ディズニー編②

美女と野獣・白雪姫・眠れる森の美女」に見るゲルマンの神秘の森🌳の巻✨

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ディズニーアニメーション映画「美女と野獣

1991年制作

オフィシャルサイトより

 

「18世紀フランス。森の奥にある城に、若く美しいが、高慢で我がままな王子が住んでいました。ある冬の夜、みすぼらしい老女が城にやって来て、一輪のバラを宿代代わりに差し出し、一晩泊めてほしいと頼みました。しかし老女の醜さを嫌った王子はそれを断ります。老女は「見かけで人を判断すると、心の奥底の真実が見えなくなってしまう」と忠告しましたが、王子は聞く耳を持たず再び追い返そうとしました。すると突然老女は美しい魔女へと姿を変えると、優しい心を持たず人を外見で判断する王子と、王子をそのように育てた召し使いたち、さらにその城全体に魔法をかけ、王子を恐ろしい野獣の姿に、召し使いたちを家財道具の姿に変えてしまいました。魔女が残した一輪のバラの花びらが全部散るまでに、王子が人を愛し人に愛されることを学び、「真実の愛」を見つけることができなければ、王子と召使いにかけられた魔法が解けることはないのです。王子は己の醜い姿を恥じて、森の奥深い城に閉じこもり、失意と絶望のうちに十年の歳月が流れていきます。

荒廃した城にやって来たのは、読書が好きな村娘ベルでした。」

 

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シャンボール城

Wikipediaより引用

 

実写版「美女と野獣」で、愛の力によって美しい城に生まれ変わる、野獣が住む城のモデルは、フランスのロワール地方にある、フランス・ルネサンス様式の最高傑作といわれる「シャンボール城」です。

国王フランソワ1世が、イタリア遠征でルネッサンス芸術に感銘を受け、帰国後の1519年に建造に着手しました。見どころは天守の中央にある二重螺旋階段で、人がすれ違わずに昇降できる巧みな仕組みになっています。当時のフランスとしては革新的な設計であることから、国王に招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの発想が取り入れられたと言われています。

 

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ディズニー  実写版映画「美女と野獣

2017年制作

DVDカバーより引用

 

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フランス東部のアルザス地方にある「コルマール」は、実写版「美女と野獣」のベルの住む「ヴィルヌーヴ村」のモデルとなりました。

ドイツとの国境からすぐ近くで、かつてはドイツ領になっていたこともあり、ドイツの影響を受けたアルザス地方特有の木組みの建物や尖塔、出窓や石畳みの道がそのまま保存されています。

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「Petite  Venies(プティットヴニーズ)」と呼ばれる、運河沿いに並ぶ家々のカラフルな壁と出窓やバルコニーに飾られている花々がメルヘンチックで、石畳の通りにベルが歩いて来そうな雰囲気でした。

 

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ディズニー映画の中で、一番好きな作品が「美女と野獣」です。2022年、社交ダンスのパーティで、「美女と野獣」の曲で、ワルツとヴイニーズワルツを踊りました。

 

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「白雪姫」

ディズニーアニメーション映画

1937年制作

DVDカバーより引用

 

世界初の長編カラーアニメーション

 

「昔、白雪姫という美しい姫がお城で暮らしていました。魔法の鏡に、自分より白雪姫の方が美しいと言われて怒り狂った、継母である王妃は、白雪姫を殺すよう狩人に命令します。哀れに思った狩人に命を助けられた白雪姫は、暗い森の奥へと迷い込み、7人の小人が暮らす家にたどり着きました。小人たちと一緒に楽しく過ごす白雪姫でしたが、魔法で老婆に化けた王妃に騙され、毒リンゴを口にしてしまいます。」

 

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スペイン アルカサル城

Wikipediaより引用

 

「白雪姫」は、グリム兄弟がドイツの民間伝承を収集してまとめ上げた「グリム童話」が原作ですが、「白雪姫」のお城は、スペインの古都セゴビアのアルカサル城がモデルと言われています。

 

 

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「眠れる森の美女」

ディズニーアニメーション映画

1959年制作

DVDカバーより引用

 

「舞台は14世紀の西ヨーロッパ。オーロラ姫は、自身の誕生の宴に現れた魔女マレフィセントによって、『16歳の誕生日の日没までに糸車の針に刺されて死ぬ』と呪いをかけられます。」

 

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「ユッセ城」

Wikipediaより引用

 

「眠れる森の美女」のオーロラ姫が眠りにつき目覚めた城のモデルとされているのが、フランスのロワール地方にある「ユッセ城」です。

 

西ヨーロッパのとある国とだけ舞台設定されており、城のモデルには諸説ありますが、「民間伝承」をもとに「眠れる森の美女」を創作したシャルル・ペローがフランスの詩人であることから、ロワール川支流に立つユッセ城に魅せられて、この物語を執筆したと言われています。

 

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ドイツの黒い森(シュバルツバルト

Wikipediaより引用

 

この「美女と野獣」「白雪姫」「眠れる森の美女」の3つの物語に共通しているのが「森」が舞台となっていることです。キリスト教を受け入れる前のゲルマン人が信仰していたのは、森や樹木でした。ゲルマン人にとって、森は妖精が住み、木々には神秘の力が宿る神聖な場所であると同時に、狼など恐ろしい動物や魔物が潜む怖い存在でもありました。

国土の3分の1を森林が占める森の国ドイツで生まれた「グリム童話集」には、森を舞台にした物語が多く、シュバルツバルト(黒い森)は、グリム童話ゆかりの地と言われています。

深い森を切り開いて畑を作るところから、ドイツの歴史は始まります。ドイツの人々は、その畑でビールの原料となる大麦を育て、森に無数に落ちているドングリが豚を育てました。

ドイツやフランスなど、西ヨーロッパの国々は、鬱蒼(うっそう)と茂る巨大な森によって分断されていましたが、商業が発達し、村々を結ぶ道が森を横切り整備された17〜18世紀以降、人々は自由に森を往来できるようになりました。

 

ゴシック式の教会の特徴として挙げられる

①そびえ立つ尖塔 → は、ゲルマン民族が古来

 信仰していた樹木信仰の樹木を表し、

②パイプオルガン → は、森の中で聞こえる鳥 

 の、さえずり

③ステンドグラス → は、木漏れ陽を表している

という説があります。

教会は、ゲルマンの人々が神聖な場所としていた森を表したものだと考えられています。

ドイツとの国境近くにあるフランスのアルザス地方にあるストラスブール大聖堂は、ゴシック建築の傑作と言われています。高さが142メートルあり、200年もの間キリスト教建造物の中で世界一の高さを誇っていました。その高さに圧倒され、ステンドグラスの美しさに息をのみました。332段の螺旋階段を上ってたどり着いた展望台からは、シュバルツバルトの森が見えました。

まだ読まれてない方は、「マリーアントワネット編③ストラスブール⛪️✨の巻」を読んでいただけますと幸いです。

 

美女と野獣」は、ベルを愛するようになった野獣がベルに愛され、真実の愛を知ったことにより、元の王子の姿に戻り、召使いたちや城への呪いも解けて、2人の結婚を祝う盛大な舞踏会が行われます。

ともに、悪い魔女の呪いにより、長い眠りについた白雪姫とオーロラ姫は、それより前に出会って恋に落ちた王子のキスによって目覚め、結ばれてどちらもハッピーエンドとなります。

 

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「世界の童話 2  グリムの物語」

発行所 小学館

 

幼稚園の年長クラスに上がった時に、父が買ってくれた絵本です。父は23年前に他界しましたが、その時のことは今でもはっきりと覚えています。幼稚園に迎えに来てくれた父が、車の中で5巻セットの絵本を渡してくれました。飛び上がるほど嬉しくて、その日から何度この本を読み、挿絵に見入ったことでしょう。「ねむりひめ」「おかしのいえ」「あかずきん」「きんのがちょう」「しちひきのこやぎ」の5つの物語が収録されていますが、一番心を踊らせ、何度も読み返し憧れた物語が「ねむりひめ」でした。私の世界史教員としての原点は、この絵本かもしれません。

