半島を周航する計画です。アレクサンドロスは少年時代に、乳香の虜になり、宮殿の祭壇でたびたび乳香を焚きました。「生は父フィリッポス2世から受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」と話すほど、尊敬する師であるアリストテレスから、「そんなに乳香の香りが好きなのでしたら、乳香の産地であるシバの国を征服したら、いくらでも使えるようになります。それまでは、貴重な乳香を大切にしなければなりません」とたしなめられたそうです。伝説のシバ王国は、南アラビアのイエメンにあったという説があります。アレクサンドロスは、ついにアラビア遠征を計画しますが、出発を目前にして熱病(マラリア熱)に倒れ、4日間生死の淵をさまよった後、6月10日、逝去しました。

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「最新世界史図説 タペストリー」

監修 川北 稔

   桃木 至朗

発行 株式会社 帝国書院

より引用

 

アレクサンドロスは「最強の者が帝国を継承せよ」と遺言を残しましたが、彼の死後に生まれたアレクサンドロス4世も含めて、彼に仕えた者たちの中にふさわしい力量を持つ人物はいませんでした。後継者(ディアドコイ)争いの末、前301年のイプソスの戦いで、アレクサンドロス帝国が3つに分割されることが決定しました。アレクサンドロスの幼なじみで側近のプトレマイオスがエジプトを取り、同じく幼なじみで側近のセレウコスがシリアとイランを手に入れ、フリュギア太守であったアンティゴノスがアナトリアを統治することになりました。この支配者3人は、前3世紀を通じて何度も闘いましたが、戦争の様式は変わりませんでした。アレクサンドロス大王の戦術の繰り返しであり、そこには大王の非凡な才能が欠けていました。前2世紀になって強大さを増すローマに対抗した際、プトレマイオス朝セレウコス朝、アンテイゴノス朝は、ローマの革新的な戦略と容赦ない侵略に対する対策を全く講じることができませんでした。

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」

発行者 株式会社 浜島書店

 

映画「アレキサンダー」のストーリーテラーであるプトレマイオスは、アレクサンドロスの幼なじみで側近の一人でした。彼が創始者となったプトレマイオス朝の首都アレクサンドリアは古代最大の都市で、人口は100万人でした。ムセイオン(王立学問研究所)とその付属の大図書館で有名な学問の中心地であるばかりか、画期的な都市計画、そして古代の七不思議の一つとされた灯台でも有名でした。この高さ134メートルの灯台は小さなファロス島に立っており、その、56キロメートル先からも見えたという灯は1000年の間、船乗りたちの道しるべとなりました。しかし、大地震で崩壊してから、灯台はついに復旧することはありませんでした。

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「歴史を探究し、未来を創造する 世界史のミュージアム

発行者 星沢 卓也

発行所 東京法令出版 株式会社

より引用

 

このプトレマイオス朝エジプトの最後の女王がクレオパトラ7世です。「世界一の美女」と呼ばれる、この女王については、いずれかの編で取り上げたいと思っています。

 

懐かしのシネマ編⑦

フォレストガンプ✨の巻

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フォレスト・ガンプ 一期一会」

監督 ロバート・ゼメキス

製作 ウェンディ・ファイナーマン

   スティーヴ・ディッシュ

   スティーブ・スターキー

脚色 エリック・ロス

原作 ウィンストン・グルーム

撮影 ドン・バージェス

パンフレットより引用

 

アラバマ州グリンボウの屋敷で、女手ひとつで一人息子のフォレストを育てていた母は、フォレストの背骨が曲がっていることが分かった時も、IQが人並みに至らないことを告げられた時も、少しも動じませんでした。そして、常にフォレストを普通の子供として育て、愛と人生を教え続けました。

小学校に入ったものの、頭が弱い上、脚にギブスをはめたフォレストは馬鹿にされてばかりでした。遊んでくれるのは優しいジェニーだけでした。ある日、同級生たちにいじめられていたフォレストは、「走って!」と言うジェニーの声で、猛然と駆け出しました。足のギブスが、吹き飛ぶほどの勢いで。そして、そのまま彼は風のような速さでどこまでも走り続けました。その俊足を買われ、数年後、フォレストはアメリカンフットボールの選手として大学に入学しました。ルールさえ理解できないまま、とにかく走り続けました。彼は、ついに全米代表選手に選ばれ、ケネディ大統領からも激励を受けます。だが、そんな栄光よりも、今の彼には、時折、女子大の寮へ、ジェニーに会いに行くことの方が楽しみでした。フォレストの存在が、ジェニーの迷惑にもなりましたが、彼女にはフォレストを憎むことはできませんでした。雨の降りしきる夜、ジェニーはびしょ濡れのフォレストをこっそり部屋へ招き入れました。着替えをするジェニーの美しい体に、フォレストの目は釘付けになります。まだ女性の体に触れたことすらない彼を、ジェニーは、裸の胸に、そっと抱きしめるのでした。

5年後、ベトナム戦争の兵士となったフォレストに、初めて男の友達ができます。エビ漁船を買うことを夢見るバッバと、カッコいい小隊長ダン中尉です。従順なフォレストは、過酷な状況下でも言われるままに行進し、言われるままに、身を伏せました。だが、戦況は日に日に悪化し、彼の小隊はジャングル行進中に、敵の一斉攻撃を受けます。激しい銃声を背に、フォレストは走りました。あまり走り過ぎて、隊を見失った彼は、踵を返し、再びジャングルへ。そこで、彼が目にしたのは、傷ついて倒れる仲間たちの姿でした。フォレストは、自らも尻に弾を受けながら、何度も何度もジャングルに入っては、深手を負った仲間たちを1人ずつ担ぎ上げ、安全な場所に運び出しました。だが、そんな努力も虚しく、バッバは彼の腕の中で息絶えました。その後、戦地でのフォレストの勇敢な行動に栄誉勲章が贈られることになりました。しかし、両足を失ったダンは、なまじ命を救われたことを恨みに思い、フォレストをなじるのでした。

フォレストが大統領から勲章を授与された日、折しも首都ワシントンでは平和を掲げた大集会が開かれていました。見物に行った彼は、いつの間にか、群衆の歓声を浴びて、中央のステージに立たされていました。集まった何十万もの人々の中から、懐かしい叫び声と共に、ジェニーが飛び出してきます。駆け寄るフォレスト。それは、彼の生涯で最高に幸せな瞬間でした。だが、反戦運動にのめり込んでヒッピー生活を送っていたジェニーは、フォレストの一途な愛を受け入れることはなく、同志たちと共に姿を消しました。

尻の怪我の療養中に、フォレストは病院で卓球を覚えました。一つ事に打ち込めるタイプの彼は、たちまち腕を上げ、中国で開かれた世界選手権に出場します。今や彼は有名人です。そして、フォレストは思いがけず入ったCM契約料で、エビ漁船を買いました。それは亡き親友バッバとの約束でした。フォレストは、すっかりすさんで暮らしていたダンを呼び寄せ、漁に出ました。やがて、面白いくらいエビが獲れ始め、2人は大金持ちになりました。ダンも今では、フォレストのおかげで生き延びたことに感謝するようになっていました。

母の死をきっかけに故郷に帰ったフォレストは、毎日芝刈りをして暮らしました。ある日、そんな彼の前に、突然ジェニーが現れます。それからは2人だけの静かな暮らしがしばらく続き続きます。しかし、ジェニーはフォレストの愛を受け入れた翌朝、また、一人でこの街を去っていきました。残されたフォレストは、呆然と毎日を送っていましたが、やがて、突然立ち上がり、闇雲に走り始めました。それから、3年余り、彼はアメリカ中を走り続けました。いつしか、その行動は、神秘化され、またしても、フォレストは、時代のヒーローになっていました。

今、フォレストはジョージア州サヴァンナを訪れていました。一箱のチョコレートと、ジェニーからの手紙を握りしめて。

 

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フォレスト・ガンプ 一期一会」

パンフレットより引用

主人公の名前である「フォレスト・ガンプ」の「フォレスト」は、白人至上主義(人種差別主義)の秘密結社である「クー・クルックス・クラン(KKK)」の結成者として知られるネイサン・ベドフォードから取られました。「ガンプ」は、アラバマ州の方言で「うすのろ」「間抜け」「愚か者」という意味です。

 

映画「フォレスト・ガンプ」には、重要なキャストとしてエルヴィス・プレスリージョン・レノンといったスターが登場します。憧れのロックスターと親し気に話をしてみたい、という誰もが一度は思い描く幻想を、背骨が曲がり、IQが標準に届かない少年がいとも簡単に叶えていきます。

「骨盤ダンス」と呼ばれた、腰を小刻みに揺らす踊りは、フォレスト親子の民宿に宿泊したエルヴィス・プレスリーが、ギブスをつけて歩くフォレストから着想を得たことによって生まれ、後に「ハウンド・ドッグ」のセクシーなダンスとして完成しました。

 

足にギブスをつけたフォレストが悪童たちに自転車で追っかけられるシーンでは、あわや捕まる寸前に、フォレストのギブスがバキバキ音を立てて壊れ、風のような速さで走り出し、それ以降、誰よりも速く走れるようになる奇跡が起こります。俊足を買われ、大学のフットボールチームで活躍し、全米代表選手に選ばれたことで、ホワイトハウスケネディ大統領から激励される栄誉を与えられます。

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「最新世界史図説 タペストリー」

監修 川北稔

   桃木至朗

発行 株式会社 帝国書院

より引用

 

