マリーアントワネット編⑩

伝説を残して✨の巻

 

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アントワネットが処刑された「革命広場」は、現在は「コンコルド(調和)広場」と呼ばれ、中央に、エジプトから贈られたオベリスクが立っています。

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「処刑台に連行されるマリー・アントワネット

ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748ー1825) 作

パリ、ルーブル美術館

 

1793年10月16日午前10時頃、コンシェルジュリにアントワネットを迎えに来た死刑執行人のサンソンは、彼女に近づき「手を出しなさい」と言いました。狼狽したアントワネットは「私の手を縛るのですか。ルイ16世の手は縛らなかったのに」と抗議しました。「君の義務を果たしたまえ」と判事から命じられたサンソンによって後ろ手に縛られ、さらに、帽子を取られ、頭髪を乱暴に短く切られました。後ろ手に縛られたまま荷馬車に乗り、コンシェルジュリをあとにしました。アントワネットの処刑を見届けようと集まっていた大勢の見物人から罵声を浴びせられ、嘲笑されても動じることはありませんでした。革命広場に到着したアントワネットはチュイルリー宮殿の方を一瞥した後、誰にも身を支えられずに荷馬車から降りました。そして、毅然とした態度で処刑台の階段を上り、自分で頭を振って帽子を落とし、死刑執行人に身を委ねました。刑を執行したサンソンによると、「さようなら、子どもたち、あなたたちのお父さんのところへ行きます」がアントワネットの最後の言葉でした。12時15分にギロチンの刃が落とされました。サンソンがアントワネットの首を民衆の前で振りかざすと、「共和国万歳!」「自由万歳!」という歓声が何度も上がりました。

勇気と威厳をもって処刑台に上り、王妃としての誇りを貫いたアントワネットでしたが、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人はそれとは対照的に、処刑されるのを恐れ、ギロチンの上で動物のように吠え、逃げ回り、見物人に助けを求めてすがったといわれています。アントワネットの処刑から2ヶ月後のことでした。平民出身のデュ・バリーに貴族としてのノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)は備わっておらず、本性のまま行動してしまったのでしょう。アントワネットの肖像画を数多く描いた画家ヴィジェ・ルブランは、「もし、みんながデュ・バリーのように泣き叫んでいたなら、恐怖政治はもっと早く終わっていたのに」と回想録に書いています。

 

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ここでアントワネットが処刑されたことを伝えるプレートがオベリスクの近くにあると聞いたので探してみました。コンコルド広場がパリオリンピックスケートボードやバスケットボール3×3等の会場になるということで、観客席を設置する等の工事が進められており、柵の向こう側にみつけたのですが、立ち入り禁止で入れなかったので、近くで見ることはできませんでした。

 

プレートには、このように書かれています。

「1763年、『ルイ15世広場』の名で始まり、
1792年11月に『革命広場』と改名され、1795年5月までそう呼ばれたこの場所が、公開処刑の主要な場所となりました。

処刑された中には、

1793年 1月21日に刑が執行されたルイ16世
1793年 10月16日のマリーアントワネットが含まれます」

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処刑後、アントワネットの遺体は長い籠に入れられ、埋葬のために、ルイ16世と同じく、革命広場から700メートルほど北のマドレーヌ墓地に運ばれました。ところが、なかなか埋葬命令が出されなかったので、彼女の遺体は、膝の間に頭を置いて、2週間余りも墓地の隅の草むらに放置されたそうです。ようやく遺体が埋葬されたのは11月1日のことでした。

アントワネットに対しては、最後まで冷酷に対処した革命政府でした。

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サン・ドニ大聖堂

1814年に王政復古すると、ルイ16世の弟、プロヴァンス伯がルイ18世として即位しました。新国王は不幸な兄夫婦の名誉を回復するために、兄たちの葬られたマドレーヌ墓地に「贖罪礼拝堂」を建てました。

