アナスタシアの巻✨
アニメーション映画「アナスタシア」
20 世紀フォックス 制作
DVDカバーより引用
「アナスタシア」は、ディズニーの制作ではありませんが、ディズニープラスで配信されていますので、ディズニー編のシリーズで書かせていただきました。
「8歳になる、ロマノフ朝のアナスタシア皇女は宮殿で幸せな毎日を送っていました。あるパーティーで彼女は、大好きな祖母であるマリー皇太后に子守唄のオルゴールになっている宝石箱と、宝石箱の鍵のペンダントを贈られます。
しかし、そのパーティーに邪悪な魔法使いラスプーチンが現れ、彼の呪いによってロシア革命が起こります。召使の少年ディミトリの助けでアナスタシアとマリー皇太后は宮殿を脱出し、パリヘ向かおうとします。しかし、混乱の中で、ひとり取り残されたアナスタシアの手に残ったのは、祖母がくれた「パリで会いましょう』というメッセージが刻まれた宝石箱の鍵のペンダントだけでした。
その後、彼女の消息が不明なまま10年が過ぎました。18歳の孤児アーニャは、魅力的な詐欺師ディミトリと彼の仲間の元貴族ウラジミールに出会います。彼らは偽のアナスタシアを仕立てて、アナスタシアを探している、パリに住むマリー皇太后から莫大な報酬を手に入れようとしていました。
過去の記憶を持たない孤児アーニャは孤児院を出て、家族との唯一の手がかりのペンダントに刻まれたパリに行こうとしていました。
彼ら3人と愛犬プーカはパリに向かって旅を始めます。
一方、ロマノフ朝を滅ぼした張本人であるラスプーチンは、ロマノフ家最後の生き残りであるアナスタシアの命を狙い、彼らの前に立ちはだかります」
ロシアの起源は、9世紀に興(おこ)ったノブゴロド国とキエフ国です。しかし、13世紀半ばにチンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍に侵略され、ロシアは「キプチャク・ハン国」の支配下に入ります。この「タタールの軛(くびき)」と呼ばれる状態は200年も続きました。タタールとはヨーロッパやイスラムからのモンゴル人の呼び名の一つで、「ロシア人は、モンゴル人に首根っこを押さえられ、家畜のように扱われた」という意味です。そんな状態から、ロシア人を解放したのがモスクワ大公国のイヴァン3世です。彼は1472年に、ビザンツ(東ローマ)帝国の最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し、1453年にオスマントルコによって滅ぼされたビザンツ帝国の後継者を自認しました。モスクワは、「第3のローマ」と呼ばれるようになります。「皇帝」を意味する「ツァーリ」(古代ローマのカエサルをロシア語化したもの)の称号を初めて用いたのが、イヴァン3世でした。次の「雷帝」と恐れられたイヴァン4世によって国力を伸ばしますが、彼が死ぬと、その独裁政治に不満を持っていた人々がツァーリの命令に従わず、ポーランドなどの侵入もあって、ロシアは混乱します。
ロシア人たちは結束して外敵を駆逐する一方で、各地の貴族、高位聖職者、大商人などからなる「全国会議」という身分制議会を開きました。この会議で、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴(すいたい)され、ロマノフ朝の開祖となりました。ロマノフ朝のもとで農奴制が強化され、ピョートル1世、エカテリーナ2世の時代に、ロシアは領土を拡大していきます。
アナスタシアの父、ニコライ2世は、1896年に戴冠式を行い、世界の6分の一を支配するロシア帝国のツァーリとなりました。
ニコライ2世の運命を変えたのは、3度の革命です。1度目は「日露戦争」のさなか、2度目と3度目は「第1次世界大戦」のさなかに起こります。戦争が、いかに国民生活を困窮させ、追い詰めていくかが分かります。