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5巻セットの中に、「世界の童話  4  アラビアンナイト」があります。

次の、「アラジン」で紹介したいと思います。

 

 

ディズニー編①

ムーランの巻✨

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ディズニーアニメーション映画「ムーラン」

1998年  

DVDカバーより引用

 

「昔々のある日、中原(ちゅうげん)侵略を目論む北方騎馬民族フン族が侵攻してきたため、国中に各家男子一人の徴兵令が下った。これによりファ(花)家も男子一人を軍に入隊させなければならないが、ファ家の男性は高齢で足の悪い父のファ・ズーしかいなかった。親想いの一人娘・ムーランはそんな父に代わり、大事な髪を切り落として男装し従軍する。訓練で失敗も多く、仲間たちの意地悪もあったが、努力によって力をつけ、周囲の仲間たちもムーランに一目置くようになる。行軍を続ける中、ムーランは司令官シャン隊長に淡い憧れを抱くようになる。

しかし、シャン隊長の父リー将軍が率いていた別働隊がフン族によって全滅したことで、事態は風雲急を告げる。フン族に雪山で襲撃された軍は、ムーランの奇策によって勝利を収めるが、交戦中に負傷したムーランは気を失い、手当てを受ける間に女であることが発覚してしまう。軍規違反だとして処刑を迫る文官に対し、シャン隊長は彼女に「追放」を言い渡し、命を救う。

傷心のムーランは故郷へ帰ることを余儀なくされるが、その途中、シャン・ユー率いるフン族の残党が都に向かったことを知り、馬を走らせ皇都へ急ぐ。その頃、都と王宮は勝利の祝宴に酔っていたが、そこへ潜伏していたフン族が急襲、皇帝を捕らえて王宮を制圧してしまう。この緊急事態に、ムーランはシャン隊長や戦友たちとともに、皇帝奪還作戦を行う。作戦は見事に成功し、フン族の首領との凄絶な一騎討ちも、ムーランが制した。真相を知った皇帝は、女性でありながら勇敢に戦ったムーランを公正に褒め称え、累代の秘宝を下賜(かし)する。

こうして、大功を挙げたムーランは帰郷、父に誇りと愛情をもって迎え入れられる。そしてシャン隊長も彼女に想いを寄せ、木蘭の花咲く庭に訪ねてくる。」

Wikipedia  

ディズニーアニメーション映画「ムーラン」

ストーリーより引用

 

ムーランを漢字で書くと「木蘭(もくらん)」で、姓の「花」と合わせて、「花木蘭(ファムーラン)」になります。

中国では、武装して戦場に立った美女は珍しくなく、「巾幗(きんかく)英雄」と呼びます。巾幗とは髪飾りのことです。

木蘭がはじめて文学作品に登場するのは「木蘭辞(もくらんじ)」という長詩で、6世紀、中国史でいう「南北朝時代」になります。英題では「Ballad of Mulan」と訳されています。

リー将軍の息子シャン隊長の小隊に配属されたムーランは、厳しい訓練を重ねていくうちに、その大胆な洞察や深い知恵が評価されるようになります。徐々に仲間たちに認めてもらえるようになっていく彼女の成長ぶりにジーンときました。バックに流れる「闘志を燃やせ」が劇中歌の中で一番好きな歌でした。

 

中国の歴史は、[殷・周]→春秋・戦国→[秦・漢]→魏晋南北朝→[隋・唐]→五代十国・宋と遼・金→[元・明・清]というように、[  ]で示した統一王朝時代と分裂時代を繰り返してきました。

さらに、もう一つ、中国の歴史は、「農耕民族」である「漢民族」と北方の「遊牧民族」との「侵入と撃退」「対立と融合」の歴史でもあります。

中国王朝の中には、夷狄(いてき)とか胡族(こぞく)と呼ばれる北方遊牧民族漢民族を支配した、いわゆる征服王朝があります。 五胡十六国北朝、五代、遼、金、元、清が、それにあたりますが、最近では、隋・唐も征服王朝であるという見解が強まっています。金と清を建国した女真族は正確に言うと、遊牧を行わない狩猟民族ですが、遊牧民族と同様に高度な騎馬技術を生かした軍事力を保持しており、中国王朝の半分は征服王朝が支配したと言っても過言ではありません。

 

ユーラシア大陸の北緯45度から50度にかけて、東西に伸びる草原地帯に暮らす人々を遊牧民族と呼びます。遊牧とは、牛や馬、羊、ヤギ、ラクダなどの家畜をともなって移動することです。

 

「農耕民族 VS   遊牧民族」は、 人類史上、最大のライバル関係と言えるかもしれません。この2つの民族は何もかもが違います。田畑を耕作するために定住するのが農耕民族です。だから「住所」があります。農耕する民を支配する支配者も定住していますから首都が定められます。収穫高に応じた予算を組み、経済を計画的に進めることができます。

一方の遊牧民族は、草を主食とする家畜を飼育するために、草原から草原へ移動します。だから、彼らには「本籍地」はなく、「現住地」しかありません。それでは統率することができないので、「本籍地」の代わりに「旗」が使われたりします。自分は「赤い旗」に所属し、その旗の移動する所、どこへでもついて行くということになります。その「旗」はどこにでもあり、支配者のテントには、一際大きくて鮮やかな「旗」がひるがえっていて、それが立っている所が現在の首都ということになります。

「倫理」も違います。農耕民族には、はっきりと「所有物」という概念があります。田畑は自分たち一族が苦労の末に開墾したものだからです。当然、他人が苦労して開墾した田畑を無闇に侵すことはしません。

一方の「遊牧民族」にも、「自分の家畜」「他人の家畜」という概念、感覚もあるにはあります。

しかし、彼らから見れば、「農耕民族」は自由に移動することすらできずに、大地にしがみついている哀れな存在であり、「農耕民族」が後生大事に抱え込んでいる食糧や財産などを略奪しても構わないと考えていたのは間違いないと思います。

古代では、「遊牧民族」の方が圧倒的に有利だったと考えられます。「農耕民族」は彼らが今どこにいるかすら分からないのに、こちらの位置は知られていましたし、田畑は持って逃げることはできません。彼らは突然現れて収穫したものを奪って行きます。逆らう者は殺されます。追撃しようにも移動は、騎馬民族でもある彼らの得意とするところで、あっという間に追跡不能の砂漠や草原に逃げ込んでしまいます。

しかし、「定住」の最大の強みは富を蓄積できることで、その最大の成果が「万里の長城」でした。

万里の長城」は、「地勢に従って、場所によっては山を削って土壁を築き、また見張り台を置いて周囲に堀をめぐらす」という手法で作られました。より詳しくいえば、山の尾根部分の北面を可能な限り垂直に削り取り、山間や平地部分には石や土を積み重ねて、高さ7メートルにも及ぶ連続する「壁」をつくり、その間の要所に見張り台を置くというものでした。秦漢時代の「長城」は泥と葦(あし)などで築かれ、高さも2メートルしかないものでしたが、遊牧民族が馬で越せない高さがあれば十分でした。

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ディズニーアニメーション映画「ムーラン」

1998年  

パンフレットより引用

 