ケネディ大統領は、アメリカ史上初めてのカトリック教徒で、史上最年少(43歳)で大統領に当選しました。建国以来、WASPと呼ばれる、White(白人)で、Anglo-Saxon(イギリス系アングロ・サクソン)で、Protestant(キリスト教の新教徒)のエリートがアメリカを支配し、彼らの生活様式アメリカ的生活様式の典型とされてきました。ケネディは、専制、貧困、疾病、戦争と戦うことを、世界に呼びかけ、颯爽と登場しました。「国が何をしてくれるかを問うのではなく、国のために、自分は何ができるのかを問うべきだ」と、ニューフロンティアの精神を掲げました。強力なリーダーシップを発揮し、キューバ危機の後に、ソ連との和解の道も切り開き、1963年には、「部分的核実験禁止条約」を調印するなど、若きリーダーとして益々の活躍が期待されていた最中、遊説先のテキサス州ダラスで暗殺されました。今日でも、最も人気のある大統領の一人です。

 

ケネディ暗殺により、棚ぼたで第36代大統領に就任したジョンソン大統領からは、ベトナム戦争で負傷した仲間の兵士を救出した勇敢な行為に対して、首都ワシントンで栄誉勲章を授与されました。

ジョンソン大統領は、アメリカから差別と貧困をなくすという「偉大な社会」計画を立て、1964年には、黒人差別撤廃のための「公民権法」を成立させました。しかし、現実社会ではなかなか差別はなくならず、黒人差別撤廃運動が盛んに行われました。非暴力主義を掲げたキング牧師の運動は大きな成果を上げましたが、1968年メンフィスで暗殺されました。結局、「偉大な社会」計画は中途半端に終わりました。

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「歴史風景館 世界史のミュージアム

発行者 星沢 卓也

発行所 東京法令出版 株式会社

より引用

 

1965年、アメリカ軍は前年のトンキン湾事件を理由に、北ベトナムに対して本格的な爆撃(北爆)を開始し、南ベトナムに大規模な地上軍を投入し、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と戦い始めました。ベトナム戦争の始まりです。

トンキン湾事件とは、北ベトナムトンキン湾で、アメリ駆逐艦を攻撃したとされる事件です。実際には、アメリカ側のでっち上げ事件だったことが、後に明らかとなりました。

アメリカは、50万を超える軍隊をベトナムに送り込み、第二次世界大戦の時の2.7倍の砲弾、弾薬を使用しました。アメリカ軍が空中散布した枯葉剤に含まれるダイオキシンなどの猛毒により、ベトナムでは多くの奇形児が生まれ、戦争が終わった後も、深刻な環境破壊が残されることとなりました。

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「最新世界史図説 タペストリー」

監修 川北稔

   桃木至朗

発行 株式会社 帝国書院

より引用

 

アメリカ側にとっては、東南アジア諸国を共産化から守るという大義名分の下での参戦でしたが、1968年のソンミ村虐殺事件や、その後のテト攻勢などの報道によって、一般市民が犠牲になっている悲惨な状況が明らかになり、アメリカ国内では、一挙に反戦機運が高まりました。ベトナム反戦運動は、黒人差別撤廃を目指す公民権運動と結びつき、激しい学生運動となって展開されました。映画「フォレスト・ガンプ」では、反戦運動家でジェニーの恋人である男性が、ジェニーを殴った言い訳として、「イライラしていたんだ、あの、くそジョンソンが、、」と言うシーンがあります。

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「歴史風景館 世界史のミュージアム

発行者 星沢 卓也

発行所 東京法令出版 株式会社

より引用

 

ベトナムへの軍事介入を泥沼化させて、世論の支持を失ったジョンソン大統領は、1968年の大統領選への不出馬を表明し、翌年の任期満了と共に政界から引退しました。

 

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「最新世界史図説 タペストリー」

監修 川北稔

   桃木至朗

発行 株式会社 帝国書院

より引用

1969年7月16日に打ち上げられたアポロ11号は、20日午後4時17分40秒にアームストロング船長、オルドリン飛行士を乗せて月面着陸に成功しました。

1961年、ソ連は人類初の有人宇宙飛行に成功し、宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」という言葉で時の人となります。ソ連に対抗すべく、ケネディ大統領が膨大な予算を投じてスタートさせた「アポロ計画」の成功により、アメリカは宇宙開発でソ連を抜き返しました。アームストロング船長が月に降り立つ前に言った「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大なる飛躍である」は不朽の言葉となりました。

 

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「歴史風景館 世界史のミュージアム

発行者 星沢 卓也

発行所 東京法令出版 株式会社

より引用

ジョンソン大統領の次に、第37代大統領に就任したのがニクソンです。1972年に中国を訪問し、中国との国交回復の道を開きました。また、同年、モスクワを訪問するなど、主として外交面で強いリーダーシップを発揮しますが、翌1973年に、ニクソン民主党本部の盗聴を命じた、ウォーターゲート事件が発覚し、アメリカ史上初めて、任期途中での辞任に追い込まれました。民主党全国委員会本部のあった、首都ワシントンD.C.ウォーターゲートビルが舞台となります。映画「フォレストガンプ」では、ウォーターゲートビルの向かいのホテルに宿泊していたフォレストが、深夜に懐中電灯を持ち、盗聴器を仕掛けている共和党側の実行班を目撃するという場面があります。

 

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フォレスト・ガンプサウンドトラック特別版

歌詞カードより引用

フォレストはこのニクソン大統領からも激励されます。今度は、全米代表卓球チームの選手として中国を訪問し、中国人選手と戦ったからです。ホワイトハウスに招かれるのは三度目でした。

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フォレスト・ガンプサウンドトラック特別版

歌詞カードより引用

 

無心で無欲なフォレストが、アメリカ現代史のど真ん中、輝かしい一面を歩むのとは対照的に、ジェニーは、歌手になりたいという自身の夢を叶えたいと渇望しながら、ヌードになったり、ヒッピーになったりし、やがて、ドラッグに溺れて不幸のどん底に堕ちていきます。

1960年代に、カウンターカルチャー(対抗文化)と呼ばれる、アメリカの中産階級が築いてきた文化に対抗する文化が出現します。学生たちは、スチューデント・パワーを誇示し、既存の秩序に挑戦しました。ベトナム戦争と関連させて、愛・自由・平和などを唱える一方で、マリファナ吸引などの弊害も生みました。このカウンターカルチャーの運動を担った白人中産階級のことをヒッピーと言い、既存の体制や価値観からの脱却を目指し、原始的共同生活を営みました。映画「フォレスト・ガンプ」の中では、1950年代、60年代、70年代と、年代を追って移りゆく風俗、文化、流行が丹念に描き込まれています。ジーンズ、ミニスカート、パンタロンに長髪の男たち、ピース・マーク、ゴスペル、ランニングブーム等々。

中国から帰国したフォレストがテレビのトーク番組でジョン・レノンと対談し、司会者に「中国はどうだった?」と尋ねられ、「中国の人は何も持っていません」と答えたフォレストに、ジョンは「財産も何も?」と尋ねます。「それに、教会にも行きません」とさらに続けるフォレストに、「宗教もない?」と尋ねます。それに対して「想像できないな」と言った司会の男性に、ジョンは「いや、想像できるさ」と返しています。フォレストとのやり取りから、1971年にリリースされた、平和を訴えた名曲「イマジン」の歌詞のインスピレーションを得たと思われます。

 

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フォレスト・ガンプ 一期一会」

パンフレットより引用

 

映画の最初では、フォレストの足元に羽が舞い降りてきて、最後では、フォレストが開いた本から、その同じ羽が足元にはらりと落ち、風に乗って空高く舞い上がっていくシーンがあります。映画監督でもあるビートたけしさんが「あのシーンだけで、自分の映画が一本作れる」とコメントしたことから、このシーンの撮影だけで巨額の費用(おそらく数千万単位)がかかったことが知られています。このシーンに、なぜそんなに巨額の費用がかけられたのかというと、それだけ重要だったからで、羽がこの映画の重要なモチーフとなっていることからも分かります。

この、風に舞う羽は、何を象徴しているのでしょう?

ジェニーが亡くなった後、墓前でジェニーに語りかけるシーンで「僕には分からないんだ、正しいのがママなのか、ダン中尉だったのか、僕らにはみんな運命(さだめ)があるのか、それとも風に乗って、ただ彷徨(さまよ)っているのか、多分、両方だろう、両方が同時に起こっているんだ」

まさに、このことがあの羽に込められた意味で、

風に舞う羽には、

「運命のように決まっている」

「ただ彷徨(さまよ)っている」

の2つの意味があるのではないかと考えられます。

並の人なら生涯に一度あるかないかのチャンスを、フォレストはチャンスとも知らずに、チャンスが巡ってくる度に最大限に生かしていきます。あくまでも自分のペースでひた走る彼は、やがて時代のヒーローになります。彼の胸にあるのは人生を優しく説いた母の言葉と、ジェニーに寄せる一途な愛でした。

「人生はチョコレートの箱。開けてみるまで中身は分からない」幸運のチョコレートの箱を手にし、成功を治めたものの、フォレストは決して幸せではありません。それは、愛するジェニーを手に入れられないからです。富を手に入れ、幸運な成功人生を悠然と歩んでいても、愛がなければ何の意味もありません。

フォレストは、自分の子どもを一人で産んで育てていたジェニーと再会し、遂に結婚することができました。それでも、必ずしもハッピーエンドではありませんでした。それからしばらくして、ジェニーが、おそらくはエイズと思われる、ウイルスに感染したことによる不治の病のため、幼い子どもを夫であるフォレストに託し、帰らぬ人となってしまうからです。

最後まで切ない物語でした。

彷徨いながら、ジェニーと結ばれ、子どもを授かり、共に生きるということは最初から決まっていたのかもしれません。彷徨うことも運命だったのでしょう。フォレストの母が言った「死も人生の一部なのよ」という言葉の意味が分かるような気がします。

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フォレスト・ガンプ 一期一会」

パンフレットより引用

映画「フォレスト・ガンプ」の魅力の一つに、劇中で流れる、1950年頃から1980年頃までの、約30年に及ぶ時代のヒットチャートを賑わしたフォークやロックの名曲が挙げられます。特に好きだったのが、フォレストが首都ワシントンで再会したジェニーと夜通し歩くシーンで流れていた、スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」でした。