1904年2月8日、朝鮮の仁川(インチョン)と中国の旅順にいたロシア艦隊が日本軍に攻撃され、日露戦争が始まりました。(宣戦布告が出されたのは2日後の10日でした)
緒戦でロシア軍は極東艦隊が持つ艦船の半分を失い、楽勝ムードは吹き飛びました。さらに8月の満州での大敗北によって、政府の威信は地に堕ちました。12月、ステッセリ将軍が旅順を日本へ明け渡したことは、首都に動揺を引き起こしました。その首都ペテルスブルクで、1905年1月9日、10万人もの生活苦にあえぐ労働者が妻子を引き連れて、教会の旗とイコン、そしてツァーリの肖像画を掲げて、冬宮への行進を始めました。ツァーリに「正義と庇護(ひご)」を求めるもので、デモを率いたのはガポンという神父でした。冬宮前に集まった大勢の民衆に兵士が発砲し、子供を含む2000人以上が死傷し、広場の雪は血に染まりました。これを「血の日曜日事件」(第1次革命)といい、ニコライ2世は、「血のニコライ」とあだ名されます。イギリス国王ジョージ5世とニコライ2世の母親は姉妹であり、実の従兄(いとこ)にあたりますが、そのイギリス王室が、ニコライ2世を犯罪人扱いしました。(イギリスにも、「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」と恐れられたメアリー1世がいます)
ロシアでは、旗色の悪い知らせが伝わるにつれて労働運動が激しくなっていきました。地球を半周して極東へ派遣されたバルティック(バルト海)艦隊が5月末に長崎県対馬沖で撃沈されたという知らせでカタストロフィーに至ります。6月には黒海の戦艦ポチョムキンの水兵たちが蜂起し、赤旗を掲げました。
国力を使い果たし、有利なうちにロシアとの講和を実現したい日本はアメリカのルーズベルト大統領に仲介を依頼していました。一方のロシアは、日本と戦う余力を持ちながら、国内の革命勢力と対峙し押さえ込まなければならない事情から、講和に応じ、1905年、ポーツマス条約を結びました。全権大使には、セルゲイ・ヴィッテが任命されました。ロシアにヴィッテ以上に有能な政治家はいませんでした。日本はまだ我が領土に踏み込んでいないという、彼の巧みな外交手腕によって、ロシアから日本への領土の割譲はサハリン南部のみに留めることができました。日本があれほど強く望んだ賠償金も突っぱね、おかげで、日本の全権大使だった小村寿太郎は、日本に帰国すれば暗殺されるのではないかと危惧されることになりました。
いずれにせよ、ロシア政府にとって、国内の革命勢力の方が、日本よりもっと恐ろしい敵であったということです。
ニコライ2世は名君ではなかったものの、暴君でもなく、規則や礼節を重んじる真面目な性格でした。が、優柔不断で気が弱く、人の意見に左右されやすいところがあったといわれています。彼は、イヴァン雷帝のような征服者ではなかったし、ピョートル大帝のように後世に残る都市を建設したこともないし、祖父のアレクサンドル2世のような改革者でもありませんでした。
政略結婚ではなく、熱烈な恋愛結婚で皇后に迎えたアレクサンドラとの間に、結婚の翌年から一年おきに4人の王女、 オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアが誕生しています。統治者としては凡庸であったニコライも、家族にとっては優しい夫や父親であり、政務より家族との生活を大事にする傾向があったといわれています。結婚後10年間は世継ぎに恵まれませんでしたが、1904年、アレクサンドラは待望の男児を出産し、アレクセイと命名されました。
この世継ぎの誕生が、ロマノフ家の悲劇の始まりでした。アレクセイは血友病でした。一般に女性を通じて遺伝しますが、男性にだけ発病する病気で、アレクサンドラは母と祖母のヴィクトリア女王から血友病を受け継いでいたのです。血友病患者は、血が凝固しないため、少しの怪我でも出血が止まらなくなり、苦しむだけ苦しんで早逝する運命にありました。ロシアの現ツァーリのたった一人の息子が生まれつき「死の病」にかかっていることは極秘とされました。