アニメ映画「ムーラン」の中で、中国側のリー将軍が皇帝に「フン族が長城を越え侵入しました」と言うセリフがあったのと、フン族の首領シャンユーが捕らえた中国側の見張り役の2人の兵士に「俺を招いておいて、、万里の長城を作ったのは、そういうことだろう?だから俺は来てやったんだ」と恫喝するシーンがあったのとで、中国に北方から侵攻してきた遊牧民族は、「漢」の時代の「匈奴」だと思っていました。「フン族」とはユーラシア大陸を横断し、アッティラ大王に率いられてヨーロッパに侵入した「匈奴」のことです。このフン族の侵入により、民族の玉突き現象が起こって、375年「ゲルマン民族の大移動」が始まりました。「漢」の時代だと思ったのは、始皇帝万里の長城を修築してからまだそんなに経っていない頃だと思ったからです。

でも、 「ムーラン」の舞台は4〜6世紀の華北(中国北部の総称)の北魏王朝(386〜534年)の時代で、侵入した遊牧民族は「柔然(じゅうぜん)」でした。

実写版「ムーラン」では、長城を守る兵士が、突進してくる騎馬民族の一団を発見して、「柔然か?」と、はっきり言っています。

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「グローバルワイド 最新世界史図表」

第一学習社 より引用

 

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三国志」で有名な「魏」を滅ぼして「晋」という王朝をつくったのが司馬炎(しばえん)でした。「晋」は血縁を信じて、皇帝一族を各地の王として地方を支配させますが、この王たちが「八王の乱」と呼ばれる反乱を起こし、「晋」は衰退に向かいます。とどめを刺したのが、「匈奴(きようど)」が起こした「永嘉(えいが)の乱」でした。

匈奴」はもともと中国北方のモンゴル高原を拠点に活動していましたが、前1世紀に東西に分裂し、「西匈奴」は滅亡します。生き残った「東匈奴」は南北に分裂しました。そのうちの「南匈奴」は、万里の長城より南に移動し、「後漢」以降の中国王朝の騎兵として活躍しましたが、「晋」の弱体化を見て「漢」の建国を宣言しました。国名を「漢」と名乗ったところに偉大な「漢」王朝への憧れが見てとれます。名前も劉(りゅう)氏を名乗りました。311年、劉聡(りゅうそう)が「晋」の都洛陽を占領し、次いで、316年には、長安を占領しました。ゲルマン民族の大移動が起きる60年ほど前に「晋」は滅ぼされました。しかし、「晋」王朝の残党が江南(こうなん)と総称される中国南部に逃れ、そこに「晋」王朝を復活させました。これ以降の「晋」を「東晋」と呼びます。

この「晋(西晋)」が滅亡し、「東晋」として復活した4世紀初めから、589年に「隋」が南北統一を果たすまでの270年間とその前の、220年に「魏」の曹丕(そうひ)が「後漢」を滅ぼしてから「西晋」が滅亡するまでの100年間とを合わせた約370年間を「魏晋南北朝時代」といいます。受験生泣かせの複雑で覚えるのに苦労する時代です。

 

なかでも難解なのが、「五胡」と呼ばれる「匈奴」「鮮卑」 「羯(けつ)」「氐(てい)」「羌(きょう)」の5つの遊牧民族華北に16の国を建てて分裂した「五胡十六国時代」です。

439年に華北を統一して、「五胡十六国時代」を終焉させた「北魏」を建国したのは「鮮卑」という民族で、本来は自身も「北方遊牧民族」であり、漢民族を征服した側でした。「征服王朝」である「北魏」は孝文帝の時に「漢化政策」を行い、漢文化を受け入れ、中国語を話すようになり、胡服(筒袖の上着を革帯で留め、ズボンを履く騎兵の服装)や胡語を禁止し、中国に同化していきます。さらに、中国文明を防衛するため、別の「北方遊牧民族」と戦う側に回ります。6世紀後半に南北統一を成し遂げた「隋」、そして、その隋を継承し、「漢」と並んで中国史を代表する王朝となった「唐」も、実は北魏と同じ「鮮卑」系の王朝だという見解が強まっています。

実写版「ムーラン」では、北方遊牧民族の「柔然」と戦う「北魏」という設定が明確に打ち出されています。

 

そんな実写版「ムーラン」ですが、世界的に大炎上を起こしました。

炎上した理由は3つあります。

①劇場公開されなかった
 劇場公開されず、ディズニープラスの有料視聴でしか見られなかったことです。

元々、米国などでは2020年3月に、日本では2020年4月に劇場で公開される予定でした。

しかし、新型コロナウイルスの影響を受け、劇場公開が中止されました。(ディズニープラスのサービスがおこなわれてない一部の地域を除く)

2020年9月4日、ついにリリースされたものの、ディズニープラスのプレミアアクセス(有料配信)でしか視聴できない仕様になっていました。

プレミアアクセスをするには、ディズニープラスの会員が3,278円(税込)の追加料金を支払う必要があります。

劇場で映画を見るより高い値段がかかることに批判の声が集まりました。

現在はディズニープラスで通常配信されているため、追加料金なしで視聴可能です。私も通常料金で試聴しました。

 

②主演女優リウ・イーフェイが問題発言をしたことです。
 実写版「ムーラン」が公開される前、キャスティングなどが既に発表されていた、2019年8月15日当時、香港では、民主派による逃亡犯条例改正案に反対する激しいデモが起こり、それを中国警察が鎮圧していました。

それに関して、主演女優リウ・イーフェイが中国版SNS・ウェイボーで「私は香港警察を支持します。(デモによる抗議は)香港の恥」と発言しました。

この発言に対して香港の人々は激怒し、実写版「ムーラン」のボイコット運動が香港をはじめ、台湾、タイでも起こりました。

 

③新疆ウイグル地区で撮影が行われたということです。
 実写版「ムーラン」の配信が始まり、エンドロールによって、中国政府の協力によって新疆ウイグル自治区で撮影していたことが明らかになりました。新疆ウイグル自治区では、中国政府が、イスラーム教徒である少数民族ウイグル族を迫害、弾圧しているという報道がされていました。

エンドロールの画面には、 「China Special Thanks(チャイナスペシャルサンクス)」「新疆自治政府の治安機関に謝意を表明している」(BBC日本語版、原文のまま)という文字と、中国での撮影の際に協力を得た会社や組織の名前が記載されています。

その中には、「新疆ウイグル自治区党委宣伝部」「トルファン党委宣伝部」「トルファン公共安全局」などの名前があり、これらは新疆ウイグル自治区での非人道的行為に関与した組織であるため、「ディズニーは中国の少数民族迫害を容認するのか」と怒りの火の手がさらに広がり、世界的に炎上することになりました。

 

近年の中国がスローガンとして掲げている「中華民族の偉大な復興」の中華民族が、漢民族だけを指すものではないことは、中華に興亡し、変遷した王朝の歴史が証明しています。遊牧民族少数民族も中華の歴史の一翼を担っており、中華民族の枠外に置くことはできないのではないでしょうか。

 

「夢と魔法の王国」ディズニーの作品に、政治色が強い発言や活字はそぐわないと思います。

 

次は、ゲルマンの神秘の森🌳

 「白雪姫」「眠れる森の美女」「美女と野獣

 

 

 

 

キングダム編⑤

早過ぎた秦の滅亡の巻

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「KINGDOM キングダム  大将軍の帰還

Visual  Bookビジュアルブック」より引用

 

前210年、始皇帝は丞相(じょうしょう)の李斯(りし)、始皇帝の末子・胡亥(こがい)、皇帝の璽(じ・皇帝の印章)を司る役職にいた宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)を引き連れて、全国巡行に出ました。浙江省の会稽山(かいけいざん)に登った後、河北省の沙丘(さきゅう)に着いた時、始皇帝は重い病に倒れました。死を悟った始皇帝は、趙高に、陝西省の上郡(じょうぐん)にいる長男・扶蘇(ふそ)に、軍は蒙恬(もうてん)将軍に任せて自分の葬儀を取り仕切るように記した手紙を渡しました。

