ナポレオンの巻✨

「ナポレオン」
監督・プロデューサー リドリー・スコット
脚本 デヴィッド・スカルパ
2023年 アメリカ・イギリス
パンフレットより引用
1793年、フランス。4年前に始まったフランス革命で、国王ルイ16世が処刑され、王妃マリーアントワネットも、ギロチンの下で生涯を終えました。コルシカ島に生まれた若き軍人ナポレオン・ボナパルトは、広場にて彼女の最後をじっと見ていました。革命の混乱に揺れるフランスで、ナポレオンは目覚ましい才能を発揮します。南部の都市トゥーローンを王党派(王政支持者)から奪還し、パリの市街地では、王党派の反乱を大胆な戦法によって鎮圧しました。その実力を買われ、軍の総司令官に任命されました。その頃、ナポレオンには最愛の女性ジョセフィーヌがいました。ある日、彼女の亡き夫が愛用していた軍刀を自宅に届けたことから、親密な関係となったのでした。2人は正式に夫婦として結ばれ、ジョゼフィーヌの連れ子たちも家族となります。しかし、ナポレオンの溺愛ぶりとは裏腹に、元より奔放なジョゼフィーヌは、すぐに別の男とも関係を持ちました。エジプト遠征中に妻の浮気を知ったナポレオンは、すぐさま帰国し、「よくも私の気持ちを踏みにじったな」と激怒しました。ジョゼフィーヌは、涙を流して謝罪しましたが、既に夫婦関係は奇妙にねじれ始めていました。
ナポレオンは快進撃を続け、自ら起こしたクーデターを成功させ、政府の最高権力者である第一統領に就任します。フランス帝国の皇帝にまで上り詰め、ジョゼフィーヌも皇后となりました。今やナポレオンは政治家・軍人のトップに立ち、すべてが思いのままでした。ジョゼフィーヌも豊かで優雅な生活を送る日々でした。しかし、それでも2人の心は満たされないままでした。
やがて、ナポレオンは戦争にのめり込み、凄惨な侵略と征服を繰り返すようになります。敵を容赦なく殺し、味方の犠牲も厭わない彼の残酷さを、既に人々は恐れていました。輝かしい栄光に翳りが見えてもなお、ナポレオンは戦いを続けます。才能溢れる若き軍人は、なぜ冷酷非道な悪魔に変貌したのでしょうか。果たして、ナポレオンを狂気に駆り立てたものとは何だったのでしょうか?

監督・プロデューサー リドリー・スコット
脚本 デヴィッド・スカルパ
2023年 アメリカ・イギリス
ポスターより引用
ナポレオンが配流先のセントヘレナ島で51歳の生涯を閉じる時、最後に呟いた言葉が「フランス、陸軍(軍隊)、陸軍総帥(軍隊のかしら)、ジョゼフィーヌ」だったといわれています。
この、彼の最後の言葉を軸に、ナポレオンの生涯を辿ってみたいと思います。
1つ目の言葉 「フランス」
ナポレオンが生まれたコルシカ島はジェノヴァの属国でイタリア領でした。長い間、コルシカ島の住民は、ジェノヴァの圧政に苦しめられていました。フランス領となったのは、ナポレオンが生まれる前年の1768年でした。
フランス本土ではなく、フランスに帰属してからの歴史も浅かったコルシカ島からやってきて、またたくまに「皇帝」となったナポレオンですが、フランス革命が勃発した当初は、フランスの政治に対する関心はあまり持っていなかったといわれています。政治に対するナポレオンの無関心ぶりが表れているのが、映画「ナポレオン」の冒頭における、マリー・アントワネットの処刑のシーンです。観衆から罵声を浴びせられ、野菜や汚物を投げつけられ、屈辱に耐えながら向かった断頭台で、ギロチンの刃が切って落とされアントワネットの首が転がります。死刑執行人がアントワネットの髪をつかみ、群衆に首をさらすシーンの残酷さに、どうして、こんな演出をする必要があるのか疑問に思った直後、斬首されたアントワネットの首を無表情に眺めているナポレオンが映し出され、その瞬間、このナポレオンの登場のために、アントワネットの処刑のシーンが必要だったのだと理解しました。ナポレオンの顔が映し出された瞬間、アントワネットは過去の人、ただの脇役になってしまいました。フランスに対する愛国心を持たないナポレオンにとって、フランス王家もそれほど憎むべき対象ではなかったのではないかと感じさせる、感情が欠如しているような表情でした。
ナポレオンは、9歳の時、親元を離れ、フランスのブリエンヌ=ル=シャトー陸軍幼年学校へ入学しました。拙いフランス語(田舎者まる出しのコルシカ訛り)でしか話せなかったため、無口で人づきあいも悪く、頭が大きくて背の低い、痩せっぽちのナポレオンは、格好のイジメの対象になっていました。
12歳の冬の出来事でした。大雪が降って、級友たちが雪合戦を始めました。自分がいたチームが劣勢に陥った時、ナポレオンが声を上げます。「みんな、各人がバラバラに攻撃したのでは、勝てる戦も勝てないぞ。まず陣地を構築せよ。兵站部隊(雪玉を作る係)を編成せよ」「部隊を左右両軍に分け、右翼は敵軍からの正面攻撃に耐えよ。そのすきに、左翼は敵部隊側方に回り込め」「今だ!左翼、敵軍側方砲撃開始!」ナポレオンの優れた指揮のおかげで、一気に形勢は逆転し、勝利を得たといいます。その日から、いじめられなくなったのは言うまでもありません。

