宝塚歌劇編①

エルアルコンー鷹ーの巻✨

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宝塚歌劇星組梅田芸術劇場公演「エルアルコンー鷹ー」パンフレットより引用

 

16世紀後半のヨーロッパ。海上では、強大な勢力を誇るスペインに対して、イギリス、フランスが覇権を争う熾烈な戦いを繰り広げていました。

イギリス海軍将校のティリアン・パーシモンは、スペイン貴族出身の母を持つ関係から、スペインに強い憧れを抱き、内心では自らをスペイン人と任じていました。母の従弟であるイギリス海軍士官ジェラードに大きな影響を受け、幼い頃から海への憧れを募らせていました。「君は野心のままに生きてごらん。君にはそれができるはずだ」         ジェラードの言葉を胸に、数々の武功を立てて異例の出世を続け、イギリス海軍での名声を高めていきますが、その一方で、イギリスと敵対関係にあるスペインと通じ、いつの日かスペインの無敵艦隊を率いて世界の七つの海を制覇するという大きな野望を持つようになります。

その野望を実現させるために標的としたのが、イギリス南部の港町プリマスの大商人グレゴリー・ベネディクトでした。スペインの支配から独立を目指すネーデルランドを援助する彼は、スペインにとっては憎むべき存在でした。

グレゴリーの息子ルミナス・レッドは、法律家を志しオックスフォード大学で法科を学ぶ学生でしたが、ティリアンの謀略により、父グレゴリーが反逆罪の濡れ衣を着せられて処刑され、その後母親も失います。その後、大学を去り、学生時代の仲間と共に海賊団を結成しました。

ティリアンと再会したレッドは、両親の復讐のために激しく争うことになります。

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「エルアルコンー鷹ー」

著者 青池保子

発行所 秋田書店

 

「エルアルコン鷹」は、青池保子さんの「七つの海七つの空」「エルアルコン鷹」「テンペスト」の三作品から成るシリーズの総称です。

宝塚歌劇「エルアルコン鷹」では、三作品が一つの流れに組み込まれています。

 

「七つの海七つの空」の主人公は、ルミナス・レッドですが、それに続く「エルアルコン鷹」「テンペスト」では、ティリアンが主人公になります。

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1978年月刊セブンティーン(集英社)7月号

テンペスト」見開き

 

漫画家生活60周年記念

青池保子画集 CONTRAIL 航跡のかがやき    より引用

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テンペスト」で、敵役のヒロインとして登場するフランスの海賊団の女首領ギルダ・ラヴァンヌはフランス貴族の称号を持つ誇り高き女海賊。

彼女が拠点とする島の領有をめぐり、スペインに父を暗殺された恨みから、スペイン船のみを襲撃するようになります。自分の海域を脅かすティリアンの船に巧みな攻撃を仕掛けるギルダとティリアンは、互いに敵ながら見事な腕を持つ相手に惹かれ、再び海で逢う日を心待ちにするのでした。

激しい攻防戦の末、ついにギルダを捕らえたティリアンは、いよいよスペインへの亡命を決行します。一方、彼が亡命する前に決着をつけなければと焦るレッド。彼らの愛と憎しみが交錯する中、ティリアンは翼を翻し大空を翔る鷹のように、七つの海、七つの空を目指して、己の野心のまま突き進んでいきます。

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宝塚歌劇星組梅田芸術劇場公演「エルアルコンー鷹ー」パンフレットより引用

 

テンペスト」では、スペインへ亡命し、理想の戦列艦「エル・アルコン」を建造したティリアンとレッドとの最終決戦が、史実のアルマダ海戦にて展開されます。

 

「16世紀はスペインの時代」と讃えられるほど繁栄したスペインですが、カリブ海南米大陸から金銀を運ぶスペイン船を襲っては略奪を繰り返すイングランドの海賊ドレイクに手を焼いていました。スペイン国王フェリペ2世は度々イングランドに抗議していましたが、それに対して、イングランド女王のエリザベス1世は、表面上は「遺憾に存じます」と丁重に謝罪する書簡を返しながら、のらりくらりとかわしていました。