事実上の後継者指名と考えられます。扶蘇は、始皇帝の二十数人いた男子の長子でしたが、それまで太子には立てられていませんでした。

前212年、不老不死の仙薬で始皇帝を欺(あざむ)いた方士ら460人余りを捕らえて生き埋めにするという「坑儒」の事件が起きると、扶蘇は、父である始皇帝を諌めました。「天下は初めて平定され、遠方の民は安息を得ていません。学者たちは孔子の教えに従っています。ただ今、上(始皇帝)は、彼ら全員に対する刑罰を厳しくして、ただしております。私は天下の民が不安を感じることを恐れます。上、このことをお察し願います」と、何度も諌められた始皇帝は怒って、扶蘇に上群にいた蒙恬を監督させることにして、蒙恬のいる北の辺境の地へ追いやってしまいました。

こうした状況の中で、始皇帝の手紙と玉璽(皇帝の印鑑)の両方を持っている趙高は胡亥に、兄ではなく、胡亥が帝位に就くように説得しました。

「兄を廃して弟が立つのは不義である」と言って拒否した胡亥に、趙高は、「断じて行えば鬼神もこれを避(さ)く」(断固とした態度で行えば、鬼神でさえ気おされて避けて行く、つまり、決心して断行すれば、どんな困難なことでも必ず成功する)と言い放って、説き伏せ、全て自分と李斯に一任させました。李斯も初めはこの陰謀に加担することに難色を示しましたが、趙高に、「剛毅で武勇にすぐれ、人望があり、兵士たちを奮い立たせることができる扶蘇が即位すれば、扶蘇に親しい将軍の蒙恬が丞相になり、李斯やその一族の立場は危うくなり、失脚してしまうだろう」と説得され、この陰謀に同意してしまいます。

始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを恐れた李斯は、始皇帝の死を伏せ、遺体を窓を開けて温度調節のできる大型の車に乗せ、死臭をごまかすために大量の魚を積んだ車を伴走させ、始皇帝が生きているように振る舞い続けました。

 

趙高、李斯、胡亥の三人は、咸陽の都への帰路、始皇帝扶蘇への文書を破り捨て、始皇帝の詔を偽り、胡亥を太子として立てました。さらに、始皇帝の詔と偽り、皇帝の印を押して封じた文書を扶蘇蒙恬のもとに届けました。

「朕(始皇帝)が天下を巡行して、名山にいる諸々の神々を祀り、長寿を得ようとした。扶蘇蒙恬に数十万の軍を率いらせ、辺境に駐屯させること十数年経ったのに、前進することはできず、数多くの兵士を失った。尺寸の土地を得る功績はないにもかかわらず、かえって、何度も上書して、私の行いを直言して誹謗した。(扶蘇が北地における蒙恬の監督を)罷免されて、咸陽に帰還しても太子になることができないゆえに、日夜、怨望しているからだ。扶蘇は人の子として不孝である。剣を賜うゆえ、自決せよ。将軍の蒙恬は、扶蘇とともに外地にありながら扶蘇の行いを矯正しなかったのは扶蘇の謀計を知っていたからである。これは、人臣として不忠である。死を賜うゆえ、軍は副将の王離の下に配属させるように」

始皇帝崩御したことを知らない扶蘇は、この父が書いたと信じる文書を読んで、泣いて部屋に入り、自決しようとします。蒙恬が偽(にせ)の文書かもしれないので少し待つように進言しましたが聞き入れず、毒を仰いで自決しました。自決を拒んだ蒙恬は捕らえられ、後に自決に追い込まれました。

咸陽に戻った胡亥は、太子として始皇帝の死を発表した上で、二世皇帝に即位しました。

趙高は、宮門を司る郎中令に就任し、暗愚な胡亥を丸め込んで、宮中にこもって酒と女色に溺れる生活で堕落させ、自らが代わって政務を取り仕切って実権を握りました。そして、蒙恬をはじめ、気骨のある忠臣や始皇帝の親族など有力者や敵対者をことごとく冤罪(えんざい)で死罪にしていきました。これにより、始皇帝が在位していた時は豊富であった人材が枯渇し、悪臣ばかり増えていくことになります。

趙高は、自らの権威を高めるため、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課し、法と罰をどんどん厳しくしていきました。

秦の刑罰が苛酷であったことは有名です。秦の農民にとって、強制労働に駆り出されることほど辛いことはありませんでした。国が小さいと、あまり遠くまで行かなくて済みますが、秦のような大帝国になると、はるばる北辺の万里の長城建設に駆り出されたりするようになります。往復のために多くの日数がかかり、労役そのものより、経費がかさむことが人民を苦しめました。しかも、秦の命令は厳しくて、規定された期限内に目的地に着かないと斬罪(首を斬られる)になりました。

 

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陳勝呉広の乱」

中国国家博物館 蔵

 

陳勝呉広は、淮水(わいすい)辺りに住む日雇い百姓でした。北辺の賦役に駆り出され、出かける途中、大雨にあい道が通れなくなり、とうとういくら計算しても期限までに間に合う見込みがなくなってしまいました。期限に遅れれば斬罪で、このまま行っても殺されます。謀反を起こしても殺されます。どうせ殺されると考えた二人は、決意して反乱を起こすことにしました。「壮士(おとこ)が死なないと決まっているなら話は別だが、一度は死ぬものなら大名をあげて死ぬに限る!」と考えた陳勝が仲間に決起をうながす時に言った「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や諸侯、将軍や宰相となるのに、決まった種[家柄]があるだろうか、ありはしないのだ!俺たちだってなれるんだぞ!」という言葉は、カッコいい世界史の名言として、あまりにも有名です。

結局、陳勝呉広も戦死するのですが、中国史上最初の農民反乱の指導者として歴史に名を残すことになります。

厳しい政治に対する不平不満は増大し、天下に満ちた怨嗟は、陳勝呉広の乱をきっかけに、一気に全土へと拡大していきました。

反乱の鎮圧よりも、宮殿内部の権力固めに画策する趙高の諫言で陥れられた李斯は、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に、腰斬(胴斬り・受刑者を腹部で両断し、即死させずに苦しんで死なせる残酷な刑)の刑に処せられました。李斯が刑死した後、丞相に任じられた趙高は、名実ともに秦の最高権力者になりました。胡亥を誅殺することを考え始めた趙高は、後に「馬鹿問答」と呼ばれるもので、誰が自分の言うことを聞くか見極めようとしました。胡亥を宮殿に呼び、鹿を馬だと言って胡亥に献上しました。胡亥が「これは馬ではなく鹿であろう」と言うと、趙高は、馬に見えるか鹿に見えるか、一人ずつ問うてみました。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿だと言いました。趙高は、鹿だと答えた官吏を一人残らず処刑しました。

趙高は反対者を粛清した後、胡亥を誅殺しました。

二世皇帝の死後、趙高は自ら皇帝になろうとしますが従う者はなく、諦めて、皇族で、人望の厚い子嬰(しえい)を三世皇帝として擁立しますが、趙高を憎悪する子嬰は、即位する直前に趙高を殺し、一族も皆殺しにしました。趙高の死により、秦国内の士気は高まりましたが、時既に遅く、反乱軍のリーダーの一人である劉邦(漢の高祖)の率いる軍勢が咸陽に迫っていました。漢の劉邦軍が咸陽に侵攻し、子嬰を守る者が一人も現れない中、子嬰が妻子を引き連れて、首に組紐をかけ(いつでも自殺する用意があることを示す)、皇帝のシンボルである玉璽(ぎょくじ)を捧げて、劉邦に降伏したのは、それから間もなくのことでした。子嬰が帝位にあったのは、わずか3ヶ月に過ぎません。

 