映画「フォレスト・ガンプ」のサウンドトラックは、約1,800万枚という大ヒットを記録しました。

これまで、世界史の授業で生徒に見せた映画はいくつもありますが、この「フォレスト・ガンプ」に感動したという生徒が最も多かったと思います。IQが低く、背骨が曲がり、足に矯正ギブスをつけて、少年時代を過ごしたフォレストが、人並外れた俊足と素晴らしい集中力のおかげで、歳を重ねるごとに幸運をつかみ、気持ちが良いくらい成功した人生を歩んでいく姿に、自分もそうなれたらいいなという願望や希望を重ねてしまうからだと思います。

来年度の「世界史探究」の授業で 「フォレスト・ガンプで学ぶアメリカ現代史」というテーマで授業するのが楽しみです。

 

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懐かしのシネマ編⑥

ラストエンペラー✨の巻

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ラストエンペラー

製作 ジェレミー・トーマス

監督 ベルナルド・ベルトリッチ

音楽 坂本龍一 

   デビット・バーン

1987年 イタリア・イギリス・中国合作映画

パンフレットより引用

 

1950年、ハルビン駅に次々と、中国人戦犯たちが送り込まれていきました。800人を越す、その中には、"清朝最後の皇帝"愛新覚羅・溥儀(アイシンチュエロ・プーイ)の顔も見られました。虚ろな表情をした彼は、自ら命を断とうと、誰もいない事務室へ向かいます。手首を切り、流れる血を見ながら溥儀の脳裏に、紫禁城へ初めて連れて行かれた日が、まざまざと蘇りました。

 

その日、光緒帝は帰らぬ人となり、実質的支配者だった西太后は、溥儀の元へ皇帝軍の選抜隊を派遣しました。乳母と共に、まだ何も分からない幼い溥儀を紫禁城に迎えます。西太后自身、重い病に冒され、死期が近いことを悟っていたのでした。彼女は、子供のいない光緒帝の死後、その弟の子供である溥儀を皇帝にと考えました。そして、「あなたを、中国一万年王朝の皇帝に決めます」と言い残し、息を引き取りました。この時、溥儀は2歳10ヶ月でした。

紫禁城での皇帝としての生活は、外へ出ること以外は何でも望み通りでした。しかし「家へ帰りたい」という気持ちは抑えきれず、泣きじゃくる溥儀の心の支えは、乳母ただ一人でした。

7年後、溥儀は同母弟・溥傑(ふけつ)と初めて会いました。一歳違いの二人はすぐ仲良しになりました。そんなある日、書道を学んでいたとき、「黄色は皇帝の色だ、それを脱げ」「嫌だ」という押し問答の中で、「もう皇帝なんかじゃない」と言う溥傑の言葉にショックを受ける溥儀。城内での生活は何ら変わりありませんでしたが、中国全土には、革命の嵐が吹き荒れていたのです。塀をよじ登って見た外の世界は、弁髪(べんぱつ)が廃止され、大統領がパレードをしているのでした。溥儀は激変した北京を目の当たりにし、自分だけが時代の波に取り残されたことを感じました。その上、心の支えであった乳母が去っていきます。限りなく、孤独な少年でした。

そんな時、家庭教師としてイギリス人のレジナルド・ジョンストンがやってきます。彼は、数学を始めテニスや自転車など西洋の知識を教えました。溥儀の目は、次第に世界へ向けられていきます。自分の意思も言えず、指示されなければ動けない、自分が腹立たしく、悔しかったからです。

折しも、彼の母親が死にます。アヘンによる自殺でした。私腹を肥やすことに夢中な重臣たちは、固く門をを閉ざします。「門を開けろ!開けろ!」決して受け入れられない、悲痛な叫びでした。

やがて、彼は、古い習慣に反発しながらも、17歳の婉容(えんよう)を皇后に、12歳の文繍(ぶんしゅう)を第二の妃に迎えました。自分で相手も選べない、と不満を漏らす溥儀でしたが、結婚の儀式の後、寝室で初めてベールを取った妻、婉容の美しさに強く惹かれました。「一緒にオックスフォードへ」それが妻へのプロポーズの言葉でした。

 

ハルビン駅で死のうとした彼は、心ならずも直隷総監(収容所所長)によって救われ、撫順・戦犯管理センターに送られます。そこは、自分の犯した罪を償う、"人間改造"の場でした。しかし、溥儀に反省する気持ちはなく、罪の告白も平気で偽り、尋問者を苛立たせるのでした。

 

1924年のクーデターで、溥儀は紫禁城を追放されます。家庭教師のジョンストンは、イギリス大使館へ保護を要請してくれたので、溥儀は二人の妻、溥傑、女官らと共に紫禁城を後にしました。

 

一方、戦犯管理センターでは、罪の告白が続きます。「なぜ、皇帝になったんだ」と詰め寄られ、溥儀は天津の日々、甘粕正彦(あまかすまさひこ)大尉と接触したことを思い出していました。

 

紫禁城を出た、かつての皇帝は、天津の租界地でプレイボーイの生活を楽しんでいました。そんなある日、蒋介石率いる国民党が上海を攻略。溥儀の身の上を案じた甘粕は、日本公使館へ逃亡するよう指示を出します。その頃から、ずっと孤独を感じ、民主主義に目覚めた文繍は離婚を申し出ます。そして、置き手紙を残して去っていきました。姉妹のように仲の良かった婉容は嘆き悲しみます。そんな彼女の元へ、日本のスパイであり、溥儀の従姉のイースタン・ジュエル(東洋の宝石)が不吉なニュースを持ってやって来ます。外では、共和国政府が、「優待条件」として示した約束を破って、歴代皇帝の墓を暴き、金、銀など財宝の略奪が行われていると言うのです。溥儀は、中国が完全に自分に背を向けたことを、ひしひしと感じるのでした。

1932年、婉容をはじめ、全世界の非難の声にもかかわらず、溥儀は日本の"傀儡(かいらい)政府"である満洲国の執政になり、2年後、皇帝となりました。

この頃から、イースタン・ジュエルの影響で、婉容はアヘンに手を出すようになり、夫婦関係は冷えていきました。溥儀が天皇の公式招待で東京を訪問中、婉容は寂しさから、運転手チャンと一夜を過ごし、身ごもってしまいます。東京から帰った溥儀を待っていたのは、妻の裏切りと、日本軍部による内政干渉でした。信頼する 鄭孝胥(ていこうしょ)首相は更迭され、甘粕はチャン・チンフィを首相に任命、そして、運転手チャンは、不祥事の口封じのため射殺されました。ここに至って、溥儀は初めて罠にはめられたことに気づきます。「相互の国家の独立と平等を尊重したい」と主張する溥儀に対し、「日本人は唯一神聖な民族。だから支配する。アジアは我々のものだ」と、甘粕は言い放つのでした。やがて、婉容は出産しますが、子供は密かに始末され、死産と発表されました。

1937年、日中戦争が勃発すると、日本軍は主要都市を次々に制圧し、満洲国は日本軍のための戦略上、工業上の基地とされました。しかし、日本軍が崩壊する日が来ます。1945年8月9日、ソ連軍が日本に宣戦布告。戦火は満州にも及びます。そして、8月15日、日本は無条件降伏をしました。甘粕はピストルで自決。ソ連軍は満州へ侵入し、もうそこまで迫っていました。日本へ脱出しようとした満洲国皇帝は、長春の空港で、ソ連軍の捕虜となったのでした。

 

収容所での日々の学習の中で、囚人たちに、徹底的に再教育が施されていきました。

1959年、10年間の厳しい収容所生活を経て、溥儀は特赦されます。囚人981号から愛新覚羅溥儀へ戻ったのでした。「みんなうわべだけだ。同じ人間が変われるものか」と言い放っていた人間が、本当の意味で、皇帝から一市民へ、生まれ変わったのでした。

一市民となった溥儀は、庭師となり、北京で暮らしていました。そして、かつて幼年時代を過ごした紫禁城を訪れました。今は観光地となってしまった、その場所で昔を懐かしむのでした。

1967年、溥儀はがんのため、その波乱に満ちた生涯を閉じました。61歳でした。

 

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「グローバルワイド  最新世界史図説」

発行所 株式会社第一学習社

より引用

 

1911年の武昌蜂起に始まった辛亥革命により、孫文を臨時大総統とする中華民国が誕生しました。この共和革命に対し、満州族の統帥では、孫文率いる国民党軍に対抗できないと認めた清朝は、溥儀の父親で、摂政王たる醇親王載澧(じゅんしんのうさいれい)の決断で、軍閥袁世凱(えんせいがい)を総理大臣に抜擢しました。ところが、中国支配の野心を抱いた袁世凱清朝を裏切り、孫文に取り引きを持ちかけます。「俺が皇帝を退位させるから、共和国の大総統の地位を俺に譲ってくれ」この取り引きに孫文は応じ、袁世凱との間に密約が交わされました。

袁世凱は、清朝に対し、皇帝退位と引き換えに与えられる「優遇条件」を提示しました。

 

1  大清皇帝退位後も尊号は廃止せず、中華民国は外国君主を遇する礼をもってこれを遇する。

2  中華民国から年間400万両の年金が支給される

3  退位後、皇帝は紫禁城に居住することができる

4  宗廟、陵は保護される。

5  宮中の職員は従来通り使用できる

6  私有財産中華民国が保護する

 

この「優待条件」をのみ、1912年2月20日、溥儀の退位が発布されました。3歳で即位した溥儀が6歳で退位することになりました。清朝は滅亡しましたが、この「優待条件」は、北京の一画にある「紫禁城」に、清朝継続のシステムが残ったことを意味し、1924年、クーデターによって北京を占領した馮玉祥(ふうぎょくしょう)の指示により、追い出されるまで、溥儀は紫禁城で生活することができたのです。

 

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「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」