1815年1月18日、5人の遺骸収容班が旧マドレーヌ墓地に赴き、埋葬時の墓掘人夫の記憶にもとづいて、アントワネットの遺骸の探索にあたりました。二人は処刑された当時、慌ただしく埋められてしまったので、探すとなると見分けるのが困難で、医者も検視に加わることになりました。アントワネットは靴下止めと、特徴のある顎から本人と分かったとされています。

翌19日に、アントワネットの埋葬場所の近くからルイ16世の遺骸も掘り出され、夫婦の遺骸はそれぞれ鉛の棺に納められました。アントワネットの棺の上には、「ここに、きわめて高潔で、きわめて力強く、きわめて優れたマリー・アントワネットジョゼフィーヌ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ、オーストリア大公女、きわめて高潔で、きわめて力強く、きわめてすぐれたルイ16世公の妻、神の恩寵によるフランスとナヴァールの王の妻の遺骸がある」という文字が刻まれた金色のプレートが取り付けられました。

1月21日、ルイ16世の22回目の命日に、夫妻の遺骸は、旧マドレーヌ墓地からサン・ドニノートルダム大聖堂の王墓に改葬されました。この大聖堂は、カペー王朝以後、フランス歴代国王の墓所となりました。大聖堂の奥の地下墓室(クリプタ)には、42人の王をはじめ、32人の王妃、王子、王女など、100体以上もの遺骸が埋葬されていて壮観な光景となっています。

 

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アントワネットとルイ16世の「祈りの像」

フランス革命という歴史に遭遇し、過酷な運命を背負って生きた二人の魂は昇華され、静かな眠りの地を得ました。ルイ16世は涙を流しているように見えました。

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地下墓室には、ルイ17世(ルイ・シャルル)の心臓も安置されていました。

ルイ・シャルルはタンプル塔で両親から引き離され、 教育係に任じられた無教養な靴屋のシモンから思想教育を施されました。

シャルルが自慰行為にひたっている現場を目撃したシモン夫婦に問いただされ、母と叔母であるエリザベートから教えてもらい、彼女たちはそれを見て楽しんだし、母とは近親相姦の行為も行ったと言い、それをアントワネットの裁判でも証明させられました。

アントワネットは、どの時代の王妃も経験したことのないような酷い辱めを受けましたが、このことが最も許しがたく、最も悲しくて辛い仕打ちだったのではないでしょうか。それでも、「私が答えませんでしたのは、母である身に向けられたそのような誹謗に対して何か応じるというのを、自然が拒むからです。ここにおいでの母である全ての方々に、私は伺ってみたいと思います」と答え、満座の心を打ちました。

アントワネットの処刑後、1794年1月から、ルイ・シャルルは、窓もない、陽光も差さず、風も通さない、8畳ほどの独房に閉じ込められ、ドアは釘づけされて誰も出入りできず、パンとスープだけが差し入れ口から与えられました。糞尿と虫と悪臭にまみれた独房に、半年間、誰とも会わず、誰とも話さず、暗闇の中に放置されました。

ロベスピエールを失脚させたテルミドールのクーデター後、封印されていたドアをこじ開けて救出した時、ルイ・シャルルは汚物にまみれ、満足に歩くこともできず、簡単な質問にも受け答えできない状態でした。すぐに治療が開始されましたが、翌年6月に死亡しました。

9歳の子どもをここまで残酷非道に扱った革命政府には、何ら弁解の余地はありません。革命の指導権を握る急進派にとって、ルイ・シャルルは厄介なだけの存在で、死ぬのを待っていたと考えられます。

 

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ルイ17世

ジョゼフ・マリー・ヴィヤン・ル・フィス 作

1793年

 