秦による中華統一から15年後、始皇帝崩御から、わずか2年半後に、秦王朝は、中国史上最も短命な王朝の一つとして滅亡しました。

始皇帝に抜擢されて、宮中の車馬係となり、始皇帝の末子胡亥の世話係に過ぎなかった宦官の趙高が裏切りの急先鋒となって権力を簒奪し、あれほど強大で盤石に見えた秦帝国を崩壊させてしまうとは、さすがの始皇帝も夢にも思わなかったことでしょう。趙高は、南宋の秦檜(しんかい)と並んで、中国史上最も悪名高い人物です。

 

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらわす  驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者もついには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」

平家物語」の冒頭として有名なのは、ここまでですが、ここからが大事になります。

「遠く異朝(いちょう)をとぶらへば 秦の趙高 漢の王莽(おうもう)  梁の朱忌 唐の禄山 これらは皆君主先皇の政にも従わず 楽しみを極め 諌めをも思い入れず 天下の乱れんことを悟らずして 民間の愁うるところを知らざりしかば 久しからずして 亡じにし者どもなり」

平家物語」でも、趙高は、国を滅ぼした悪の権化のように語られています。

秦の早過ぎる滅亡の主たる原因は、趙高による乗っ取りだと思います。権力を皇帝一人に集中させた中央集権体制の乗っ取りです。

もう一つ、原因として挙げられるのが、「厳しい法」だと思います。西の外れの後進国だった秦が中華を統一することができたのは、商鞅が行った法家政策で富国強兵に成功し、国力をつけたからです。

でも、もし、労役に駆り出された場所に期限内に着けなくても、事情があれば考慮するという臨機応変な対応をとっていれば、陳勝呉広は反乱を起こさなかったかもしれません。厳し過ぎた法が秦を滅亡に導いたのなら、「秦は法によって興(おこ)り、法によって滅んだ」と言えます

 

始皇帝の晩年は、「不老不死」に憧れたり、長男を北辺の地に追いやったりと、迷走している印象を受けます。

 

塩野七生さんが、著書「ローマ人の物語」で、地中海帝国になった後のローマ帝国の歴史に「勝者の混迷」というサブタイトルを付けられたことに感銘を受けたのを覚えていますが、晩年の始皇帝もまさに、その言葉が当てはまるのではないかと思います。

中華統一を果たすまでが花だったのかもしれません。始皇帝と呼ばれるまでの嬴政から目が離せません。映画「KINGDOM  キングダム Ⅳ   大将軍の帰還」をお盆に観に行くのが楽しみです。

 

「LOVE♡で学ぶ世界史」の「キングダム編」は今回で最終となります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次の、「ディズニー編」も読んでいただけると幸甚です。

キングダム編④

始皇帝が夢見た永遠の世界✨の巻

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兵馬俑」の最大の特徴は、徹底された写実表現です。基本的にほぼ等身大の大きさで、1体ずつ顔が異なるだけでなく、服のしわや髪の櫛目や靴裏の滑り止めといった細部まで丁寧に表してあります。「兵馬俑」は鎧以外にもさまざまな武器・武具を身につけていました。しかも、それらの武器・武具は兵馬俑本体のようなやきものではなく、殺傷能力のある実物でした。「兵馬俑」に見られる写実性は、単なる芸術的指向を超えていたのが分かります。

兵馬俑」に関する文献は残されておらず、「史記」をはじめとする歴史書にも一切記録がないので、何のために作られたのか、その目的は不明ですが、発掘と研究の進展により、少しずつ解明されつつあります。

 

兵馬俑」は、始皇帝の墳丘から東へ約1.5km離れた「兵馬俑坑」で出土したものです。「陵園」と呼ばれる墳丘の周辺一帯には、「兵馬俑坑」をはじめ、「馬厩(ばきゅう)坑」「動物陪葬坑」など、大小および性格の異なる「陪葬(ばいそう)坑」が200基近く配置されています。

これは、生前暮らした咸陽(かんよう)の宮殿を中心に、その周囲にあった様々な施設を丸ごと再現したものと考えられ、「兵馬俑」は、咸陽に駐屯した近衛軍団を陣形ごとそのまま写したものであると考えられています。

始皇帝は「この世」で皇帝に即位して築き上げた咸陽宮における生活をそのまま再現し、「あの世」でも、その生活が永続し、皇帝として永遠に君臨し続けたいと願ったのかもしれません。

 

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「水鳥」

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

「水禽(すいきん)坑」からは、白鳥やガン、ガチョウや鶴など四十数羽の青銅製の鳥が出土しています。

長さ1メートル近い白鳥をそのまま鋳造するという高い技術を持っていたことが分かっています。

興味深いのは、これらの鳥には色が塗られていたと考えられることです。白鳥は白で、ガンは黒、それぞれの青銅の表面に骨粉と墨を塗布した痕跡が確認されています。さらに表面には羽毛の線刻が施されていました。体の部分によって羽毛の表現を変えるという芸の細かさには驚くばかりです。

 

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始皇帝の先導車

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始皇帝の御用車

 

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

「陵園」で発見された出土品の中で、「兵馬俑」についで注目を集めてきたのが、「銅車馬」です。「銅車馬」とは、4頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型のことで、材質は青銅で、表面には彩色と文様が施されていました。

1980年、始皇帝陵の西側に接して築かれた「銅車馬坑」が発掘されました。御者の像をともなう2両の銅車馬が東西一列に並べ置かれ、西を向いていました。始皇帝陵の東側で発掘された1〜3号坑の兵馬俑のほとんどが、敵国(「戦国の七雄」の6カ国)に対峙するべく東を向いているのと好対照をなしています。

形状と出土位置から、生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられています。

「銅車馬坑」の馬車列に御者は表現されていますが、主人の姿は表されていません。始皇帝の霊魂を乗せて、西方の神秘の世界へと旅立とうとしているのかもしれません。

 

始皇帝は巨大な陵墓とともに、「兵馬俑」や「銅車馬」といった生前のコピーを作って地下に副葬させました。死後もなお永遠に皇帝として存在し続けたいという願望を「事実」としと可視化させるためだと考えられます。もちろん、当人が姿を見せることはできません。それでも、側近たちに始皇帝の生前と同じように給仕させることで、始皇帝が存在するも同然の光景を作り出すことに成功しました。この「事実」を永続させるための装置が始皇帝陵園には備わっていました。

始皇帝陵墳丘の西側内壁と外壁の間に、大型の建築遺構があります。ここから「驪山食官」などと刻まれた土器片が集中的に出土しました。驪山は始皇帝の陵園であり、食官は皇帝の霊に毎日食事を供える係のことを指します。始皇帝の霊前に食事やそのほか必要なものを備える大型建築「寝殿」の遺構も、墳丘の北側西寄りで発掘されました。ここで毎日祭祀(さいし)を執り行わせることで、生前の宮殿での暮らしと変わらない風景が繰り返されました。

前206年、秦は始皇帝の死後わずか3年で滅亡しました。陵園で執り行われた祭祀は途絶え、陵園の地上に築かれた巨大な建築群は廃墟となり、始皇帝が存在するはずの「事実」も幻となりました。それでも、宮殿だけではなく、自然のすべて、宇宙までを地下に作ろうとした、始皇帝の可視化された夢は現存し、地下30メートルに大きな空間があることが、最近の調査で確認できています。そこにあるであろう「陵墓」はまだ発掘されていませんが、「史記」に、地下には水銀の川が流れ、「陵墓」の天井は宝石で描かれた星がまたたく天体になっていると記されています。その下に、玉衣を身につけた始皇帝が静かに眠っているかもしれません。

「陵墓」が発掘されないのは、「兵馬俑」を発掘した時の苦い経験から、保存する技術がないうちに陵墓を開けてはいけないということを学んだからです。発掘当初は鮮やかな極彩色だった「兵馬俑」が外気に触れることで酸化して色が失われてしまった結果、現在私たちが目にする土色になってしまいました。