株式会社浜島書店 発行

 

溥儀と日本との接点となったのが「日中戦争」です。

昭和6(1931)年9月18日、関東軍の数名が、南満州鉄道(満鉄)を爆破しました。(関東軍は、日露戦争終結の翌年1906年日露戦争で手に入れた関東州[旅順、大連地区]と南満州鉄道の守備部隊として作られました)その後、関東軍奉天を制圧しました。「満州事変」と呼ばれる事件です。

関東軍は、中国の東北部の3つの省(遼寧吉林黒龍江)を日本の植民地にしようと計画しますが、いきなり武力を使ったのでは、国際的制裁を受けてしまいます。地元の政治勢力自治を望んで独立したという形にしたい、そのためには、満州族清朝最後の皇帝である溥儀を担ぎ出すのが一番だと考えました。

関東軍満州国の元帥として、溥儀を選択した理由として、

第一は、溥儀が満州の名門の出身で、旧皇帝であることから、元首として通用する。

第二に、いわば故郷からの出馬であり、頭首となっても、国際的な非難から免れる。

 

満州事変」のような大規模な軍事行動は、本来なら、天皇の命令がない限り、実行不可能なものでした。 天皇は、この事態を憂慮し、政府は不拡大を国内外に表明しますが、現地の関東軍は、新政権樹立に向けて画策し、満州の独立宣言に向けて動き始めます。若槻礼次郎内閣は、結局、関東軍の独断行動を追認することになります。日本にとって満州は、かつて日露戦争において十万の英霊の犠牲のもとに、その権益を獲得した聖地だったからです。

 

日本では、昭和4年に始まった世界恐慌から始まった深刻な不況、農村の困窮といった社会不安に政党が有効な手を打つことができず、軍部は危機感を募らせていました。財界や政治家のスキャンダル、あるいは農村不況を受けて、青年将校のなかに国家改造を唱える者たちが増えていきます。

満洲事変」は、閉塞した現状を打破する事件として受け止められ、国家改革を目指す青年将校らの意識を高め、人々が軍人を見る目を変えました。

日露戦争後、中国を取り巻く環境は大きく変わります。日露対立は日露協商に展じ、日英同盟、日仏協商などと併せて、対立ではなく協調の時代が到来しました。第一次世界大戦が終わると、国際協調、軍縮が進み、日本のシベリア出兵が批判されるようになります。帝政ロシアに代わって登場した共産主義ソ連との対決の構図もまだ生まれておらず、軍人の地位の低下は明らかでした。それが一転して、現状打破の推進力とみなされるようになったのです。

満洲事変」が始まって以来、陸軍に批判的だった新聞各紙ですが、やがてが「満洲に独立国ができる事は、歓迎こそすれ反対すべきではない」と、その論調が変わっていきました。内務省の報道差し止め措置もあって、国民は、「満洲事変」からの一連の出来事の詳細を知る由もなかったのです。

世界恐慌、東北地方の凶作と続き、経済が落ち込んだ時にあって、新天地満州への期待は大きく膨らみました。新聞紙面には、「起死回生の新天地へ」「夢のような宝に満ちた国」といった言葉が踊るようになります。

満蒙開拓団」と呼ばれる農業移民として、満洲国に移り住んだ日本人はおよそ155万人、その主力は、耕地が少ない農村の次男、三男で、村の人口を二分して一方の者を送り出す「分村移民」も行われました。敗戦で18万人余りの人々が犠牲となり、戦争末期の混乱から多くの残留日本人が生まれることになります。

 

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「歴史風景館 歴史を探究し、未来を創造する

 世界史のミュージアム

 発行所 東行法令出版株式会社

 より引用

1931年は、清朝崩壊から20年、中華民国建国から20 年、「この中国の主人になるものは誰か、アジアの中でその資格ある者は、一人は日本の天皇であり、一人は宣統帝溥儀である」

溥儀をはじめ、側近たちの夢も広がっていきました。

溥儀は生涯で三たび皇帝になりましたが、最初の時は3歳、次は11歳、3度目は28歳になっていました。溥儀は、復活について、「大人に指導されて私の役割を演じたが、後には、自己の階級的本能によって動いた」と述懐しています。

後年、溥儀の弟、溥傑は「『満洲国』とは何か」と聞かれ、「清朝復活のために関東軍を利用し、関東軍もまた私たちを政治目的のために利用しただけです。そのための仕組みが私たちにとっての『満洲国』でした」と答えています。

1912年に清朝が崩壊した後、20年余りの間、隠遁生活を送った溥儀と溥傑の兄弟はともに「満洲国」建設に加わりましたが、彼らの共通の、そして、唯一の望みは清朝復活でした。孫文の共和革命で退位した溥儀の復活願望は、「退位の詔勅の発布から満洲帝国の成立まで、一日もやんだことがなかった」と言えるものでした。しかし、没落した愛新覚羅家にその力はなく、復活を願う兄弟は、彼らと手を組む政治勢力を必要としていました。

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

発行所 株式会社第一学習社

より引用

1932年「満洲国」が成立し、溥儀は執政に就任しました。そして、2年後の1934年3月1日、ついに溥儀は「満洲国」皇帝に就任します。

「それは砂嵐の吹き荒れる極寒の日だった。溥儀が待ちに待った日が到来した。1912年に退位してから二十年余、溥儀は再び皇帝に就任した。溥儀は28歳。まさに天にも昇る心地だったはずだ。

溥儀は当然のことながら、清朝における正装である龍袍(りゅうほう)(中国の清朝皇帝が着用した正装で、龍がデザインされた外衣(袍)です。皇帝の権威と威厳を象徴し、お祝い事や重要な慶典の際に着用されました)を着用することを考え、わざわざ北京から取り寄せた。復活を目指す溥儀にとって、皇帝とは「大清皇帝」であって「満洲国皇帝」ではない。しかし、関東軍にとっては、あくまでも「満洲国皇帝」である。交渉かなわず、即位においては満洲国陸海軍大元帥の正装を着用するよう指示された。溥儀はテーブルの上に広げられた、皇帝だけが着用を許される明黄(めいこう)(黄色)の龍袍(りゅうほう)を見て、ため息をつくほかはなかった。しかし一方で関東軍は、溥儀のプライドをくすぐることを忘れなかった。3月1日、溥儀は新京郊外の天壇上で、即位を天に報告する儀式を行ったが、このときは 龍袍をまとったのだ。日本軍と警察、日満の官僚、外国通信員が、これを見守った」

昭和天皇ラストエンペラー 溥儀と満州国の真実」より引用

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昭和天皇ラストエンペラー    溥儀と満州国の真実」

著者 波多野勝

発行所 草思社

 

関東軍にとって、「満洲国」は清朝の復活を意味しませんでした。関東軍側は「日満一体化」を考え、日本と「満洲国」が強い絆で結びついているとアピールし、溥儀と昭和天皇の絆を固めるセレモニーを企画しました。溥儀が日本を訪問して、「満洲国」の存在を内外に示し、さらに皇族と交流するという企画がそれでした。溥儀訪日の実現は容易ではありませんでした。有史以来、中国の皇帝が日本を訪問した例はありません。それなりの段階を踏まなければなりませんでした。まずは、「満洲国」総理鄭孝胥(ていこうしょ)が訪日し、続いて、昭和天皇の弟たる秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王が渡満し、溥儀を訪日へと導きました。

 

昭和10(1935)年4月4日、九州西海方面で日本の連合艦隊が溥儀を出迎えました。髙橋三吉連合艦隊司令長官率いる70隻もの大艦隊でした。溥儀はどの艦船も見るのは初めてでした。上陸前からの思わぬ歓迎に、溥儀は「日本が示した威力に深く驚異を感じた」そして、「この目のくらむような、思いがけぬ鄭重なもてなし」は「私への真心からの尊敬、真心からの援助だとみなした」と、「わが半生」に記しています。4月6日、秩父宮の案内で、溥儀は横浜に上陸しました。お召し列車に乗り、到着した東京駅のプラットフォームに待機していた昭和天皇と歴史的な対面を果たし、握手を交わしました。溥儀は、四頭立ての美しい儀装馬車秩父宮と同乗し、赤坂離宮から、宮城に入りました。

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「最新世界史図説タペストリー」

発行 株式会社 帝国書院

より引用

大宮御所で貞明(ていめい)皇太后昭和天皇の母)と会見した溥儀は非常に感動した様子だったと、「昭和天皇ラストエンペラー」に記してあります。溥儀は皇太后に対して、母親に対するような感情を抱いたといい、このことが日本の皇族との交流を一掃深めていく大きな要因となったといいます。

溥儀は、皇太后からの贈り物は、特に大切に取り扱いました。皇太后から、ポンと鬼が飛び出す玩具を慰みに届けてこられると、皇帝は大喜びで、侍衛官たち一同に、これを操りながら見せたりもしました。

闊達(かったつ)な人として知られていた皇太后は、昭和天皇より5歳歳下で、退位に追い込まれ、少年時代に母を亡くした溥儀に同情を寄せ、良き理解者になろうと努められたのではないでしょうか。

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昭和天皇ラストエンペラー 溥儀と満州国の真実」より引用

 

「皇帝は日本を訪問されてから別人のように明朗となった。満洲において、日本の軍人から受けていた名状しがたい圧迫感が、これで一掃され、温かい慈愛の精神に包まれて、初めて落ち着きを得られた心境だった。側にいた私どもは、この変化に驚きもし、喜びもした」溥儀の侍衛官だった工藤忠は、著書である「皇帝溥儀」の中でこう記しています。

 

昭和16(1941)年12月8日、ついに日米開戦となりました。この日、溥儀は、「大東亜戦争に関する勅書」を発布しました。「私は日本天皇陛下と精神一体の如くである。あなたがた庶民もすでに日本国民と一徳一心の心を持ち、不可分の関係をもって、固く共同防衛の義を結んでいる。この際、死生存亡は断じて引き離すことがない」