「ナポレオン」
監督・プロデューサー リドリー・スコット
脚本 デヴィッド・スカルパ
2023年 アメリカ・イギリス
パンフレットより引用
2つ目の言葉 「陸軍(軍隊)、陸軍総帥」
ナポレオンの戦闘における初勝利は、ナポレオン24歳の12月、トゥーローン港においての攻囲戦に成功した戦いです。トゥーローン港は、フランスの地中海における重要な軍港でした。それは、現在もフランス海軍がトゥーローンに最大規模の軍事力を置いていることでも分かります。日本の横須賀港のモデルとなった港でもあるそうです。
1793年6月、フランスは「6月危機」と呼ばれる危機的な状況にありました。国境周辺は「対仏大同盟諸国」(イギリス・オランダ・プロイセン・ロシア・オーストリア・サルディニア・スペイン・ポルトガル)に囲まれ、周囲のほとんどすべての国が敵国という状態でした。パリではジャコバン派とジロンド派が激突し、ジロンド派が追放されるという混乱劇があり、地方では、地下に潜っていた王党派たちが各地で反乱を起こし交戦状態にありました。こうした情勢の中で「トゥーローン要塞」において、王党派がジャコバン派を追放するという事件が起こります。王党派はトゥーローンの港を押さえてイギリスやスペインからの支援を取りつけることに成功し、陸上は堅固な要塞に護られつつ、海上からは潤沢な支援物資が得られることで、革命政府にとって看過できない勢力になっていました。
そんな状況のなか、砲兵隊長として赴任してきたのが、少佐になったばかりの24歳のナポレオンでした。「トゥーローン要塞」を正面から攻撃するのは愚策だと判断したナポレオンは、対岸のルケール丘を攻撃して陥とし、次に、ルケール丘から一望できるエギュイット岬を陥して、そこからトゥーローン港に砲弾を浴びせるという戦法を取ります。ナポレオンは戦死をも厭わない獅子奮迅の活躍を見せ、騎乗した馬は直撃弾を受け即死し、彼自身も足を負傷しながら、12月17日「トゥーローン要塞」を陥落させることができました。 指揮権を与えられてから1ヶ月も経っていませんでした。

「歴史を探究し未来を創造する 世界史のミュージアム」
発行者 星沢卓也
発行所 東京法令出版 株式会社
より引用
「トゥーローン要塞」を陥落させた後、「ヴァンデミエールの王党派の反乱」を鎮圧し、司令官に就任して「イタリア遠征」を行い、大勝利を得ます。1798年の「エジプト遠征」には失敗しましたが、「ブリュメール18日のクーデタ」を起こして総裁政府を倒し、第一統領として政権を握ってフランス革命に終止符を打ちます。1802年の「アミアンの和約」で、イギリスと講和した功績により、1804年、ナポレオンは、国民投票により皇帝として即位します。