文化大革命さなかの1974年、この報告を聞いた周恩来首相は「現在の我々が掘り出しても貴重な宝物を損なうばかりだ。科学技術が進んでそのまま取り出せるようになる後世に委ねよう」という命令のもと、始皇帝の陵墓を封印しました。

願わくば、私たちが生きているうちに、陵墓の中を見ることができますように。

2200年の時空を超えて、始皇帝が夢見た永遠の世界に眠る嬴政に会いたいです。

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次は、「早過ぎた秦の滅亡」

 

 

 

 

キングダム編③

始皇帝の実像に迫る!の巻✨

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「KINGDOM キングダム 大将軍の帰還

Visual  Bookビジュアルブック」より引用

 

嬴政が誕生したのは、前259年、秦から遠く離れた趙の都・邯鄲(かんたん)でした。「戦国の七雄」と呼ばれた七つの国を中心に戦争が繰り返されたこの時代、各国は安全保障のため、王族を人質として他国に送り込みました。人質となった者は、国と国との関係が友好から敵対に変われば、明日をも知れぬ境遇でした。

嬴政も秦の昭襄(しょうじょう)王が人質として趙に送った孫・嬴子楚(しそ)(前281〜前247)の子として生まれました。折しも、趙は秦と長年の戦争状態にあり、秦に対する反感は当時最高潮に達していました。嬴政が趙でどれほど心細い幼年期を過ごしたか、辛酸を舐めたかは映画「KINGDOM Ⅲ」でも描かれており、容易に想像することができます。

けれど、人質の王族は、祖国の動向次第で王位を継承する可能性をあわせ持つ存在でもあります。このわずかな可能性に賭けて、人質を政治的に利用しようとする者も現れます。当代随一の富豪であった呂不韋(りょふい)は、邯鄲で出会った子楚に高い素質を見出し、自らの愛妾・趙姫を嫁がせるとともに、秦王室に取り入って、子楚を孝文王(在位前251〜前250)の跡継ぎとすることに成功します。この趙姫が子楚との間に設けた子こそ、嬴政でした、が、司馬遷が著した前漢時代の歴史書である「史記呂不韋列伝によれば、趙姫は子楚と結婚する前に既に懐妊しており、そうであれば、嬴政の実父は呂不韋ということになります。

孝文王が即位後まもなく急死すると、子楚は王位を継いで荘襄(そうじょう)王(在位前250〜前247)となり、呂不韋重臣に取り立てられます。太子に立てられたのは、数奇な運命によって趙から秦本国に戻った嬴政でした。この辺りのことも映画「KINGDOM Ⅲ」に詳しく描かれています。荘襄王もまたあえなく急死したため、前247年に、嬴政が数え年13歳で秦王に即位することになりました。

即位後は、重臣呂不韋の補佐を受けましたが、前237年、宦官(かんがん 後宮に仕える去勢された男子)を装い、嬴政の実母である趙姫(母太后)と密かに通じ、子を設けていた、ろうあい(?〜前238)の反乱に加担した疑いで呂不韋を処罰すると、自立して親政を開始します。

ただ、実母がこの反乱に加担して自分を裏切ったことに対する嬴政のショックは計り知れないものがありました。

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始皇帝

「NEW  STAGE  世界史詳覧」

   浜島書店      より引用

親政開始後、嬴政は、中華統一に向けて、他国への侵攻を本格化させました。

前230年に韓を滅ぼしました。その3年後、燕の太子丹(たん)の命を受けた刺客・荊軻(けいか)による嬴政の暗殺未遂事件が起こります。

丹から刺客の依頼を受けた荊軻は、用心深い嬴政に謁見するための策として、燕で最も肥沃な土地を差し出すことと、嬴政の逆鱗に触れ、燕に亡命して来ていた、元秦の将軍の首を差し出すことを提案し、聞き入れられます。秦に差し出す土地の地図と、秦の元将軍の首と、暗殺に使う鋭い匕首(あいくち)を丹から与えられ、出発の日を迎えます。丹をはじめ、事情を知る見送りの者は全て喪服とされる白装束をまとい、易水(えきすい、黄河の北を流れる川)まで荊軻たちを見送りました。この時に、荊軻が生還を期さない覚悟を詠んだ

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し

   壮士ひとたび去って復た還らず」

という詩句は、「史記」の中で最も有名な場面の一つとされます。

領地割譲の証である地図と元将軍の首に嬴政は大いに喜び、九賓の礼をもって荊軻たちに接見しました。荊軻は地図を持って嬴政に献上し、嬴政は地図を開き始めました。地図が開き終わる所に匕首が巻き込んでありました。荊軻匕首をつかみ、嬴政の袖を取って刺そうとしましたが、間一髪のところで袖がちぎれ、嬴政は逃げることができました。嬴政は慌てて腰の剣を抜こうとしますが、剣が長過ぎて鞘に引っかかり抜くことができません。群臣と衛兵たちも慌てましたが、臣下が殿上に武器を持って上がることは法律により禁じられており、皆、帯刀しておらず、どうすることもできませんでした。

荊軻匕首を持って嬴政を追い回し、嬴政は必死で柱の周りを逃げ回りながら剣を抜こうとしますが、あせればあせるほど剣は抜けなくなりました。侍医が薬箱を荊軻に投げつけ、粉薬が目に入って荊軻がひるんだ隙に、左右から「王よ、剣を背負われよ」と声が飛びました。背中へ回した剣を背負うような形で、やっと剣を抜き嬴政が荊軻を斬り殺し、暗殺は失敗に終わりました。

この事件の後、前225年に魏を滅ぼし、続いて、前222年、燕、趙、楚を滅ぼし、最後に、

前221年、斉を滅ぼして、史上初めて中華を統一しました。

中華統一を果たした後、始皇帝となった嬴政は、全国を5度も巡行して、その威光を誇示しましたが、2度目の巡行の途中、再び暗殺未遂にあいました。絶対権力者でありながら、間一髪のところで暗殺を免れる危機に2度もあい、命の危険にさらされ、死の恐怖に直面した経験がそうさせたのかもしれません。始皇帝は晩年になって、不老不死に憧れ、徐福などの方士(ほうし)の虚言に惑わされ、仙人が持つといわれる不老不死の仙薬を探し求めるようになります。

内陸生まれで海を見たことがなかった始皇帝は、最初の巡行で生まれて初めて見た海に衝撃を受けたといわれています。「海の彼方の蓬莱(ほうらい)島にある蓬莱山に仙人が住んでおり、その仙人が持つ仙薬を飲めば不老不死になれます」と言う徐福の話を信じたのは、山東半島の海岸地帯で冬や春になると、海の沖合に、あるはずのない山や村が現れる蜃気楼を見たからだといわれています。

蓬莱島への航海のために、始皇帝から沢山の資金や人夫や船を何度もせしめた徐福は「蓬莱島は確かにあります。ですが、大きな魚が邪魔をして近づくことができません」と報告します。そして弓の名手を与えられると、徐福は航海に出たっきり戻っては来ませんでした。戻って来ない徐福を待ち続けた始皇帝は遂に自ら大魚を退治するため、船で海に乗り出し、一匹の大魚を仕留めたと「史記」に記してあります。ところが、その航海の無理がたたり、病に倒れた始皇帝は、遂に還らぬ人となります。

前210年、5度目の巡行の途中で、数え年50歳で崩御しました。不老不死の仙薬を求めたことが死を早めることになったのは皮肉なことです。

 

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焚書・坑儒」

「NEW  STAGE  世界史詳覧」

  浜島書店     より引用

 