溥儀は、「満洲国は国人を挙げ、国力を尽くして盟邦の戰を援助する」と決めました。 「満洲国」は、運命共同体である「大日本帝国」の敗北とともに消滅しました。

戦後、東京裁判の証言台に立った時、関東軍や軍人との関係では「自己保身に務めた」溥儀でしたが、「日本皇室に対しては、そうした態度をとらなかった」といいます。

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「NEW  STAGE 世界史詳覧」

発行者 株式会社浜島書店

より引用

 

「これまで『満洲国』については、日本の傀儡国家という側面のみを見る空気があり、関東軍の役割を過大に見たために、『満洲国』の実像に迫りきれないきらいがあった。改めて考えてみなくてはならないのが、『満洲国』における溥儀の役割である」

昭和天皇ラストエンペラー」より引用

 

映画「ラストエンペラー」の冒頭、1950年7月、ハルビン駅で自殺を図る溥儀は、まだ自身の責任を自覚していません。自分が「満洲国」の「皇帝」になったのは、すべて日本の政治や軍閥の強制によるもので、自分のせいではないと思っています。現実の溥儀が自分の罪を自覚するには、その後の10年間の獄中生活が必要でした。自分の責任であったことをすべて認めた時、溥儀は一人の人間になりました。龍から人間に変わったとも言われる溥儀に対し、中国政府は市民権を与え、釈放します。

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

より引用

 

明の永楽帝が現在の南京から北京へ遷都したのが1406年。15年の歳月と20 万人以上の労働力を駆使して築き上げたのが「紫禁城」でした。以来、500年にわたり、明・清王朝の皇城となりました。東西760m、南北960m、高さ10mの城壁が囲み、60以上の殿閣が建ち、部屋数は9,000にも達します。中国人は神だけが10,000もの部屋を持てると信じていました。「紫禁城」の名は、天帝(創造主)が住んでいる星とされる北極星を紫微星、北極星の周辺を回る星座の辺りを柴微垣(しびえん)と呼んだのに由来する「紫宮」と、庶民の立ち入りを禁じた 「禁地」を組み合わせた「紫宮禁地」の略であるとされています。

現在、紫禁城は「故宮博物院」と名を変え、新石器時代の出土品から清朝までの芸術工芸品が陳列されています。当時、一日5万人もの観光客が訪れる「故宮博物院」を、  撮影の数週間は関係者以外立ち入り禁止にしてロケが行われたといいます。これはそれまでにはない異例のことで、イギリス女王エリザベス2世が訪れた時も、このような歓待は受けなかったといいます。

 

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ラストエンペラー

パンフレットより引用

 

19,000人のエキストラを駆使したといわれる映画「ラストエンペラー」で、一番印象的だったのが、溥儀の即位式でした。3歳の溥儀の眼下で、彼方まで列をなして続く臣下たちが、跪(ひざまず)き、額を地面につける「三跪九叩頭の礼」は圧巻でした。

「跪(グイ)」の号令で跪き、「一叩頭(イーコートー)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付け、「再叩頭(ツァイコートー)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付けます。「三叩頭(サンコートー)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付け、「起(チィー)」の号令で起立します。これを3回繰り返し、合計9回「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」皇帝の前でとる臣下の礼で、世界で最も屈辱的な儀礼とも言われています。

 

次に、溥儀にとって唯一の心の支えであった乳母との突然の別れのシーンです。音楽監督を務められた坂本龍一さん作曲によるドラマティックな曲が、溥儀の孤独と悲しみを語るようです。坂本龍一さんが初めて担当された映画音楽「戦場のメリークリスマス」が好きだというベルトリッチ監督に、「戦メリに歴史的な要素を加えたい」という注文をつけられたと、インタビューで坂本龍一さんが語っておられました。映画「ラストエンペラー」で、アカデミー作曲賞デヴィッド・バーン、蘇聡(スー・ソン)と共同受賞した際、「この賞を受賞したことよりも、これから仕事を選べるという点のみで今回の受賞は喜ばしい」とコメントされ、その後、活動の拠点を日本からアメリカに移されました。

坂本龍一さんが演じられた甘粕正彦(あまかすまさひこ)大尉は、誰よりも日本国を愛し、天皇を崇拝した真の軍人として描かれています。甘粕大尉は、満洲映画協会の理事長に就任し、満映を急成長させますが、理事長就任式で、職員代表の歓迎の挨拶を受けた彼は、きりりとした口調で「満洲建国の功労者というお世辞は、私には当たりません。粉骨砕身などという美辞麗句を並べても、心に誠がなければ何にもなりません。私たちは日本人ですから、死んだら骨は日本に埋めるのです」と返したという逸話が残っています。甘粕大尉は、昭和20 年8月20日、青酸カリを服用し自決しました。(この映画では、ピストル自殺したとして描かれています。ピストル自殺したヒトラーの軍人としての名誉を奪うために、ベルリンを占領したソ連ヒトラーの死を公表することを禁じ、後にピストル自殺を否定し、服毒自殺であったと主張したと本で読んだことを思い出しました)

気性の激しかった甘粕大尉を演じた坂本龍一、溥儀のジョン・ローンという対面も、この映画を飾るハイライトシーンとなりましたが、溥儀役のジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのため、撮影中は一言も口をきかなかったという後日談もあります。

映画「ラストエンペラー」で、坂本龍一さんが音楽を担されなかったら、甘粕大尉を演じられなかったら、これほどの名作にはならなかったと思います。

坂本龍一さんは、2023年3月28日に71歳で死去されました。桜が咲く季節になると坂本龍一さんを思い出します。「芸術は長く、人生は短し」という一節を、生前好んで使われたといいます。

心よりご冥福をお祈りいたします。

 

参考資料

「完全保存版 消えた帝国

   満州の100人」

著者  太平洋戦争研究会 

発行者 唐津 隆

発行所 株式会社ビジネス社

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懐かしのシネマ編⑤

プライベート・ライアン✨の巻

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プライベート・ライアン

監督 スティーブン・スピルバーグ

脚本 ロバート・ロダット

主演 トム・ハンクス

提供 パラマウント映画 &  ドリームワークス

1998年度製作

パンフレットより引用

 

1944年6月6日、フランス、ノルマンディーの海岸で、史上最大の進攻作戦が始まりました。沖合の海を埋め尽くした米連合軍の大艦隊。幾千の上陸用船艇とともに、なだれを打って強襲する若き兵士たち。その中に、ジョンミラー大尉(トム・ハンクス)率いるアメリカ第2レンジャー大隊C中隊の面々がいました。5つの上陸ポイントのうち、ミラー大尉が目指したのはオマハビーチ。しかしそこには、ドイツ軍の想像を絶する抵抗が待ち受けていました。後に「ブラディビーチ」と呼ばれる、打ち寄せる波が兵士の血で真っ赤に染まるほど阿鼻叫喚のちまたと化す海岸で、生死を分けたものは「運」だけでした。

多大な犠牲を払った末に上陸し、ドイツ軍を撃退したミラー大尉たちが橋頭堡を築いて3日目、地獄の戦場をくぐり抜けた彼らに、さらに苛酷な任務が待っていました。「一個分隊で、戦線を突破し、生死不明の落下傘兵を探せ」第101空挺師団所属のジェームズ・ライアン2等兵は、故郷アイオアに母ひとりを残し、3人の兄とともに出征しましたが、兄たちは、この1週間内の戦闘で全員が死亡しました。2人がノルマンディの海岸で、一人は、ニューギニアの戦場で。   報告を受けた軍最高首脳マーシャル将軍の脳裏をよぎったのは、ガダルカナルで兄弟5人が一度に戦死した「サリバンの悲劇」でした。そして、その決断は迅速でした。「残る一人を生きて祖国へ連れ戻せ」

命令を受けたミラー大尉に許されたのは、C中隊から、選り抜きの兵士たちを作戦に充てることでした。古参軍曹のホーバスは、ミラーの片腕といえる存在です。口の減らない、ニューヨーカーのライベン2等兵は厄介者ですが、ガッツがあります。イタリア系のカバーゾ2等兵は、中隊一のタフガイです。ナチス嫌いのユダヤ人、メリッシュ2等兵、聖書の引用が癖の射撃手ジャクソン、衛生兵のウェイド、語学力が買われた実戦体験ゼロのアパム伍長という顔ぶれです。

ミラーの分隊は、101空挺団が誤って降下したと見られる最前線のヌービルを目指しました。

「一人を救うのに8人の命を危険にさらすのは道理に合わない」兵士たちの心に巣食っていた疑問を最初に口にしたのはライベンでした。大規模な戦闘の中でたった一人の兵士を探す。巨大な針の山から針を探すに等しい行為に、8人が駆り出されたのです。彼らの疑問は、非情に任務を遂行しようとする隊長ミラーの人となりへも向けられるのでした。

分隊は銃声が散発的にこだまする廃墟の街へ入りました。米軍混成部隊が援軍を待ちながら、街を死守していました。悲劇は突然やってきました。一瞬の気の緩みが仇となって、カバーゾが撃たれました。姿なき敵の狙撃兵をジャクソンが照準に捉えるまで、分隊は死にゆく仲間を、ただ、手をこまねいて見ているしかできませんでした。

「ライアンなどクソくらえ」カバーゾの死で分隊は一気に重苦しい空気に包まれました。街の北側には「101」の兵士たちが、防御陣地を築いていました。ライアンという名の兵士がいると聞いて、色めき立ちましたが、全くの別人でした。

分隊は田園地帯の駅周辺に陣を敷く空挺部隊と遭遇しました。彼らからライアンに関する手がかりを掴みます。シェルブールを抑えるためのメルデレ川沿いの要衝ラメルの守備に徴発されたといいます。ラメルを目指す分隊の前に、避けては通れない敵の機関銃陣地が姿を現しました。激しい戦闘でこれを撃破したものの、衛生兵ウェイドが非業の死を遂げます。捕らえた敵兵を解放したミラーに、やり場のない怒りをぶつけるライベン。隊を離脱しようとする彼にホーバスが銃を向けた時、ミラーが意外な一言を発しました。「俺は高校の教師だ」ミラーは続けます。「ライアンなんて赤の他人だ。彼を探し出し早く妻の元に帰る、それが俺の任務だ」職業軍人ではなかったミラーの人間的背景が、分裂しかけていた隊を再び結束させました。

そんな分隊とライアンの出会いが、予期せぬ状況の下で訪れました。敵装甲車との遭遇で立ち往生した分隊の危機を、ライアンを始めとする空挺隊員たちが救ったのでした。感無量でライアンを見つめるミラー。兄たちの死を告げられた時、若者の凛々しい頬を涙が伝いましたが、あとの態度は毅然としていました。ドイツ軍の機甲部隊を待ち受ける戦友たちを見殺しにする形で、今、国に帰ることはできないと言うライアンの断固たる決意に、ミラーは説得を諦めざるを得ませんでした。ミラーに選択肢は一つしかありませんでした。共に踏みとどまってドイツ軍と一戦を交えることです。乏しい兵力と装備の中で、戦闘準備に入るミラーの分隊。強力なティガー戦車を押し立てた、敵の機甲部隊が目前まで迫っていました。

 

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「世界史の重要テーマ123を完全網羅!