「ナポレオンの戴冠式」
ダヴィド
「NEW STAGE 世界史詳覧」
発行者 株式会社 浜島書店
代表者 浜島拓央
発行所 株式会社 浜島書店
より引用
ナポレオンはフランス皇帝としての戴冠式から2週間あまりが経った1804年12月18日、画家のジャック=ルイ・ダヴィッドを皇帝の主席画家に任命しました。ダヴィッドはナポレオンが皇帝に即位する前後の行事をいくつか描くことをナポレオンに提案しました。
4つの作品の提案があり、「聖別式」「即位式」「鷲の軍旗の授与」「皇帝の市庁舎到着」でした。このうち、「聖別式」と「鷲の軍旗の授与」が完成しました。「聖別式」が今日、ルーブル美術館に展示してある「ナポレオンの戴冠式」です。この絵には、歴史の事実とは違っている点がいくつかあります。戴冠しているナポレオンを正面の観覧席から見ているナポレオンの母、レティチアは息子が皇帝になることに反対し、ジョゼフィーヌのことも快く思っていなかったことから、戴冠式には出席せず、イタリアへ行っていました。ナポレオンの背後で、椅子に座って戴冠を見守る教皇ピウス7世の隣に並んでいるのは、カプララ枢機卿ですが、彼もまた当日病気のために欠席していました。ナポレオンの背後に座る教皇ピウス7世の描き方ですが、これほど教皇の立場をないがしろにした絵は珍しいといわれています。まるで式の添え物のような扱いになっています。この教皇の描き方で、ダヴィッドが伝えたかったのは、フランス皇帝の戴冠式という、それまでの歴史には前例のない儀式をナポレオンがどう執り行おうとしたかです。それまでの歴代フランス国王の聖別は「ランス大聖堂」で行われていましたが、それに対抗してかナポレオンは「ノートルダム大聖堂」を選んでいます。その上、新皇帝は教皇によって戴冠されるのではなく、国民投票による圧倒的多数の支持を得て、自らの力によって皇帝になるというナポレオンの強い自負がそこにあります。 ピウス7世は憮然とした表情でミサを行い、皇帝夫婦の額に、聖油を塗って聖別し、ナポレオン自らが冠を自分の頭に載せた後、ジョゼフィーヌにも皇妃として戴冠するのに立ち会うと、すぐに退場させられています。実際ピウス7世は、戴冠式に出席を要請された時、健康上の理由で、ローマからパリまで行くことを断ったといいます。最初の完成画では、ピウス7世は両手を膝に置いていましたが、教皇の賛同を強調したいナポレオンが描き直しを命じたといわれています。嫌々戴冠式に立ち合わされたピウス7世の胸の内を、ダヴィッドは見事に描いています。
ダヴィッドが提案した皇帝就任におけるセレモニーの4つの絵の内、2つの作品しか完成しなかったのは、ナポレオンの立場が少しずつ悪くなったからです。

「NEW STAGE 世界史詳覧」
発行者 株式会社 浜島書店
代表者 浜島拓央
発行所 株式会社 浜島書店
より引用
ナポレオンが皇帝に即位したことで、1805年、イギリスとロシアが対仏大同盟を結成します。オーストリアは「リュネヴィル条約」(1801年2月にフランスとオーストリアの間で締結された平和条約)があったので、これに参加できませんでしたが、ナポレオンの皇帝即位には憤慨しました。当時のオーストリアの正式な地位は「大公」でしたので、皇帝一族としての歴史と伝統を持つ、由緒正しく、格式もある誇り高きハプスブルク家がコルシカ島の小貴族出身であるナポレオンのボナパルト家より格下になってしまいました。フランツ2世は「神聖ローマ帝国の帝位」を持っていましたが、既にこの頃の神聖ローマ帝国は「有名無実」で実体のない名ばかりの帝国でした。そこで、神聖ローマ帝国フランツ2世は、オーストリア皇帝フランツ1世として即位しました。その後、「リュネヴィル条約」で獲得したイタリア共和国を王国に改編し、国王に即位したナポレオンを条約違反として糾弾したオーストリアはイギリス・ロシアの同盟に参加し、ここに「第3回対仏大同盟」が成立しました。

「NEW STAGE 世界史詳覧」
発行者 株式会社 浜島書店
代表者 浜島拓央
発行所 株式会社 浜島書店
より引用
潰しても潰しても生まれてくる「対仏大同盟」この悪循環を断ち切るためには、元凶のイギリスを粉砕しなければならないと考えたナポレオンはイギリス本土上陸を試みます。ところが、フランス海軍がイギリス海軍との戦いに手間取っているうちに、オーストリア陸軍が動き始めました。
「イギリス上陸作戦」を断念し、ドーバー海峡に集めていた軍隊を転進させ、さらにパリからも軍を動員し、総計21万の大陸軍(グラン・ダルメ)を以て、南ドイツに展開するオーストリア軍に対峙させます。オーストリア軍を「ウルム」に釘付けにしておいて、ナポレオンは大陸軍主力を迂回させ、オーストリア軍の背後を突き、包囲します。退路を絶たれたオーストリア軍を降伏に追い込み、「ウルムの戦い」で勝利しました。
ウルムでの大勝利の報にフランス国民は沸き立ちます。しかし、その翌日、フランス・スペイン連合艦隊がネルソン提督率いるイギリス艦隊に「トラファルガー沖の戦い」で粉砕されてしまいます。この敗戦により、フランス海軍は壊滅し、イギリス本土上陸作戦が潰えただけではなく、ウルム戦後の和平交渉も頓挫する可能性が濃厚になりました。ナポレオンは、トラファルガーの敗戦を払拭する大戦果を挙げるため、わずか1ヶ月でウルムからウイーンまでを走破しました。オーストリア皇帝フランツ1世は帝都を放棄し、モラヴィア(現チェコ共和国東部)でロシア皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍と合流したので、ナポレオンはウィーンに無血入城を果たします。しかし、ウイーンには、西からオーストリアのイタリア方面軍が、東からは、老将クトゥーゾフ率いるロシア軍が迫り、三方からウイーンを包囲しつつありました。ナポレオンはモラヴィアのアウステルリッツで決戦することを決意します。
ナポレオン軍とロシア・オーストリア連合軍との決戦が行われたのは、12月2日、ちょうど1年前、ナポレオンの戴冠式が行われた記念すべき日でした。戦いが始まると、ナポレオンはわざと右翼(南翼)を手薄にした布陣をとり、敵の攻撃をそちら側に集中させます。そして、右翼への攻撃により、敵軍の中央部が薄くなったところを突破して、敵を分断し、包囲殲滅することに成功しました。こうして、フランス軍は大勝利を収めました。この、「アウステルリッツの戦い」は、フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が会して戦ったことから、「三帝会戦」と呼ばれるようになります。当時、ヨーロッパに3人しか存在しなかった皇帝が相まみえた稀有な戦いといえます。
この「アウステルリッツの戦い」で、ナポレオンはその軍事的才能を最大限に発揮し、最も輝かしい勝利をもたらしました。