1993年12月、サン・ドニ大聖堂の王子の礼拝堂に安置されている「子どもの心臓」がDNA鑑定のため、下部1センチほど切られ、ベルギー大学病院とドイツの大学の研究所の2カ所で細心かつ詳細に分析されました。この鑑定を依頼した歴史家ドロルムは、心臓はルイ・シャルルのものだと言いました。遺体を解剖した外科医ベルタンが縫合の際に切り取り、ハンカチに包んで持ち帰り、アルコール処理した心臓は、ベルタンからパリ大司教、ベルタンの息子と親戚、スペインのマドリッド公、マリー・テレーズ(ルイ16世夫妻の長女)が最後に暮らしたオーストリアの古城の礼拝堂、第二次世界大戦中はマドリッド公の子孫と、転々とし、最後にフランス王家の墓所のある大聖堂に辿り着くという不思議な運命をたどりました。けれど、それがルイ・シャルル本人だと保証するものは何もありませんでした。宮殿と牢獄という極端に違う環境から、ルイ・シャルルの顔を誰も知らなかったからです。埋葬場所が曖昧で遺体が見つからず、救出劇や身代わり等の情報も流れ、「ルイ17世」を名乗る人物が何人も現れて、数奇な運命を語ったりもしました。「幼い子どもにこれほどの非道をするはずがない、別人だ」と主張する人々もいました。

2000年4月、パリで鑑定結果の記者会見が行われました。ミトコンドリアDNA配列において、マリー・アントワネットとその2人の姉の毛髪、4人の子孫の毛髪あるいは血液の遺伝子が心臓の遺伝子とピタリと一致したのでした。

2004年6月8日、ルイ・シャルルが崩じたこの日、サン・ドニ大聖堂で、ルイ17世の心臓を納める儀式が執り行われ、長年の謎に終止符が打たれました。

悲惨な最後を遂げたのは、やはりルイ・シャルルでした。ルイ16世が革命の早い段階で王妃と子どもたちを、実家のウイーンへ戻していれば、このような悲劇は起こらなかったと思います。子どもたちと一緒なら、アントワネットは拒むことはなかったでしょう。フランス革命が起こる150年以上も前にイギリスで起こったピューリタン革命で斬首された国王チャールズ1世が、外国生まれの妻と子どもたちを実家へ帰して命を救ったように。でも、その場合、チャールズ1世の王妃が人々の記憶に残らなかったように、アントワネットも忘れ去られ、200年以上経った今日、私たちの関心を引くことはなかったでしょう。

 

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サン・ドニ大聖堂の美しいバラ窓

 

マリー・アントワネットの遺言

「愛する義妹へ。私は自分の最後に、貴方へと手紙を書きます。私は今まさに死刑の宣告を受けました。でも、屈辱的な死ではありません。それは罪ある人が受けるものですから。私はあなたの兄上様に会いに行くのです。最後の瞬間まで、私も彼と同じように罪はありません。良心に呵責がない人間がそうであるように、今や私の気持ちも安らかなのです。

ただ、子どもたちを置いて行くということが心底、心残りです。お分かりのように、私は子どもたちと貴方のために生きてきたのです。善良で優しい義妹よ。貴方はご自身の親身な情から、全てを犠牲にして私たちのところにいてくださいましたね。それをこんな状況下に、そのままにしていくしかないとは。

悩み多いなかで、貴方との結びつきによってどれだけの慰めが生まれたことでしょう。幸福は友と分かち合えれば何倍にもなるのです。

私は自分の全ての知己の方に許しを乞います。特に、愛すべき貴方には、私が知らずに与えてしまった苦しみを許してください。そして、敵とその人々には私に与えたあらゆる悪徳を許します。これをもって私は叔母様方、兄弟、姉妹にも別れを告げます。

私には友人たちがいました。その方々と永遠に別れて、またその方々の心の痛みを思うと、死を待つ身であっても、それは私にとって最大の苦しみなのです。私が最後の最後まで、その方々のことを思っていたことを少しでも分かってもらえますように。優しい義妹よ。私のこの手紙が貴方に届きますように。忘れないでください!私のことを。貴方と私のかわいそうな子どもたちのことを抱きしめます。神よ。子どもたちを見捨てて行くのは心が引き裂かれる思いです。さようなら、さようなら。私は今は宗教上の義務を終えるだけなのです」

 

裁判を終えたアントワネットが、コンシェルジュリで、ルイ16世の妹のエリザベートに書いた長い告別の手紙です。けれど、この手紙はエリザベートには届けられず、牢獄管理人から訴追官フーキエ・タンヴィルの手を経て、ロベスピエールに渡されました。ロベスピエールの処刑後、手紙は彼の下宿のベッド付近にあった書類の中から発見され、最後にルイ18世に届けられました。