アレクセイの血友病発作を鎮める不思議な力があるという理由で、アレクサンドラは、1907年より祈祷僧グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチンに篤い信頼を寄せるようになります。
しかし、ラスプーチンは、彼の進言によって皇帝から遠ざけられた側近や近親者から恨まれ憎まれたのはもちろんのこと、大勢の女性信者に取り巻かれて、数々の醜聞を流したことで、ロシア正教の教会からも顰蹙(ひんしゅく)をかい、支持されませんでした。何より、彼がニコライ2世の政策に悪い影響を与えていると信じる民衆の不信感と憎しみを一身に集めるようになりました。
それでも、1913年に盛大に行われた「ロマノフ家300年祭」で、軍楽隊が「神よ、ツァーリを守らせたまえ」を演奏すると、つめかけた民衆の「ウラー(万歳)」の叫びがこだまし、この時はまだ、ロマノフ家の悲劇を予想することはできませんでした。
1914年、第1次世界大戦が始まります。対ドイツ戦の初期には、皇帝と国民の一体感が再び生まれますが、長くは続きませんでした。1914年8月、タンネンベルクの戦いで、ヒンデンブルク将軍率いるドイツ軍に大敗し、死者2万人、捕虜9万人を出してしまいます。
1915年、東部戦線のロシア軍は総崩れになって「大退却」が始まりました。
もし第1次世界大戦が起こらなかったら、ロシアの運命は全然違ったものになっただろうといわれています。
鉄道網の不備を原因とする前線の物資の不足も深刻でした。軍の最高司令官に就き、首都から大本営に移って指揮をとることになった夫のニコライに代わり、摂政をつとめた妻のアレクサンドラは、ラスプーチンに心酔するあまり、彼が求めるままに、1年間に内務大臣を5回、戦争大臣を3回交代させ、混乱を極めました。
1916年12月、宮廷の奸(かん・悪人)を取り除くべく、皇族も1人加わった、義憤に燃える、正義の暗殺者たちは、モイカ宮殿にラスプーチンを招き、周到な打ち合わせ通り、地下室で青酸カリの入った酒を飲ませ、そして銃を発砲しました。それでも彼は信じられないほどの生命力を示したといいます。致命傷を負ったラスプーチンはロープでがんじがらめに縛られて、モイカ川の氷の穴の中に投げ込まれました。
日露戦争中に、血の日曜日事件(第1次革命)が起こりましたが、それ以後の革命運動は、ストルイピン首相によって抑えつけられてきました。しかし、第1次世界大戦が長期化するなか、食糧、燃料などの不足に苦しんだ民衆の不平不満が、また表面化してくることになります。
第1次世界大戦が勃発し、敵国ドイツとの開戦直後に、ドイツ風の呼び名ペテルスブルクからロシア風のペトログラードに改称した首都では、数万人規模のストライキがたびたび起こるようになりました。
1917年2月23日、女性たちの叫びで二月革命が始まります。首都の繊維工場の女工たちが「パンをよこせ」の声をあげながら、街頭に出ていきました。(フランス革命の「ベルサイユ行進」のようです)「パン・平和・専制政治打倒」を求める大規模なデモに発展し、労働者と兵士の代表による「ソヴィエト」が各地に組織されました。最高司令官として首都を遠く離れていたため、ペトログラードの情勢を理解できず、迅速な対応をとることができなかったニコライ2世は退位に追い込まれ、約300年続いたロマノフ王朝はついに倒されました。
二月革命後、ドゥーマ(国会)によって「臨時政府」が建てられました。この国会や臨時政府は、「立憲民主党(カデット)」や「社会革命党(エスエル)」右派の資本家の議員が多数派でしたから、資本主義の発展を目指して、イギリスやフランスと協力して、ドイツとの戦争を続行する政策をとりました。そのため、民衆の困窮した生活は放置されることになります。