「戦争の世界史 大図鑑」
編集者 R・G・グラント
日本語版総監修 樺山紘一
翻訳 マーリンアームズ株式会社
発行者 小野寺優
発行所 株式会社河出書房新社
より引用
「アウステルリッツの戦い」を巡る有名な「伝説」として、ザッチェン湖の話があります。フランス軍に追い詰められたロシア・オーストリア連合軍が、戦場の南部にある氷の張ったザッチェン湖の上を渡って逃げ出しました。ナポレオン軍は途中で追撃をやめ、逃げる連合軍が湖の中ほどまで行ったのを見届けると、湖上の敵ではなく、天に向かって砲撃命令を出します。大砲25門が一斉に天に向かって砲撃を開始し、やがて落下した砲丸は次々と湖の氷を割っていきました。その結果多くの連合軍兵士や馬が氷の海に飲み込まれて溺れ、冷たい水に体力を奪われて凍死したといわれています。
映画「ナポレオン」で、一番印象に残っている戦闘シーンが、この「アウステルリッツの戦い」です。特殊効果スーパーバイザーとして起用されたニール・コーボールドのこの映画における一番の功績は「敵の馬が落ちる湖」を作ったことです。彼がとった方法は、雪で凍った湖そのものを作り上げることでした。彼は、200〜300エーカー(約80万〜120万m2 東京ドーム約17〜26個分)のロケ地に大きな穴を掘り、傾斜をつけ、固めるしかなかったと語っています。共に仕事をした調馬師のダニエル・ナプロスは、凍てつく氷の上で馬が氷を突き破る戦闘シーンを撮影するのに、「本物の馬が演じられる場面と、機械の馬を使う必要がある場面を見極めることが重要で、私たちは安全な範囲内で、できる限り本物の馬を起用しました」と語っています。
当時、ナポレオンを最も敵対視していた国は、大英帝国(イギリス)でした。ナポレオンをセントヘレナ島へ流してしまうまで、徹底抗戦の構えを崩しませんでした。この徹底ぶりが最後には、ワーテルローでナポレオンの息の根を止めることになるのですが、そこに至るまでのイギリスの反ナポレオン作戦は、まさに国を挙げての攻撃でした。そのイギリスのピット首相は、ナポレオンを「革命騒ぎの宝くじを、最後に引き当てた男」と蔑んだ表現をしています。
「アウステルリッツの戦い」の結果を聞いたピットは、天を仰ぎ、側にいた召使いに「そこにあるヨーロッパの地図をしまいたまえ。もはやその地図は、今後7年間は使い物にならないだろう」つまり、「この戦いの勝敗により、ヨーロッパの国々の領域支配が大きく変更され、地図は塗り替えられるだろう」しかも、7年後といえば、1812年でナポレオンが「ロシア遠征」で敗退する年です。ピットの慧眼ぶりには目を見張るものがありますが、ピットは間もなく病に倒れ帰らぬ人となります。
下の絵は、地球というケーキを取り合うナポレオンとピットを描いた風刺画です。
イギリスが海洋を、フランスが大陸を取ろうとしています。