始皇帝の悪政のうちで最も有名なのが、思想統制策として行った「焚書・坑儒」です。「焚書」とは、  前213年、秦国以外の史書や医薬・占い・農業書以外の書物を提出させ、焼き払った事件です。「坑儒」は、前212年、始皇帝の政治に批判的な儒学者460人を穴埋めにしてしまった事件だといわれているのですが、不老不死の仙薬を手に入れるために始皇帝から資金や船や人夫を与えられたまま、行方をくらました徐福などの方士に騙されたことに気づいた始皇帝により、咸陽(秦の都)に残っていた方士たちは次々と捕らえられ、有無を言わさずに生き埋めにされました。その数は460人を超えたといいます。この時、方士だけではなく、儒学者も含めた学者が含まれていたというのが「坑儒」の真相で、儒学者を狙い撃ちにしたものではなかったことが分かっています。これを「坑儒」と呼んで、主な対象を方士から儒学者に変えてしまったのは、後の世の儒学者たちでした。

史記」には、始皇帝は「性格は剛毅で自信満々、虎狼のごとき心の持ち主であった」と記してあります。

始皇帝といえば、「焚書・坑儒」を行った非情な独裁者というイメージが付きまとい、暴君の誹りは免れないと思ってきましたが、儒学者を弾圧した始皇帝司馬遷の「史記」に好意的に書かれるはずもなく、故意に評価を下げられてしまった可能性も無きにしも非ずです。

始皇帝の波乱に満ちた生涯は「史記」に詳しく見ることができますが、その一方で、記載のないことも多く、皇后の名前さえ分かっていません。

始皇帝が不老不死に取り憑かれ、仙薬を求めて悪あがきと言えるような愚かな行動に走った時、皇后をはじめとする家族は何を思ったのでしょうか?人質の子として他国に生まれ、自分自身も人質として孤独で薄幸な幼年時代を送った始皇帝は、王となり成人してからも実母に裏切られるという決定的な悲劇を体験しました。肉親の情に触れることは生涯なかったかもしれません。

史上初めて中華を統一した名君と「焚書・坑儒」を行った暴君という両極端な評価の間(はざま)で揺れる始皇帝像ですが、そのどちらでもない 滑稽で哀れな孤独を感じます。この世で望む全てのものを手に入れた始皇帝が最後に望んだものが不老不死でした。孤独な始皇帝が永遠の命を手に入れることができたとしたら、権力以外の何を望み、生きたのでしょうか?

 

次は「始皇帝が夢見た永遠の世界」

キングダム編②

秦の強さの秘訣✨の巻

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始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用した「騎兵俑」と呼ばれる騎乗用の装備を着用した直立の兵士の俑です。馬とともに置かれており、衣の上から腰丈の鎧を身につけ、鎧は肩周りの動きを妨げない作りで、騎乗の妨げにならないよう、衣は前ではだけるようになっています。これらの工夫は、始皇帝陵の兵馬俑においては、馬とともにある「騎兵俑」にのみ認められる特徴です。

 

秦の強さの秘訣として、最初に挙げたいのが、「騎馬戦術」です。春秋・戦国時代、馬はもっぱら戦車を牽くために用いられていましたが、秦は直接騎乗する騎兵の隊を編成することで、より高い機動力を発揮することができました。

 

西戎」の攻撃を受け、王を殺され、洛陽への遷都を余儀なくされた周王朝が放棄した周原を含む関中盆地に進出した秦でしたが、当初の関中盆地には 「西戎」の諸勢力がなお残っており、秦の行く手を阻んでいました。秦は自力でこの障害を取り除かなければ、周王朝から託された関中盆地を実効支配することはできなかったのです。

秦の文公(在位前766〜前716)は、秦の都をようやく関中盆地へ遷すことに成功しましたが、その後も「 西戎」のなかに敵対する勢力が現れ、秦をたびたび悩ませることになりました。春秋時代における秦の歴史は、関中盆地における「 西戎」との闘いの歴史と言っても過言ではありません。この争いに一定の決着がつき、秦が関中盆地を安定的に支配できるようになったのは、穆公(ぼくこう)(在位前660〜前621)の時代になってからでした。戦国時代になってからも、秦と「 西戎」との密接な関係は続きました。西方だけではなく、秦の北方にも、文字を用いず、牧畜や遊牧を生業とする「匈奴(きょうど)」と呼ばれている人々が暮らしていました。

 

※この匈奴については、次の「ディズニー編」の「ムーランの巻」で取り上げたいと思います。

 

西方や北方に住むこれらの遊牧民は、馬に乗って戦う異民族であり、秦はこれら異民族との戦いを通じて騎馬戦術を取り入れていきました。

筒袖の上着を革帯で留め、ズボンを履く騎兵の服装は「胡服」と呼ばれ、従来の中国で定着していた、袖と裾(すそ)の長く垂れた服装よりも、はるかに乗馬に適したものでした。秦は匈奴から騎兵の知識や良質な馬を取り込み、自軍の強化に努めました。嬴政が王になった頃には、騎兵が秦軍のなかで部隊を組めるほど定着していたことが、出土した兵馬俑によって知られています。

映画「キングダム」で、山崎賢人さん演じる主人公で戦災孤児として育った信も手綱捌きも鮮やかに騎乗で奮戦していました。

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「KINGDOM キングダム 大将軍の帰還

Visual  Bookビジュアルブック」より引用

 

「騎馬戦術」だけではなく、異民族と接する最前線に身を置くことによって、常にある戦いや緊張感の中で技が磨かれ、戦力が高まっていったのだと考えられます。

 

兵馬俑」の兵士たちの髪型、衣服のどれ一つとして同じものはないことからも、始皇帝の軍団が様々な民族の混成部隊であったことがうかがえます。

 

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「跪射俑」

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

秦の強さの秘訣の2つ目は「弩弓(どきゅう)」です。

 

推定復元図で「騎兵俑」が手に持っているのが「弩弓」です。

弓兵の推定復元図でも「弩弓」が描かれています。 体の右側で弩弓を抱え、右手で引き金を引く体勢をとっています。片膝を立てて、上半身をやや斜めに開いた射手の顔の表情から、攻撃命令を待つ緊張感が伝わってきます。この俑のように鎧をまとった重装備の弓兵は陣地に留まり、遠くから矢を射かけて自軍を援護したり、迫ってくる敵に一斉射撃を浴びせて勢いをそぐ役割を担ったものと考えられています。

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「弩弓(どきゅう)」

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

弩弓とは、木でできた台の先端に弓を横倒しに装着する武器です。後方の青銅でできた「弩機」の突起(牙)(が)に弦をかけ、台の上に矢をつがえて引金(懸刀)(けんとう)を引くと矢が発射されます。弩弓の強力な板ばね仕掛けで射出することにより、弾丸のような破壊力を発揮しました。戦国時代後期から秦漢時代にかけて重要な武器になったと考えられています。

 

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「KINGDOM キングダム 大将軍の帰還

Visual  Bookビジュアルブック」

集英社

 

「騎馬戦術」より「弩弓」より、秦が中華統一を果たすことができた最大の要因は、やっぱり商鞅の「法家思想」に基づく改革にあると思います。

法家思想は「信賞必罰」(功績があれば必ず賞を与え、罪があれば必ず罰すること、賞罰のけじめを厳正にすること)という言葉が表すように、法を厳格に運用して、人々を統制しようとする考え方です。旧来の貴族層の特権を廃し、君主が官僚を使って民衆を直接支配する中央集権政治の体制を作り、それによって富国強兵を進めようとするものです。軍功に照らして爵位を与え、爵位に従って田地を与えることが富国強兵につながっていきます。

「信賞必罰」を徹底して、民であっても、軍功を上げれば出世できる。その一方で、貴族であっても、功績がなければ地位を剥奪される、その結果、君主のみが強大な権力を持つ存在となります。