二月革命が起こった時、「ボリシェヴィキ(社会民主労働者党多数派)」の指導者レーニンはスイスに亡命中でした。ロシアに帰国したいレーニンとロシアとの戦争を終わらせたいドイツは手を組み、ドイツは「封印列車(他の客車や外部から隔離された客車)にレーニンを乗せて、国力を見せつけるために高級料理でもてなしながら、スイスからヘルシンキ経由でペトログラードに運びました。レーニンは帰国早々、「四月テーゼ」を発表して、「戦争反対」という方針(テーゼ)を示しました。
ボリシェヴィキに率いられた労働者・兵士らが武装蜂起して、ブルジョワ革命の臨時政府を倒したのが、「十月革命」です。
「二月革命」で退位した後、ツァールスコエ・セロー(皇帝の離宮)に拘禁されていた皇帝一家をイギリスに亡命させる案が検討されましたが、イギリス国内の社会主義者と労働運動からの突き上げを恐れた国王ジョージ5世(ニコライ2世の従兄)は、ロシア皇帝一家とは関わりたくないと考え、受け入れには応じませんでした。
運命の日、1918年7月16日、ウラル山脈の街エカテリンブルクでニコライ2世とその家族に何が起きたのか。その日以降、ロマノフ家の人々の消息は杳(よう)として知れませんでした。
ところが、1991年にソヴィエト連邦の共産主義体制が崩壊すると、長い間、封じ込められ、歪められてきたロマノフ家に再びスポットライトが当てられました。数々の証言がなされ、肖像画、写真フィルム等が次々と掘り起こされ、修復されました。
「長い間、旧ソ連の『正史』は、皇帝一家の処刑はエカテリンブルクのソヴィエトが勝手に決めたことだと匂わせてきた。事実は全く違う。6月終わりにモスクワで開催された第5回ソヴィエト大会において、レーニンが処刑を決定したのだ。内戦が始まっており、白軍(反革命軍)勢力であるチェコスロヴァキア軍団とコサック部隊がエカテリンブルグに迫っていた。ボリシェヴィキは撤退しなければならなかった。白軍勢力はニコライ2世が自分たちのリーダーだとみなしていた。『彼らの旗を生かしておくのは危険だ』(レーニン)」
「月の出ていない真夜中の3時ごろ、黒服の男が突然、部屋に入ってきた。彼の背後には、おそろしげな10人の部下がいた。全員が銃を持っていた。銃殺隊だった。黒服の男はニコライ2世の方に歩み寄り、まるで判決を読み上げるように、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ、あなたの親戚は、あなたを救助しようと望んだが失敗した。我々はあなたを処刑せねばならない」と述べた。これに反応しての皇帝の動作と言葉(「いったいこれは…」)は中断させられた。黒服の男が至近距離からニコライの頭を撃ったからだ。革命は、裁判なしに、彼に最後の言葉を語らせることなく、彼を処刑した。数秒後、アレクサンドラは十字を切り終えるまもなく撃ち殺された。次は、オリガ、タチアナ、マリアの番であった。射撃は続き、皇帝一家と最後まで彼らに忠誠をつくした者たちは次々に倒れた。床は次第に血に染まり、火薬の刺すような臭いと煙が部屋に立ちこめた。弾薬を使い果たした者は銃剣で、持っていた枕が弾よけになっていた侍女のアンナにとどめを刺した。血まみれの体の折り重なりの中から、うめき声が聞こえた。アレクセイだった。少年は小さな青白い手を伸ばし、父親のジャケットにしがみつこうとしていた。冷酷にもアレクセイの頭に2発撃って処刑した。次はアナスタシアだった。気絶していただけの彼女が意識を取り戻して叫び声をあげると、銃剣で何度も突かれた。11人の遺体は夜明け前に森に運ばれ、斧や鋸で切り刻まれ、顔が判別されないように硫酸がかけられた。