「グローバルワイド 最新世界史図表」
発行者 松本洋介
発行所 株式会社 第一学習社
より引用
「アウステルリッツの戦い」で敗れたオーストリアは、「プレスブルクの和」という、極めて過酷な講和条約を結ぶことになります。「ヴェネツィア」「イストリア」「ダルマティア」「チロル」を割譲させられた上、5000万フランという莫大な賠償金を課せられます。これにより、オーストリアは、人口の15パーセント、歳入の17%を失いました。さらに、西ドイツの16の諸邦に「神聖ローマ帝国」からの離脱を宣言させ、そこに「ライン同盟」を結成させ、オーストリアに代わりフランスが新しい統治者になりました。有名無実の帝国であった「神聖ローマ帝国」の、その名前すら消えてしまうことになります。こうして、1806年「神聖ローマ帝国」は消滅しました。
オーストリアに、過酷な条件を押し付けたために、イギリス、ロシアはもちろん、これまで中立を保ってきたプロイセンまでフランスを警戒するようになります。プロイセンは「第1回対仏大同盟」には参加したものの、その後「第2回、第3回の対仏大同盟」には中立を保ってきました。そのプロイセンが再びフランスへの開戦を決意します。
しかし、「イエナ、アウエルシュタットの戦い」でプロイセン軍は大敗し、ナポレオンは10月27日にベルリンに無血入城を果たします。
ベルリンを占領したナポレオンは「大陸封鎖令(ベルリン勅令)」を発布しました。ナポレオンの支配下、あるいは同盟関係にあるヨーロッパ諸国に対して、イギリスとの通商を全面禁止し、イギリスの商品を大陸から締め出すことで、ヨーロッパをフランス産業の市場にすることを狙ったものです。
「ベルリン勅令」はポルトガルやスペイン、ロシア等のイギリスへの穀物輸出が重要であった国に反発をもたらしました。「 革命の申し子」として登場し、フランス革命の所産である「自由の精神」と「人間解放」を標榜したナポレオンでしたが、皇帝即位後は兄のジョゼフをスペイン王に、弟ルイをオランダ王に据えるなどボナパルト家の栄達を図り、支配者然とするようになったことも反発を受けました。
1808年、イギリスとの密貿易をやめないスペインとの「半島戦争」が始まります。後にナポレオンが「スペインの潰瘍が私を破滅に追い込んだ」と供述したように、これが、ナポレオン没落の始まりとなります。
ナポレオン軍の強さの理由の1つ目は、「兵士の士気の高さ」です。フランス革命期の対外戦争の中で形成された義勇軍に、1793年に成立した「国民総動員法」により、兵士として駆り出された18歳から25歳までの男性が加わります。そして、1798年には正式に徴兵制度が確立します。祖国を防衛するという目的意識を持つ兵士が多かったことに加え、他国に比べてフランス軍の費用が安かったことも功を奏します。他のヨーロッパ諸国は、傭兵による高額な軍隊を使っており、それはどこの国にとっても重い財政負担になっていました。でも、フランスは徴兵制の導入により、安い費用で大きな軍隊を動かすことができました。
2つ目は「優れた機動力」です。ナポレオンは、独立的に行動できる師団と複数の師団から成る軍団を編成して、戦闘を超える「作戦(オペレーション)」という概念を作りました。「作戦」は、今日の軍隊では常識となっていますが、その発端はナポレオンの戦術革命で、軍事史上におけるナポレオン最大の功績であるともいわれています。
ナポレオンは横隊と縦隊の混合隊形を好みました。戦場の最末端で行動する部隊の基本単位である歩兵大隊を徹底して鍛えることにより、ナポレオンの意図する戦い方が戦場で具現できるようになりました。彼は、歩兵大隊を中隊、小隊に分割して、縦隊から横隊へ、横隊から縦隊へ素早く変換できるように、ブローニュ宿営地で徹底して教練を行いました。ドーバー海峡に面するブローニュは、カレーのおよそ30キロメートル南西に位置しています。ナポレオンはイギリス本土への侵攻に備えて、ブローニュ郊外に10万人をはるかに超える部隊を集結しました。大規模な宿営地を建設して、イギリス上陸後の戦闘を想定した野外訓練を2年間にわたって徹底して行いました。部隊の団結力は、ブローニュの同一場所で同じ部隊が寝食を共にし、実際の戦闘で彼らを指揮する将校、下士官と訓練を共にすることによって、さらに強固なものになりました。ブローニュ宿営地の長期訓練から誕生した新生陸軍(1805年8月26日に発足した「大陸軍」)は、革命後に徴収され、おどおどしていた素人の兵隊たちの集団ではありませんでした。タフでプロフェッショナルなヨーロッパ最強の軍隊に成長していました。
3つ目は「徹底した作戦」です。ナポレオンは、「火力を集中」して激しい砲撃を浴びせ、「中央突破」した後「各個撃破」するのを得意としました。
しかし、この戦法は、ヨーロッパの平原では上手くいきますが、スペインの山岳地帯では通じませんでした。しかも、敵は「民間人によるゲリラ戦」で、ナポレオン軍がまったく経験したことのない敵でした。ゲリラはバラバラに散開して戦うので、これまでのように集中的に砲撃(火力を集中)して中央突破して分断し、各個撃破するというナポレオン戦法が通用しませんでした。

