キングダム編④

始皇帝が夢見た永遠の世界✨の巻

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兵馬俑」の最大の特徴は、徹底された写実表現です。基本的にほぼ等身大の大きさで、1体ずつ顔が異なるだけでなく、服のしわや髪の櫛目や靴裏の滑り止めといった細部まで丁寧に表してあります。「兵馬俑」は鎧以外にもさまざまな武器・武具を身につけていました。しかも、それらの武器・武具は兵馬俑本体のようなやきものではなく、殺傷能力のある実物でした。「兵馬俑」に見られる写実性は、単なる芸術的指向を超えていたのが分かります。

兵馬俑」に関する文献は残されておらず、「史記」をはじめとする歴史書にも一切記録がないので、何のために作られたのか、その目的は不明ですが、発掘と研究の進展により、少しずつ解明されつつあります。

 

兵馬俑」は、始皇帝の墳丘から東へ約1.5km離れた「兵馬俑坑」で出土したものです。「陵園」と呼ばれる墳丘の周辺一帯には、「兵馬俑坑」をはじめ、「馬厩(ばきゅう)坑」「動物陪葬坑」など、大小および性格の異なる「陪葬(ばいそう)坑」が200基近く配置されています。

これは、生前暮らした咸陽(かんよう)の宮殿を中心に、その周囲にあった様々な施設を丸ごと再現したものと考えられ、「兵馬俑」は、咸陽に駐屯した近衛軍団を陣形ごとそのまま写したものであると考えられています。

始皇帝は「この世」で皇帝に即位して築き上げた咸陽宮における生活をそのまま再現し、「あの世」でも、その生活が永続し、皇帝として永遠に君臨し続けたいと願ったのかもしれません。

 

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「水鳥」

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

「水禽(すいきん)坑」からは、白鳥やガン、ガチョウや鶴など四十数羽の青銅製の鳥が出土しています。

長さ1メートル近い白鳥をそのまま鋳造するという高い技術を持っていたことが分かっています。

興味深いのは、これらの鳥には色が塗られていたと考えられることです。白鳥は白で、ガンは黒、それぞれの青銅の表面に骨粉と墨を塗布した痕跡が確認されています。さらに表面には羽毛の線刻が施されていました。体の部分によって羽毛の表現を変えるという芸の細かさには驚くばかりです。

 

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始皇帝の先導車

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始皇帝の御用車

 

始皇帝と大兵馬俑」特別展 図録より引用

 

「陵園」で発見された出土品の中で、「兵馬俑」についで注目を集めてきたのが、「銅車馬」です。「銅車馬」とは、4頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型のことで、材質は青銅で、表面には彩色と文様が施されていました。

1980年、始皇帝陵の西側に接して築かれた「銅車馬坑」が発掘されました。御者の像をともなう2両の銅車馬が東西一列に並べ置かれ、西を向いていました。始皇帝陵の東側で発掘された1〜3号坑の兵馬俑のほとんどが、敵国(「戦国の七雄」の6カ国)に対峙するべく東を向いているのと好対照をなしています。

形状と出土位置から、生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられています。

「銅車馬坑」の馬車列に御者は表現されていますが、主人の姿は表されていません。始皇帝の霊魂を乗せて、西方の神秘の世界へと旅立とうとしているのかもしれません。

 

始皇帝は巨大な陵墓とともに、「兵馬俑」や「銅車馬」といった生前のコピーを作って地下に副葬させました。死後もなお永遠に皇帝として存在し続けたいという願望を「事実」としと可視化させるためだと考えられます。もちろん、当人が姿を見せることはできません。それでも、側近たちに始皇帝の生前と同じように給仕させることで、始皇帝が存在するも同然の光景を作り出すことに成功しました。この「事実」を永続させるための装置が始皇帝陵園には備わっていました。

始皇帝陵墳丘の西側内壁と外壁の間に、大型の建築遺構があります。ここから「驪山食官」などと刻まれた土器片が集中的に出土しました。驪山は始皇帝の陵園であり、食官は皇帝の霊に毎日食事を供える係のことを指します。始皇帝の霊前に食事やそのほか必要なものを備える大型建築「寝殿」の遺構も、墳丘の北側西寄りで発掘されました。ここで毎日祭祀(さいし)を執り行わせることで、生前の宮殿での暮らしと変わらない風景が繰り返されました。

前206年、秦は始皇帝の死後わずか3年で滅亡しました。陵園で執り行われた祭祀は途絶え、陵園の地上に築かれた巨大な建築群は廃墟となり、始皇帝が存在するはずの「事実」も幻となりました。それでも、宮殿だけではなく、自然のすべて、宇宙までを地下に作ろうとした、始皇帝の可視化された夢は現存し、地下30メートルに大きな空間があることが、最近の調査で確認できています。そこにあるであろう「陵墓」はまだ発掘されていませんが、「史記」に、地下には水銀の川が流れ、「陵墓」の天井は宝石で描かれた星がまたたく天体になっていると記されています。その下に、玉衣を身につけた始皇帝が静かに眠っているかもしれません。

「陵墓」が発掘されないのは、「兵馬俑」を発掘した時の苦い経験から、保存する技術がないうちに陵墓を開けてはいけないということを学んだからです。発掘当初は鮮やかな極彩色だった「兵馬俑」が外気に触れることで酸化して色が失われてしまった結果、現在私たちが目にする土色になってしまいました。

文化大革命さなかの1974年、この報告を聞いた周恩来首相は「現在の我々が掘り出しても貴重な宝物を損なうばかりだ。科学技術が進んでそのまま取り出せるようになる後世に委ねよう」という命令のもと、始皇帝の陵墓を封印しました。

願わくば、私たちが生きているうちに、陵墓の中を見ることができますように。

2200年の時空を超えて、始皇帝が夢見た永遠の世界に眠る嬴政に会いたいです。

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次は、「早過ぎた秦の滅亡」