翌々日、アレクセイとマリアの遺体は焼却され、森の中のもう少し離れた場所まで運ばれて埋められた。 土や乾枝で埋め、その上に枕木を敷き並べて、トラックを数回往復させてならして、穴の跡が残らないようにした。遺体捜索を困難にするためだ。残りの9人の遺体は廃鉱に投げ込まれた。これを監督していた同志の男は満足げに「世界は、我々が彼らに何をしたのか決して知ることがないだろう」と述べた。
虐殺が起きてから72年後の1990年、廃鉱の奥から人間の遺骨が発見された。発見された遺骨は、綿密なDNA検査の対象となった。疑いの余地のない結論が出た。ニコライ、アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、アナスタシアの遺骨が同定された。皇帝一家虐殺からちょうど80年後にあたる1998年7月17日、ロマノフ家の末裔の立ち会いのもと、皇帝夫妻と三人の皇女はサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された。2007年、エカテリンブルクに近い森の中で、若い娘と少年の遺骨が発見された。ロシアの研究機関とアメリカの研究機関が分析したところ、同じ結論が出た。19歳のマリアと13歳のアレクセイの遺骨であった。この二人も、ロシア最後の皇帝となった父親の側に葬られることになった」
「アナスタシア」パンフレット
20 世紀フォックス映画会社 発行
1920年2月17日、一人の若い女性が、ベルリンの運河に身を投げて死のうとして助けられました。その女性の名前は、チャイコフスキー夫人、別名アンナ・アンダーソン。ロシア皇帝一家の唯一の生き残りのアナスタシア皇女を自称して、その後世界中にセンセーションを巻き起こしました。
彼女は1928年に、ヨーロッパからアメリカに渡りました。アメリカではたちまちマスコミの人気者になり、ハリウッド流の伝説が広まりました。マスコミに追いまくられた彼女がロングアイランドのホテルに身を隠した時に使ったアンナ・アンダーソンという偽名が、その後ずっと彼女に付きまとうことになります。アンダーソン夫人のもとには、ロシア皇后の妹のプロイセン公ハイリッヒ殿下夫人イレーネ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義理の娘ツイツェル皇太子妃など、ロシア皇家ゆかりの人々が訪ねてくるようになりました。もちろん、彼女が本当にアナスタシアなのかどうか確かめるためでした。
その後、アナスタシアの祖母であるマリア皇妃からはじまり、プロイセンのイレーネやオリガ太后女、ブクスへーヴェーデン男爵妃など、アナスタシアとごく親しかったロマノフ家の親戚の人々は、ほとんど全員一致でアンダーソン夫人を認めることを拒否しました。特に重視されたのは、元ロシア皇帝の歯科医だったコストリツスキーの証言で、1918年にトボリスクでアナスタシアを最後にみた彼のもとに、1927年、アンダーソン夫人の歯からとった石膏型が送られました。彼はそれを点検して、「歯並びや顎の形や構造が、まったくアナスタシアのそれと一致しない」と断言しました。
参考資料
「皇帝ニコライ処刑 ロシア革命の真相 上」
エドワード・ラジンスキー 著
工藤精一郎 訳
NHK出版 発行
「暗殺が変えた世界史 ニコライ2世からチャウチェスクまで」
ジャン・クリストフ・ピュイッソン 著
神田順子・清水珠代・濱田英作 訳
原書房 発行
「よみがえるロマノフ家」
土肥恒之 著
株式会社講談社 発行
「皇女アナスタシアは生きていたか」
桐生操 著
株式会社ベネッセコーポレーション 発行
「夢幻美女絵巻」
山崎洋子 文
岡田嘉夫 絵
株式会社小学館 発行
今回、ロシア革命について書くのに、池田理代子さんの「オルフェウスの窓」を読み直しましたが、オルフェウスについては、次の「ヘラクレス」の巻で書きたいと思います。