「大ナポレオン展 文化の光彩と精神の遺産」
図録 より引用
ナポレオンについて書かれた本は三十万点を超えるといわれています。これだけの数になると、当然ナポレオンに対し、様々な見解が出てくることになります。英雄視するものもあれば、侵略者、征服者として扱っているものもあります。いずれにしても、彼が戦闘に長けただけの軍人ならば、後世にこれほど語り継がれる英雄にはならなかったでしょう。彼は己の行動を演出し、装飾し、権威付ける天才でもありました。アレクサンドロス大王しかり、ジュリアス・シーザーしかり、自己宣伝に長けた人物が英雄として歴史に名を残します。
軍事的指導者、政治家として、並外れた才能でフランス革命後の混乱を統制し、国外へも勢力を広げて、強大なフランス帝国を築き上げたナポレオンは、その一方で、文化や芸術面にも強い関心を寄せ、彼の時代には、新古典主義、アンピール様式といった新しい美術が流行します。こうした美術様式は、絵画や彫刻のみならず、建築や室内、装飾、家具などにも、取り入れられ、美しい品々が、数多く製作されました。また、エジプト遠征の際には、多数の学者や芸術家を同行させて、エジプトについての調査・研究を行ったり、ルーブル宮殿を美術館として、広く一般市民へ公開し、さらには、サロンの組織改正にも取り組むなど、19世紀初頭のフランス文化、芸術はナポレオンの存在によって大きな飛躍を遂げました。
ナポレオンの戦闘における装備品の美しさは、軍旗一つをとっても、デザイン、色み、豪奢さにおいて、当時のヨーロッパの軍隊の中で、並外れて優美であったことが分かります。ナポレオン直属の近衛兵の軍服、銃剣、大砲、馬具等は、戦闘するための道具というより、舞踏会へ、そのまま出られるような華奢なものでした。戦前の日本においても、若者が軍隊へ入る時に、「海軍のあの軍服に憧れて」という言葉をよく口にしていたそうですが、軍隊というところは、伝統として「伊達ぶり」を大切にして、それは全世界共通のものでした。

参考文献
「図説 戦争と軍服の歴史」
著者 辻元よしふみ
イラスト 辻元玲子
発行者 小野寺優
発行 株式会社河出書房新社
それなのに、ナポレオン自身は、あれほど出世した人物であるにもかかわらず、驚くほど着るものに無頓着であったといわれています。彼は、士官学校へ入って以来、ほとんどの時間を軍服で過ごしました。皇帝となってからも同じ服装で通した、数少ない人物です。一般に「ナポレオンの帽子」と呼ばれる、ナポレオンのトレードマークとなった「二角帽」は共和制フランス革命の象徴として、革命派が愛用していた帽子です。



2024年5月に、フランス旅行した時に、訪れた「La Procope」という、フランス革命時代からあるパリ最古のカフェに、ナポレオンの帽子が展示してありました。
ナポレオンの時代にフランスで初めてガストロノミー(美食芸術学)が生まれます。この時代に、パリには、大型のレストランが次々に誕生し、貴族や特権階級の人たちが、美食を楽しむことができました。ですがナポレオンは、何かにつけ、常に急いでいる人でしたので、食事も鶏の手羽を口に放り込み、ワインをコップ1杯飲んで、たったの10分で済ませたりしていました。節度を重んじていたので、酒は嗜む程度しか飲みませんでした。
フランスの歴史の中で、ナポレオンの時代の国民は失業者もほとんどなく、唯一の完全雇用の時代でした。しかも、好景気でした。革命以前のフランスは農業国で国民の90%を占めていた農民は不当な重税に苦しんでいました。封建主義の法律に、庶民は虐げられていました。革命政府は、貴族や聖職者が支配していた土地や資産を没収し、農民は、これらの土地を無償で手に入れることができました。この改革は、平等と言う名のもとに発せられた「人権宣言」の賜物でもあります。ナポレオン戦争は、それまでの封建社会を守ろうとする他のヨーロッパ諸国に対して、「人権宣言」を擁護する戦いでもあり、戦いに勝てば、フランスの経済利益を生みました。軍事力を増やすために、若者は兵士になり、労働者は高いサラリーを得るようになり、公務員は行政の仕事に従事し始め、失業者はいなくなりました。農民と労働者の生活が飛躍的に改善されたのもナポレオンの時代でした。こんなフランスの繁栄が「ロシア遠征」まで続きました。