   ビジュアル図説 世界史」            より引用

1940年6月、フランスがドイツに降伏したことにより、西部戦線の最前線はイギリスの南海岸に移っていました。連合国軍は1940年の夏までに、ヨーロッパ大陸からイギリス本土へ撤退し、孤立したイギリスのチャーチル首相とアメリカのフランクリン・ローズベルト大統領は、1943年1月、軍事作戦の優先順位を確定するため、カサブランカで会談し、先にドイツを無条件降伏させる目標で合意しました。これを達成するには、西ヨーロッパへの軍事侵攻は絶対条件でした。1941年にドイツ軍がソ連に侵攻して以来、ドイツの陸上戦力はほとんどが東部線線に向けられていました。ドイツ陸軍の攻撃を一手に受けていたソ連の最高指導者スターリン英米に対して、フランスに第二戦線(西部戦線)を築くことを再三にわたって要請していました。

 

フランス北部への上陸作戦の計画立案のプロセスは、1943年の1月に連合軍総司令部のスタッフによって始められました。1944年4月28日には南デヴォンで上陸演習が行われましたが失敗し、アメリカ軍に749人の死者を出しました。

大規模な上陸作戦には、広大で障害物が少ない砂浜が最適とされ、 イギリス本土基地から出撃する連合国軍戦闘機の航続距離の問題もあり、候補地はパ・ド・カレーかブルターニュ半島、ノルマンディーに絞られました。

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「世界史劇場 第二次世界大戦 

 熾烈なるヨーロッパ戦線」            より引用

地理学的に、上陸地点はパ・ド・カレーとノルマンディーの2地点に絞り込まれました。パ・ド・カレーが、イギリス本土から距離的に最短であり、上陸地点として最適でしたが、あまりに上陸作戦に好条件が揃っているので、ドイツ側も連合軍によるパ・ド・カレーへの上陸を警戒していました。 ドイツ軍は早くから入念に要塞化しており、防御が強力だったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択することになります。

 

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「地図と解説でよくわかる 第二次世界大戦

 戦況図解」                                    より引用

上陸作戦計画の鍵は、上陸海岸の側面を保持するための空挺攻撃でした。作戦開始となるD -DAY(ノルマンディー上陸作戦決行日)未明に、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団の三個空挺師団がノルマンディーに降下し、その直後に上陸が始まる計画でした。夜間の空艇奇襲はトラブルの連続でした。グライダーによる着陸は比較的順調でしたが、落下傘部隊の着地範囲がばらけてしまい、部隊を再編するのに予想外に時間がかかりました。一方で、上陸部隊、第一波はイギリス、カナダ軍がソード、ジュノー、ゴールド、アメリカ軍がオマハ、ユタの、合計5カ所の海岸に上陸しました。全体として上陸作戦は順調でしたが、ドイツ軍による最も頑強な抵抗を受けたオマハビーチだけは、極端な苦戦となりました。上陸部隊を支援する艦艇群は海岸から遠く、上陸部隊に帯同するはずの水陸両用戦車の多くが荒波のために沈没したり、海岸にたどり着くことができなかったからです。「戦車の支援がなくなったオマハビーチは作戦的に完全に失敗だった」と言われています。他の4つのビーチの波は比較的穏やかであったことから、戦車は殆ど無事に上陸に成功し、上陸後の「オーバーロード作戦」で活躍することとなります。

 

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「グローバルワイド 最新  世界史図表」

編集者  第一学習社編集部

発行者  松本洋介

発行所  株式会社 第一学習社

印刷所  図書印刷株式会社                 より引用

 

「この海岸には、2種類の人間がいる。既に死んだ者と、これから死ぬ者だ。戦おう、生きるために」 第16歩兵連隊、連隊長のジョージ・A・テイラー大佐がオマハビーチで、兵士に前進を促した時にかけた言葉です。

D-DAYのこの日だけで、約15万人の兵士が上陸するという史上最大規模の上陸作戦でしたが、死者はオマハビーチだけで3000名で、この日の損害では突出していました。

ノルマンディー上陸作戦は第二次世界大戦中の最もよく知られた戦いの1つであり、この作戦で用いられた軍事用語D -DAYは、作戦開始日の1944年6月6日を指します。この作戦があまりに有名なため、Dデイと言えば、この作戦を意味するようになりますが、「D」の由来は不明です。ちなみに、マッカーサーによる「日本本土侵攻作戦」の決行予定日が「Xデイ」と呼ばれ、これは今でも「いつ起こるか分からない重大な日」として使われています。「ノルマンディー上陸作戦」を題材とした、1962年製作のハリウッド映画「The  Longest  Day」という題名は、6月6日妻の誕生日を祝うために休暇を取ってしまった、ドイツ軍のロンメル将軍が言ったという言葉、「上陸作戦は24時間で決まる。我が軍にとっても連合軍にとっても、一番長い日になるだろう」にもとづいており、ドイツ語でもこの日は「 der Längste tag(一番長い日)」として知られています。日本では、この題名を「史上最大の作戦」と訳しました。

 

アメリカ軍は、ノルマンディー上陸作戦とほぼ同時期に、日本との太平洋戦争でも、マリアナ諸島への大規模な侵攻作戦を計画しており、アメリカの無尽蔵の物量を証明することとなりました。

 

多大な犠牲を払いながらも、ノルマンディー上陸を果たした連合軍は、それ以降、大規模な反抗に転じ、ドイツ軍はじりじりと敗北を続け、1945年4月30日にヒトラーが自殺した後、5月2日、ソ連軍がベルリンを占領、5月7日、ついにドイツは無条件降伏しました。

日本の同盟国であるドイツは、こうして追い詰められていきました。1945年5月にドイツが無条件降伏してから、日本はたった一国で世界を相手に戦わなければならなくなります。

 

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「歴史風景館 世界史のミュージアム

発行者 星沢卓也

発行所 東京法令出版社     より引用

映画「プライベート・ライアン」では、冒頭、約30分間続くオマハビーチでの戦闘シーンの壮絶さにまず圧倒されます。上陸艇から降りた途端に、ドイツ軍の機関銃が打ち込まれ、アメリカ兵がバタバタと倒されていきます。うなりを上げて、飛んでくる銃弾から逃げることはできません。海に飛び込んでも、海中にまで銃弾が打ち込まれ海はたちまち血に染まります。浜辺では腹を撃たれ内臓がむき出しになった兵士が、苦痛の叫び声を上げています。片腕をもぎ取られた兵士が、その腕をぶら下げて、死屍累々たる浜辺を茫然自失の状態で歩きます。そこにまた容赦なく銃弾が撃ち込まれます。

スピルバーグ監督は、この「プライベートライアン」で初めて正面から戦争を題材にしました。

戦闘場面の凄まじさは、第二次世界大戦を扱った映画としては初めてのもので、ベトナム戦争の映像体験と、体がちぎれ内臓が飛び出るホラー映画の隆盛を通過して初めて可能になった表現だといわれています。

 

第一次世界大戦から近代兵器を駆使した総力戦は、何万人、何十万人というおびただしい兵士の犠牲の上で戦われるようになりました。戦争遂行者から見れば、兵士は消耗品です。

「無名の兵士」と言う言い方をついしてしまいますが、兵士たちは誰もが自分だけの名前を持っています。名前を持った人間として死んでいきます。名前には兵士の尊厳が込められています。「プライベートライアン」の「プライベート」は、「私的」と言う意味ではなく、「2等兵」という意味です。

死んだ兵士の首から取った認識票の中から、ライアンのものを探す場面があります。無造作に認識票をばらまいていく兵士たちを、別の部隊の兵士たちが、批判的な目で見つめます。自分たちが同じ仲間から、消耗品扱いされていることへの無言の抗議でした。敏感にそれに気づいたミラー大尉は、すぐに認識票を確認するのをやめさせ、「ライアンはいないか」と大声で名前を呼びます。かけがえのない個人の象徴である名前こそ大事にされないといけないというメッセージが込められています。「無名の兵士」のなかから、名前を持った一人の個人を見つけ出すことの重要性。でも、その個人を大事にする旅は、他の8人の兵士を危険にさらす旅でもありました。一人の兵士が口にします。「なぜライアン一人を救うために、8人の命を危険にさらすのか」誰もその疑問に応えることはできません。