映画「キングダム」で、山崎賢人さん演じる主人公の信と吉沢亮さん演じる、信と同じ戦災孤児の少年漂(ひょう)が「天下の大将軍になって奴隷の生活から抜け出てみせる」と誓い合って、日々剣術の鍛錬に励むのは、この実力主義の風潮があってこその話になります。旧来の氏族制社会が根強く残る秦以外の他の6カ国ではあり得ない話だと思います。

信が誰よりも高く翔ぶことができるのは、幼なじみの漂と切磋琢磨した日々が終わり、一人になってから、より負荷をかけたハードな練習を重ね、追い込んでいった鍛錬の賜物であると同時に、夢が夢で終わらない「下剋上」の風潮もバネになっていると思います。

「努力すれば夢に手が届く」ということを教えてくれる、気持ちがいいくらいシンプルで熱い物語です。信の決めゼリフのようになっている「夢があるから生きていける」に共感しました。

いくつになっても、そう言える自分でありたいと思います。

「社会の底辺にいる人間でも、実力次第で立身出世も夢ではない」

そんな夢と希望を民に与えたことが、最大の秦の強さの秘訣だと思います。

 

次は、「始皇帝の実像に迫る」

 

キングダム編①

 

中華統一✨の巻

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九州国立博物館に「始皇帝と大兵馬俑」特別展

を観に行った、2016年3月28日が、

私が「キングダム」と出会った日です。

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「キングダム」の登場人物である秦王嬴政(えいせい)が戦国の乱世を勝ち抜いて天下統一を果たし、生前から着手した自身の陵墓を守護するために作らせた地底軍団が「兵馬俑」です。

「俑」とは、古代中国で殉死者の代わりに埋葬した陶製の人形(ひとがた)のことです。嬴政(始皇帝)の陵墓の近くに埋められた兵馬の数は8000体といわれ、顔の造形、髪型、衣服のどれ一つとして同じ形のものはなく、実在の将兵をモデルにしたと考えられています。

「20 世紀最大の考古学的発見」といわれる「兵馬俑」は70万人もの囚人を動員し、36年もの歳月をかけて完成しました。これほどの偉業を実現可能にした嬴政(始皇帝)による史上初の中華統一を見ていきたいと思います。

 

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始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

周の孝王(在位前891〜前886)に仕えた非子(ひし)が、馬の牧畜に功績を上げ、嬴(えい)姓と土地を賜りました。これが秦の始まりとされます。

 

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始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録

 

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秦が発展する最大の転機となったのが、前770年に起きた周王朝の東遷です。周はもともと陝西(せんせい)省中部の関中(かんちゅう)盆地にある周原(しゅうげん)に本拠地を置いてきました。

しかし、その本拠地は、周に従わない「西戎(せいじゅう)」「犬戎(けんじゅう)」などと呼ばれた諸勢力の攻撃を受け、ついに周の幽王(在位前781〜前771)は殺害されてしまいます。幽王を継いだ平王(在位前770〜前720)は、先祖代々本拠を構えてきた関中盆地から東方の洛陽に都を遷しました。(周の東遷)

これを境に、これ以前の西周時代とこれ以降の東周時代に分けられます。東周時代は春秋・戦国時代とも呼ばれます。

周を攻撃し王を殺害した 「西戎」「犬戎」などと呼ばれた諸勢力とは、中国西北部で牧畜を主な生業とし、青銅器や玉器による中国の伝統的な祭祀儀礼や漢字を受容しなかった、中国側から見て「野蛮」な集団で、図録より引用した上の図には一括して「西戎」と記してあります。

 

秦の襄公(じょうこう)(在位前778〜前766)は周の平王を警護し、周王朝の洛陽への東遷を成功させました。その功績により、諸侯に封ぜられた秦は関中を「西戎」から奪い、みずからの領地としました。西方の山間部で農耕と牧畜を営む小さな勢力に過ぎなかった秦ですが、周の故地を受け継いだことは 経済の面だけではなく、文化・政治の面でも重要な意味を持つことになります。周の高度な青銅器や玉器などを模倣して自国の祭祀儀礼の中に取り込むことは、西周からこの地を受け継ぐ正統性を示す格好のアピールとなったからです。

 

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東周時代前半の春秋時代に関中盆地で地歩を固めた秦が飛躍するのは東周時代後半の戦国時代になってからです。

春秋時代の諸侯で、覇を競い、会盟の盟主となった者を「覇者」といいます。諸説ありますが、覇者の中で斉の桓公、晋の文公、楚の荘王に、「臥薪嘗胆」で知られる呉王闔閭(こうりょ)と越王勾践(こうせん)の5人を「春秋の五覇」といいます。

「春秋の五覇」の一人であった晋の文公の死後、有力となった家臣たちがクーデターを起こし、韓・魏・趙の三氏で晋を分割しました。

周王がこの三氏を諸侯として認めた年である前403年が「戦国時代」が始まった年とされます。

春秋時代」には、洛陽に東遷した周は衰えたとはいえ、各地の諸侯は形の上だけでも周王を立てて、自ら王を名乗ることはありませんでした。ところが、戦国時代になると、「戦国の七雄」と呼ばれた諸侯たちがもはや周王を立てることはなく、我こそが王であると称して富国強兵に努め、領土の拡大を競い合う、「下剋上」「弱肉強食」の世となります。「戦国の七雄」の覚え方としては、「斉・楚・燕・韓・魏・趙・秦(せい・そ・えん・かん・ぎ・ちょう・しん)」とリズミカルに覚えるのをおススメします。

 

戦国時代に秦が飛躍するきっかけとなったのが、孝公(在位前362〜前338)に丞相(じょうしょう)として仕えた商鞅(しょうおう)が行った「法家政策」と呼ばれる、厳しい法治主義にもとづく一連の改革です。

 

商鞅は自分の改革には自信を持っていました。けれども、改革が成功するためには、発布する法令が確実に実行されなければいけません。そこで、商鞅は市場の南門に長さ約7メートルの木を立てておき、これを北門に移した者には賞金として10金(黄金3.5Kg)を与えるというお触れを出しました。民衆はあまりにも高額な賞金に不審を抱いて、誰ひとりとして木を移動させようとはしませんでした。商鞅は50金に値上げしました。半信半疑で一人の男が木を移動させると、商鞅は即座に賞金を与えて、お触れが嘘ではなかったことを民衆に示しました。それ以降、秦の国でお触れが出ると民衆は直ちに守るようになったのは言うまでもありません。

この出来事から生まれたのが「移木(いぼく)の信」という言葉です。「約束を固く実行する」と言う意味で使われます。

 

商鞅の法家政策で、秦は短期間で国力の増強に成功し、隣接する強国・魏の軍を打ち破りました。

 

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孝公のあとを継いだ恵文王は秦公という称号をやめて、初めて「王」を称しました。続く昭襄(しょうじょう)王(在位前307~前251)は、韓・魏・趙・楚などに侵攻して領土を奪い、天下のほぼ西半分を手中に収めました。

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そして、嬴政(えいせい)が王位につくと、前230年、韓をはじめ他国を破竹の勢いで攻め滅ぼし、前221年に斉を滅ぼして天下を統一しました。

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歴代の王をしのぐ、これほどの偉業を成し遂げた嬴政は、中国古代神話で理想的な帝王とされる「三皇五帝」伝説の 三皇「伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・女媧(じょか) 」や五帝「黄帝(精力絶倫で有名)・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(ていこく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)」を超越したと自らを讃えました。天下をことごとく平定した自身の功績は三皇や五帝といった「天子」たちも及ぶところではないということで、両者の一文字ずつを足して、「皇帝」という王に替わる新たな称号を作りました。始皇帝にとって、「皇帝」は、「天子(天の神に代わって天下をおさめる)」を超えた概念であったのが分かります。みずから中国で初代の皇帝「始皇帝」となりました。

 

西のはずれの後進国であった秦が中華統一を果たすことができたのは、商鞅による法家政策で国力をつけたからでした。

 

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