映画「ナポレオン」
監督・プロデューサー リドリー・スコット
脚本 デヴィッド・スカルパ
2023年 アメリカ・イギリス
パンフレットより引用
3つ目の言葉 「ジョゼフィーヌ」
「ナポレオンにとって人生最大のキーパーソン、それが最初の妻であるジョゼフィーヌ・ボーアルネ。時には愛をささやき、時には互いを罵る、二人の奇妙な夫婦関係。これは激しく愛し合い、信頼し合い、そして激しく傷つけ合った夫婦の歴史でもある」
映画「ナポレオン」パンフレットより引用
6歳年上で二人の子持ち、ましてや自身の上官の愛人でもあったジョゼフィーヌにナポレオンは一目惚れしてしまいます。出会った日のジョゼフィーヌは、当時フランスの流行の最先端だったショートヘアにウエストを絞らないエンパイア型のドレスに身を包んでいました。フランス革命後の「恐怖政治」時代に、貴族としての誇りは捨てずに、自由を求める進取の気性も持ち合わせ、ファッションから言動に至るまで、それまでとは違う価値観を持つ先進的な女性でした。コルシカ島生まれのうぶで武骨な軍人が、際立ってクールで洗練された雰囲気を持つジョゼフィーヌに一瞬で心を奪われたのも無理からぬことでした。

「時代と地域の羅針盤 アカデミア世界史」
発行所 株式会社 浜島書店
より引用
1810年1月10日、自らの権威を増すために、ナポレオンは嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌと離婚し、オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚しました。これにより、オーストリアとの関係が改善すると、ナポレオンはロシアを制圧して大陸支配を完成させようとしました。ロシアは「ベルリン勅令」に背いて、イギリスへの穀物輸出を継続していました。1812年6月に、60万の遠征軍がロシアに侵攻しました。9月に「ボロディノの戦い」でロシア軍を退却させ、モスクワに入城しましたが、モスクワの火災とクトゥーゾフ将軍による「退却、焦土戦術」により、ナポレオンは得意の短期決戦に持ち込むことができず、 例年より早く冬将軍(マイナス30度のシベリア寒気団)が襲来したことも重なり、10月に撤退を余儀なくされます。フランス軍が撤退すると見るや、ロシア軍は容赦なく追撃し、大敗北を喫したフランス「大陸軍」は消滅し、祖国に生還できた兵士は一万人もいませんでした。
ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚した時「大陸軍」の兵士たちは不安に駆られます。ナポレオンが不敗神話を築き上げていった時期とジョゼフィーヌと結婚した時期が重なるため「大陸軍」の兵士たちは、ジョゼフィーヌを「勝利の女神」と見立てていました。ナポレオンが離婚をほのめかすあたりから、次第に夫を敬い、愛するようになったジョゼフィーヌでしたが、時既に遅く、不貞を詫び「離婚しないで」とすがる彼女に、もはや恋多き女、悪妻の面影はありませんでした。
離婚式での彼女は娘のオルタンスが支えなければ歩けないほどショックを受けた様子だったといわれています。それ以降、彼女はパリ郊外のマルメゾン城で余生を送りましたが、多額の年金を支給され、死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許されました。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、ナポレオンの後妻マリー・ルイーズが嫉妬するほどでした。
ジョゼフィーヌと離婚して以降、ナポレオンの戦勝記録にケチが付き、負け戦を重ねていくようになります。雄々しいほどの包容力を持つ、この糟糠の妻こそ、やはり「勝利の女神」であったことが、映画「ナポレオン」を観ることで理解できます。
「38戦35勝」という輝かしい戦勝記録を残すナポレオンが敗れた3つの戦いとは、1812年の「ロシア遠征」、「諸国民開放戦争」とも呼ばれる1813年の「ライプチヒの戦い」、1815年の「ワーテルローの戦い」です。
「ライプチヒの戦い」で、ほぼ全ヨーロッパ諸国を敵に回し、敗れたナポレオンは退位に追い込まれ、1814年4月エルバ島に配流されます。ルイ16世の弟、ルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活しました。しかし、1815年2月26日、ナポレオンは、わずか千の手勢でエルバ島を脱出し、熱狂のなかパリに凱旋し、皇帝に復位しました。
再起を賭けて、ナポレオンが「第7回対仏大同盟」を結成したイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデン等、ヨーロッパの主要国全てを敵に回して戦ったのが「ワーテルローの戦い」です。同盟軍の総兵力67万に対し、フランス軍はわずか12万4000でした。5倍以上の同盟軍が続々とベルギーに集結しようとしていました。ベルギーに同盟軍が集結する前に、イギリスのウェリントン将軍率いるイギリス・オランダ連合軍を撃破するため、ナポレオン軍はウェリントンが陣を構えるベルギーのワーテルローに向かいます。ナポレオンがワーテルローに到着した6月17日は土砂降りの雨が降り、決戦は翌日に延期されました。翌日は晴天となりましたが、前日までの雨で辺り一面ぬかるんだ状態でした。ナポレオンは、大砲を移動させるのに、地面が整うのを待ち、さらに数時間決戦を延期しましたが、この数時間の延期が勝敗を分けることになりました。この戦いは「時間との戦い」でした。続々と集まってくる同盟軍が結集する前に、勝敗を決しなければ勝てる見込みはありません。開戦し、時間が経つにつれて敗色濃厚となるなかで、「プロイセン軍を追撃せよ」という命令を受け、別行動をとっていたグルーシー元帥が駆けつけてくれるのを信じて、東からグルーシー軍が現れるのをナポレオンは待っていました。ところが、待ち続けたグルーシー率いる援軍のかわりに、ナポレオン軍から見て東側(右翼方面)に現れたのがプロイセンの大軍であったことが、戦いを決定付けたことはよく知られています。
ウェリントン将軍に「ナポレオンはまともに戦えていない」と言わしめるほどの空転ぶりを露呈してしまった、この「ワーテルローの戦い」に敗北し、ナポレオンは再び退位し「百日天下」と呼ばれます。
ジョゼフィーヌは、ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、彼が「百日天下」でパリに帰還するのを待たずに肺炎になって急死してしまいます。彼女の最後の言葉は「ボナパルト、ローマ王(ナポレオンとマリー・ルイーズとの間に生まれた嫡子)、エルバ島」でした。帰還したパリで彼女の急逝を知らされたナポレオンがどれほど落胆したか、想像に難くありません。ジョゼフィーヌは、ナポレオンが生涯愛し続けた女性であり、運命で結ばれた女性でした。