ようやく探し当てたライアン2等兵は、生き残った仲間たちと、小さな橋での戦闘に備えていました。「国に帰れ」と言うミラー大尉に、ライアンは「仲間を見捨てて、自分だけが助かるわけにはいかない」と答えます。苛酷で非人間的な戦場で、若い兵士が持ち得ているギリギリのモラルであり、尊厳です。それは、ミラー大尉にも、勇敢で男気があるホーバス軍曹にも共通した信念でした。ライアンを探し当てるまでに2人を犠牲にしました。しかし、ライアンが生き残るためには、さらなる犠牲が必要でした。彼らはライアンの正義感のために死んだともいえます。そのような不条理に裏打ちされているからこそ、生き残った者の責任は重く、生き残って子孫を残すことのかけがえのなさを観る者に訴えかけます。

全ての戦争で死んでいった兵士たちに捧げられた鎮魂歌でもある「プライベート・ライアン」で描かれている戦場の兵士の尊厳に敬意を払い、無念の思いからは学ばないといけないものが沢山あります。

 

参考文献

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「世界史劇場 第二次世界大戦 

 熾烈なるヨーロッパ戦線」

河合塾講師 神野正史 著

内田真介 発行者

ベレ出版 発行・発売

 

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「地図と解説でよくわかる 第二次世界大戦

 戦況図解」

 

著 デヴィッド・ジョーダン、

  アンドリュー・ウィースト

訳 宮永忠将

発行所 株式会社ホビージャパン

 

 

懐かしのシネマ編④

パール・ハーバー✨の巻

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「PEARL  HARBOR パール・ハーバー

監督 マイケル・ベイ

脚本 ランダル・ウォレス

製作 ジェリー・ブラッカイマー

タッチストーン・ピクチャーズ 

ジェリー・ブラッカイマー・フィルムズ提供

ブエナビスタ インターナショナル(ジャパン)配給

2001年アメリカ映画 

パンフレット より引用

 

アメリカ陸軍航空隊の精鋭パイロットであるレイフ・マコーレとダニー・ウォーカーは、テネシー州ののどかな農業地帯で兄弟同然に育ちました。陽気で決断力に満ちたレイフと、どちらかと言えば内省的で思いやりあふれるダニー。性格は全く異なる二人でしたが、固い友情の絆で結ばれていました。

1941年1月、レイフとダニーは「度胸試し(チキンレース)」と称して、P-40戦闘機でアクロバティックな飛行をし、上官の大目玉を喰らうことになりますが、レイフを呼びつけた司令官ドゥーリトル中佐の叱責は形ばかりのものでした。冒険家としても有名な伝説のパイロットであるドゥーリトルにとって、レイフの無軌道さとパイロットとしての腕の確かさは、まるで若き日の自分を見るようでした。レイフを呼び出した真の目的は、かねてからレイフが志願していたイギリス空軍イーグル飛行隊への参加を認めると伝えることでした。

1939年に勃発した第二次世界大戦は、激化の一途をたどり、ヨーロッパはナチス政権下のドイツ軍の脅威にさらされていました。アメリカ政府はイギリスへの援助を表明するものの、いまだ戦争への不介入を貫いていました。こうした状況の中で、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの中立国から志願したパイロットたちにより、「イーグル飛行隊」が編成されていました。レイフにとっては待ちに待った出撃でしたが、二つだけ心残りがありました。一つはダニーでした。自分が志願したことを知れば、ダニーも共に戦うと言い出すでしょう。だが、危険な戦いにダニーを巻き込みたくないレイフは、志願したことを隠し、ドゥーリトル中佐の命令によってイーグル飛行隊に加わると嘘をつきます。もう一つは、恋人のイヴリンでした。軍の医療施設の健康診断で出会った、意志の強さと優しさを併せ持つ美しい看護婦イヴリンにレイフは一目惚れしたのでした。イヴリンもまた、タフで優しく、正義感もあるレイフに惹かれていき、日ごとに愛を深めてきた二人にとって、この別れは身を切られるように辛いものでした。「必ず戻る。俺の人生の一番美しい時期が、まだこの先にあると分かったから」

旅立つレイフを見送ったのはダニーでした。「俺にもしものことがあれば、お前からイヴリンに知らせてくれ」「お前なら絶対に帰って来れるさ」駅の構内で二人は固く肩を抱き合い別れました。

レイフがイギリスに旅立った後、間もなくイブリンとダニーはアメリカ太平洋艦隊の主力が集結するハワイのオアフ島に転属になります。そこは、地球のどこかで戦争が起きていることなど忘れてしまいそうな南の楽園でした。そんな幻想を打ち破るのは、レイフからの手紙に書かれている、毎日、何人ものレイフの仲間が命を落としている悲惨な戦況でした。戦いはいつ果てるともなく続き、アメリカにとっても事態はもはや対岸の火事ではなく、日本との外交関係は悪化し、今や一触即発の状態となっていました。

レイフが戦死したという知らせを軍の使者としてイヴリンのもとに届けたのはダニーでした。イブリンの悲しみはダニー自身のものでもありました。心を開いて悲しみを語り合うダニーとイヴリンはシンパシーを感じ合い、やがて恋に落ちます。そのことを責める者はいないはずでした。

日本軍の通信が活発になり、アメリカ海軍情報部は傍受した暗号の解読に追われました。情報部のサーマン大佐は日本軍のパール・ハーバー攻撃を予測しますが、太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、確固たる証拠がないとして聞き入れませんでした。

12月6日、奇跡の生還を果たしたレイフは、イヴリンを訪ねます。墜落した機体から間一髪で脱出したレイフは、漁船に救出されフランスに着きますが、ドイツ軍占領下のためにこれまで連絡が取れず、ようやく帰国できたのでした。あれほどまでに待ち焦がれたレイフとの再会に、イヴリンは激しい熱情にのみ込まれ、抱擁を交わします。でも、歓喜に満ちたイヴリンの顔がふいに曇り、レイフは二人に近づいてくるダニーを見つけます。そして、彼の表情を見た瞬間、レイフはダニーもまたイヴリンを愛していることを悟るのでした。最愛の恋人と友人、その両方を失うかもしれない残酷な運命を呪いながら、レイフは立ち去るのでした。

夜が明けて1941年12月7日日曜日、それは、いつもと変わらない穏やかな朝のはずでした。静寂を破る飛行機の音に、人々は首をかしげます。「日曜日のこんな朝早くに、訓練を?」 爆音はますます高まり、やがて彼らは恐るべき光景を目にします。それは、パール・ハーバーに集結する太平洋艦隊めがけ、日本軍の機動部隊が猛攻撃をかけるという奇襲作戦でした。青い海は瞬時にして戦火に包まれます。レイフとダニーは飛行可能な戦闘機を求め、爆撃される危険をかえりみずに駆け出します。イヴリンもまた、瀕死の患者が次々と運ばれる病院で必死に看護にあたるのでした。

 

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「地図と解説でよくわかる 第二次世界大戦 

 戦況図解」

著 デヴィッド・ジョーダン

  アンドリュー・ウィースト

訳 宮永忠将

 

第二次世界大戦が起こったのは何故か。それは1929年に発生した世界恐慌に遡ります。高い関税をかけて他国の商品を締め出す閉鎖的なブロック経済で乗り切ろうとしたイギリス、フランス、アメリカのような植民地や資源を「持てる国」とドイツ、イタリア、日本という、植民地や資源を「持たざる国」との対立が「連合国」と「枢軸国」の対立へと発展していきます。

 

日本は、

1931年「満洲事変」

1932年「満洲国の建国」

   「五、一五事件」による政党政治の終焉

1933年  国際連盟から脱退

1936年 「ニ、ニ六事件」軍部の暴走が加速

            「日独防共協定」締結

1937年 「盧溝橋事件」→  日中戦争

            「日独伊防共協定」締結

1939年 「第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)」    

              勃発

1940年「フランス領インドシナ北部に進駐」

            「日独伊三国同盟」締結

1941年4月「日ソ中立条約」締結

     「日米交渉開始」

    7月「フランス領インドシナ南部に進駐」

         8月  アメリカ、日本への石油輸出を禁止

  11月  アメリカ「ハル=ノート」(①中国、

                 仏領インドシナからの撤兵

     ②満洲国の否認、満洲からの撤退

                 ③日独伊三国同盟の廃棄 を日本に

     要求するもの)を日本に提出

 「ハル=ノート」を日本が拒否し、日米交渉決裂

 

1931年、中国に駐屯する関東軍が、日本政府の承認を受けることなく満洲を征服しました。「満洲事変」と呼ばれるこの侵略行為に対し、国際的な対日非難が巻き起こると、日本は国際連盟を脱退することでこれに応えました。1939年までに中国での軍事的な足場を固めた日本は、1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、9月にフランス領インドシナの北部に進駐しました。これに対し、アメリカ、イギリス、オランダは対日経済制裁を発動しました。この結果、日本の対外貿易の4分の3、石油輸入の9割が閉ざされたとされます。

窮地に陥った日本は、陸軍大将で対米強硬派の東条英機内閣のもと、戦争によって事態の打開を図ることになります。日本にとって最大の脅威は、アメリカ海軍の太平洋艦隊でした。

 

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

第一学習社 発行

より引用

 

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「地図と解説でよくわかる 第二次世界大戦 

 戦況図解」  より引用

 

真珠湾攻撃当時の日本海連合艦隊司令長官である山本五十六(いそろく)は、ハーヴァード大学への留学経験があるうえに、駐米海軍武官として勤務したこともあり、アメリカの国力の巨大さを目の当たりにしてきました。そのため、米英との開戦には最後まで反対していました。

1940年9月、近衛文麿首相に、日米戦争になったときの海軍の見通しについて尋ねられた山本は、「それは是非やれと言われれば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧にいれます。しかしながら、2年3年となれば、全く確信は持てません。三国条約が出来たのはいたしかたありませんが、かくなりしうえは日米戦争を回避するよう、極力御努力を願いたい」との有名な答えを返しました。