ルイ18世は、このアントワネットの遺書を毎年、彼女の命日である10月16日に、フランスの全ての教会の説教壇で朗読することを命じ、そのために、遺書の複製が幾千部も作られたといいます。

 

ルイ・シャルルを死に追いやった残酷な仕打ちは勿論ですが、アントワネットの最後の願いを無にしてしまった革命政府のやり方にも強い憤りを感じます。

フランス革命は、「自由・平等・博愛」の理念を掲げて、アンシャン・レジーム(旧制度)と決別し、新しい時代と社会に生きようとする全世界の人々に夢と希望と勇気を与えました。「フランス人権宣言」で人権を高らかに謳ったフランス革命でしたが、王家をはじめとする多くの人々の人権を踏みにじり、命を奪うことで成り立っていたのです。革命があったからこそ、今日のフランス共和国がある。それは確かなのですが、今日のフランスでは、革命はやり過ぎだった、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットまでギロチンにかけて処刑してしまったのは間違いだったという声が強まっているのも事実です。

海外からの観光客数で世界第1位に輝くフランスが誇る、各地の豪華な王宮や城館(シャトー)、庭園や内部調度品などの文化遺産を作り出した王侯貴族を1万7000人以上も虐殺し、文化破壊にまで行き過ぎてしまったのが、当時の民衆でした。サン・ドニ修道院サン・ドニ大聖堂になるのは第2次世界大戦以降)から、墓をあばいて、歴代フランス国王の遺体をすべて穴に捨ててしまったのも、当時の民衆たちでした。だから今も、並べてある国王の棺や霊廟の中は、すべて空っぽです。飢饉による食料不足が続き、社会不安が高まるなか、不満爆発した民衆が、群集心理からエスカレートしていくのを誰も止めることができなかったのだと思います。現代のいじめに通じるものがあるのでは?と感じるのは私だけでしょうか、、

世界史の大転換期となったフランス革命は、フランス共和国の栄光の歴史であると同時に、未曾有の惨劇をもたらした黒歴史にもなりました。

フランス革命という歴史に遭遇し、民衆の憎悪を一身に浴びて、苦悩し、闘いに敗れ、断頭台に散ることによって、王妃としての誇りを貫いたアントワネットは伝説となりました。

ベルサイユ宮殿の女主人として、「赤字夫人」と呼ばれるほど贅を尽くした宮廷生活を送り、栄華を極めた頂点から一転、フランス革命の波にのみ込まれ奈落の底へ、、そしてついに、断頭台の露と消える。これほどまでに高低差のあるドラマティックな人生を私は他に知りません。

アントワネット以前に、そのような王妃は存在せず、今後も現れることはないと思います。

まさに、空前絶後

マリー・アントワネットが愛されるのは、完璧な女性だからだと思います。

フェルゼンが「何と甘美で、優しく、感じやすい繊細な心を持っていたことか。いかに彼女があらゆることにおいて完璧だったか」と賞賛したように、高貴な生まれに、優雅な身のこなし、善良な人柄に不幸の中で獲得した聡明さが加わり、完璧な女性へと成長していきました。

ファッションリーダーとして時代を牽引し、現代では「美のカリスマ  マリー・アントワネット」というブランド力を発揮し、世界中の人々から支持され崇敬を集めています。

そして、ドラマティックな激動の時代を生き抜き、美しく闘い、敗れて散った、波乱の生涯は、私たちの手の届かない彼方で輝く伝説となりました。

 

明日、7月14日は、バスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が勃発した記念日として、毎年パリ祭が行われます。

パリオリンピックの開幕を26日に控えた、特別の日になることでしょう。

今後もフランスから目が離せません。

 

「LOVE♡で学ぶ世界史」

「マリーアントワネット編」は今回が最終となります。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

次に予定している「キングダム編」も読んでいただけると幸甚です。