「ナポレオン」
監督・プロデューサー リドリー・スコット
脚本 デヴィッド・スカルパ
2023年 アメリカ・イギリス
パンフレットより引用
「グルーシーが駆けつけてくれていたら」
「ワーテルローに前日雨が降っていなければ」
そして、
「ジョゼフィーヌが生きていたら」
歴史に「IF」は禁物ですが、フランス贔屓の私としては、つい、そんなことを考えてしまいます。 同盟軍を率いたウェリントン将軍は、後に「戦中、何度も負けるのではないかと不安に駆られた。実際、もう少しで負けるところだった」と述懐しています。ウェリントンはまた、「ワーテルローの勝利は、イートン校の校庭で成し遂げられた」という言葉も残しています。母校イートン校での修練が将軍としての資質を磨いたということでしょうか。好きな言葉です。
この「ワーテルローの戦い」が、三つ目の負け戦となり、そしてナポレオン最後の戦いとなります。 イギリスによって大西洋の孤島「セントヘレナ島」に配流され、再びフランスの地を踏むことはありませんでした。
歴史において、価値観の大きな転換が起こる時には、時代のシンボルとなるような「英雄」が生まれて民衆の心に神話のように刻まれて残るということは少なくありません。けれども、ナポレオンのように、名もない一般民衆から知識人や思想家に至る全ての階層の人々を熱狂させた人間はいません。そのような英雄を前にして、瀕死の神の権威を引きずっていたヨーロッパの王たちは慌てざるを得ませんでした。王たちの敗北は、神から王権を授けられていたはずの彼らの驕りに対する「神罰」のようにも見えます。
無名の流れ者に等しかった若きナポレオンによってヨーロッパを征服された王たちは、ナポレオンの没落とともに「復活」しましたが、一旦「神罰」によって滅ぼされた王たちは、再び「王権神授説」のオーラを纏うことはできませんでした。
「私の遺体はセーヌ川のほとりに葬ってほしい」というナポレオンの遺言は無視され、セントヘレナ島に葬られましたが、20年後、遺言どおり、セーヌ川のほとり、廃兵院(アンヴァリッド)の地下墓地に葬られ、そこがナポレオンの安住の地となりました。

「ナポレオンのデスマスク」
「大ナポレオン展」
図録 より引用

「大ナポレオン展」
図録 表紙
より引用
「大ナポレオン展」
フライヤー
より引用

「NEW STAGE 世界史詳覧」
発行所 株式会社 浜島書店
より引用

参考文献
「世界史劇場 駆け抜けるナポレオン」
著者 神野正史
発行者 内田真介
発行 ベレ出版
名著です。


































