反対の立場ではありましたが、いざという時のための軍事的手段の検討は怠りませんでした。ヨーロッパでは既に第二次世界大戦が始まっており、1940年11月11日イギリス海軍の艦載機がイタリアのタラント軍港を奇襲攻撃し停泊していたイタリア海軍の艦船多数を撃沈破して大戦果を上げていました。これに着想した山本五十六は、アメリカ海軍太平洋艦隊の根拠地である真珠湾攻撃を発案しました。この作戦は、乙作戦の名で呼ばれることになります。この作戦に参加する日本海軍航空隊の部隊は真珠湾の地形になれるため、地形的によく似た鹿児島湾で猛訓練を行いました。その結果、航空機搭乗員たちの練度は、世界最高の域にまで高められていきました。日本軍は、零戦をはじめとする、時代の最先端を行く飛行機や軍艦を多数揃えており、将兵の練度や士気も米英のそれを遥かに上回っていました。

1941年11月26日択捉島の単冠湾に集結した真珠湾攻撃機動艦隊の空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴)は、発見される危険が少ない北太平洋コースをとって出撃しました。

単冠湾からハワイまでの距離は約6500km。機動艦隊がハワイを目指して航海している間も、アメリカの首都ワシントンでは、ギリギリの線を巡って、日米間での和平交渉が行われており、もし交渉がまとまった際には、艦隊は速やかに日本へ引き返すことになっていました。交渉成立に最後の望みを託しつつも、機動艦隊は刻一刻とハワイに近づいていました。そして運命の12月2日、20時機動艦隊司令官、南雲忠一中将は、連合艦隊司令部からの1通の暗号通信を受信しました。

その文面は、「ニイタカヤマノボレ1208」で、ついに日米開戦が決定されたことを告げるものでした。新高山(にいたかやま)は、当時日本が植民地支配していた台湾にある標高3952メートルの山で、日本最高峰とされていました。

12月7日早朝の攻撃隊発艦前、南雲機動艦隊司令官は、旗艦である空母赤城のマストに高々とGD旗を掲げました。日露戦争日本海海戦で、連合艦隊司令長官東郷平八郎が掲げたZ旗と同じ「皇国の興廃この一戦にあり、各員いっそう奮励努力せよ」という意味を持つ旗でした。

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「地図と解説でよくわかる 第二次世界大戦 

 戦況図解」  より引用

午前6時、空母6隻の飛行甲板から続々と第一次攻撃隊が発進していき、編隊を組み直してオアフ島に向かいました。真珠湾攻撃では、綿密な役割分担がされていて、米軍の基地攻撃隊の迎撃を阻止するために近隣の飛行場を襲撃する部隊と、艦船攻撃部隊の編隊を組んでいました。各攻撃隊は敵の対空防御を混乱させるため、様々な高度と方向から目標に接近するよう調整されていました。

攻撃隊が真珠湾に到達したのは7時55分。

攻撃開始から10分もしないうちに、戦艦アリゾナに魚雷と爆弾が1発ずつ命中しました。この爆弾は前部主甲板を貫通して、弾薬庫を誘爆させ、艦は粉砕されました。アリゾナに隣接して停泊していた戦艦ウェストバージニアには、魚雷が6本命中して沈没しました。

オアフ島各地の飛行場への攻撃は完璧で、駐機していた戦闘機のうち200機近くが破壊され、160機が離陸できない損傷を受けました。それでも、無事だった一握りの戦闘機が果敢に迎撃出動して、日本軍機を撃墜しています。映画「パール・ハーバー」では、レイフとダニーが乗り込んだ2機が出撃し、後ろから執拗に追ってくる日本軍機をチキンレースの末に空中で激突させ、撃破するシーンがあります。また、実在する人物である、戦艦ウエスト・バージニアの給養員で、同艦のヘビー級のボクシング・チャンピオンである三等水兵ドリー・ミラーは、対空機関銃をつかむや見事な射撃で、日本軍機を撃墜しました。この行為により、ドリー三等水兵は1942年5月22日、太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍大将から、黒人としては初めての海軍十字賞を授与されましたが、当の本人は日本軍の攻撃が止んだ後しばらくの間、本来の部署ではない機関銃を射つなどという行為をしたので、上官から叱られるのではないかとビクビクしていたという裏話があります。

真珠湾攻撃全体を通して、日本側が失ったのはわずか9機で、奇襲攻撃は大成功といえます。

 

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「世界の軍用機 最強ランキング100」

竹内修・三鷹聡・毒島力也 著

コスミック出版 発行

真珠湾攻撃に参加した日本海軍機トリオ

「0(零)式艦上戦闘機21機(三菱A6M2)」

「97式1号艦上攻撃機(中島B5N1)」

「99式艦上爆撃機(愛知D3A1)」

ハリウッド最新のILM( インダストリアル・ライト&マジック  特殊効果や視覚効果の制作会社 )
のヴィジュアル・エフェクトの技術が結集された一方、あくまで本物にこだわったマイケル・ベイ監督は、撮影に3機の本物の零(ゼロ)戦を使用しました。ゼロ戦は、三菱の天才的航空機設計技師 堀越二郎氏(ジブリ映画「風立ちぬ」の主人公)の手になる傑作機で、日中戦争から太平洋戦争末期まで使われた日本海軍を代表する戦闘機です。当初は「奇跡の戦闘機」と呼ばれるほどの傑出した性能を誇りましたが、大戦末期には性能が向上した米軍機に圧倒されてしまいます。速力、運動性、上昇力、航続距離のスペックを上げるために、徹底した軽量化が図られたため、機体の強度不足、低出力エンジン、防弾装備がないという弱点がありました。

 

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「世界の軍用機 最強ランキング100」の中で零式艦上戦闘機(三菱A6M)は、レシプロ機部門で第2位です。一般にプロペラ機と呼ばれる飛行機の多くは、ガソリンを燃やして往復動機関(レシプロエンジン)で駆動されています。これを後の「ジェット機」と区別して「レシプロ機」と呼びます。1950年前半まで、戦闘機は「レシプロ機」が主流でした。重い鉄の塊であるエンジン、機関銃を擁するため、単発、単座の単葉機の形態です。

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パール・ハーバー」のスクリーンで蘇るゼロ戦の勇姿は、航空ファンを魅了してやみません。

 

ちなみに、イーグル飛行隊に入ったレイフが搭乗したイギリスの「スーパーマリン・スピットファイア」は第3位、レイフが空中戦で戦ったドイツ空軍の「メッサーシュミットMe109」は第4位です。(この本では、Me262)

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パール・ハーバー その運命の一日」

著者 ジェリー・ブラッカイマー/

           マイケル・ベイ/ ランダル・ウォレス

訳者   田辺 千幸 

発行 角川書店

太平洋戦争の開始を告げる日本軍のハワイ真珠湾攻撃を扱った映画といえば、1970年製作の「トラ・トラ・トラ」が挙げられます。キャストには、日米を代表するスターが名を連ね、クライマックスでは、一大スペクタル戦闘シーンが展開される大作であるにも関わらず、日本ではヒットしたものの、アメリカでは興行的に惨敗することになりました。その第一の理由は、アメリカにとって屈辱的とも捉えられている負け戦を描いたからだと言われています。

トラ・トラ・トラ」以前も以後も、真珠湾攻撃を描いた作品は極めて少なく、やはり、真珠湾アメリカ映画にとってタブーなのでしょう。1953年度のアカデミー賞作品賞をはじめ6部門を受賞したフレッド・ジンネマン監督作品「地上(ここ)より永遠(とわ)に」は、真珠湾奇襲前夜のハワイ・ホノルル米陸軍基地兵営内における赤裸々な人間関係を描いたものでした。1965年のオットー・プレミンジャー監督作品「危険な道」は、真珠湾攻撃で負傷したアメリカ軍艦長ジョン・ウェインが、その後日本軍に反撃を試みるという「男の心意気」を描いた作品です。双方ともに、ラブストーリーとしても描かれており、アメリカ映画界にとって、真珠湾のタブーを破る唯一の方法論がラブストーリーなのかもしれません。ハリウッド映画は、「風と共に去りぬ」の昔から、歴史的事実を背景にして、ラブロマンスを描くという大河ロマンを繰り返し製作してきました。戦争や大事件など、多くの人々が直面したショッキングな体験の中で生まれる恋。「PEARL  HARBOR」では、運命の悪戯に二人の男性と一人の女性が翻弄されるなか、太平洋戦争が始まります。

 

真珠湾攻撃による損害は壊滅的ではありましたが、日本軍が期待したほどの効果はありませんでした。戦艦部隊に大打撃を与えながらも、湾内に、敵空母が存在していなかったからです。アメリカの工業力は、驚くほど短期間に真珠湾の機能を復活させることに成功します。

真珠湾攻撃が行われる直前まで続けられていた日米交渉を打ち切ることを、攻撃の30分前にアメリカ側に通告する予定でしたが、実際に文書が手渡されたのは真珠湾攻撃後でした。日本大使館による文書作成の不手際によるものとされていますが、詳しい経緯は分かっていません。真珠湾攻撃と同日、マレー半島に侵攻し戦ったイギリスに対しては事前の交渉がないまま攻撃を始めています。

真珠湾攻撃は、アメリカ太平洋艦隊に壊滅的打撃を与えるどころか、卑劣な騙し討ちをした日本に対して復讐を誓う「リメンバー パールハーバー真珠湾を忘れるな)」というスローガンのもと、アメリカ国民を奮い立たせ、日本を破滅的な敗北に追い込む最初の一歩となります。これは山本五十六司令長官が最も懸念していた事態でした。

 

日本製鉄がUSスチールを買収しようとしたことに対し、クリーブランド・クリフスのゴンカルベスCEOは、「アメリカだぞ!日本は自らが何者か理解していない!1945年から何も学んでいない。我々がいかに善良で親切で寛大か学んでいない!」と日本を名指しで批判しました。

真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争に日本は敗北しました。この言葉の意味を、私たちは考えないといけないのでしょう。