1577年、ドレークは、エリザベス1世などから出資を受けて、約300トンのガレオン船(帆船)ゴールデン・ハインド号を旗艦とする5隻の艦隊でプリマスを出航しました。そして財宝を満載したスペインのカカフエゴ号などを襲った後、南米のホーン岬を回って太平洋に出て、イングランド人として初めて世界を一周し、生き残ったゴールデン・ハインド号のみが1580年、プリマスに帰港、生還しました。この航海の出資者への配当率は、奪った金銀財宝などにより4700%にも達し、女王は国家歳入の1.5倍に当たる30万ポンドを受け取ったと言われています。そして、ドレークは叙勲され貴族となりました。エリザベス1世がドレークに私掠(しりゃく)免許(他国船拿捕〔だほ〕免許状)を与えたことにより、スペインとの関係悪化は決定的となります。

 

もう一つ、フェリペ2世の堪忍袋の緒を切る事態となったのが、スペイン領ネーデルランド独立運動イングランドが支援したことでした。

1571年、ユトレヒト同盟で結ばれたネーデルランドの北部7州が、オラニエ公ウィレムに率いられて、正式にスペインからの独立を表明し、ネーデルランド独立戦争が始まりました。アラス同盟で結ばれた南部10州はスペインに留まることになり、以後、北部をネーデルランド、南部をベルギーと呼ぶことになりました。

エリザベス1世はネーデルランドを、初めは密かに、やがて公然と支援するようになります。

スペインを欺き続けたイングランドを懲らしめるために、慎重なフェリペ2世がついに動き始めます。一大国家事業となるイングランド上陸作戦のため、艦隊を整備し集結させる準備にかかりました。1571年、スペインがオスマントルコと戦って勝利したレパントの海戦の英雄である、サンタ・クルス候アルデロ・デ・パサンが艦隊計画を発案しました。1586年の計画では、船舶796隻を動員し、予算総額は15億2642万5898マラベディーに上り、レパントの海戦の予算の実に7倍となりました。あまりにも高額過ぎたので、代案として、艦隊規模を縮小し、イングランド上陸部隊はスペイン領ネーデルラント総督パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸軍を活用することとなりました。

 

1588年、フェリペ2世エリザベス1世を打倒すべく、130隻の艦船に兵士と水夫を合わせて3万に近い人員を乗せた大艦隊をリスボンからイングランドに派遣しますが、直前に、スペイン海軍の父と呼ばれたサンタ・クルス候が急死してしまったため、フェリペ2世は、海戦の経験が全くない弱冠38歳の大貴族(グランデ)のメディナシドニア公を総司令官に指名しました。驚愕した本人は就任を固辞して別人を推薦しましたが、身分を何よりも重視するフェリペ2世は、アルマダ無敵艦隊)を率いるのはグランデであるのが当然と考え、これを認めませんでした。

 

フェリペ2世がヨーロッパに向かって唱えた大義名分は、エリザベス1世を退位させて、プロテスタントイングランドを元のカトリックの国に戻すことでした。ローマカトリック教会教皇シクトゥス5世の支持も得ており、イングランドに攻め込むのに何らやましいところはありませんでした。そしてこれには、カトリック教徒のスコットランド女王メアリー・ステュアートがエリザベス1世によって処刑されたことが遠因としてありました。

なんと言ってもスペインは、カトリック側のチャンピオンであり、対抗宗教改革の事実上の中心でした。この絶対的優位を誇ったスペインに立ち向かっていったイングランドを他のプロテスタントの国々は、期待を込めて見守っていました。こうした背景のもと、ヨーロッパ中の注目が両艦隊の動向に向けられました。

ドーヴァー海峡でスペイン艦隊を迎え撃つイングランド艦隊は、王室所属の34隻(うち19隻がガレオン船)と寄せ集めの武装船団163隻で、当時の海軍力では圧倒的に不利な戦いが予想されました。

イングランド海軍は、大型で小回りが効かないスペインの艦船に対し、距離を保ちながら砲撃するという戦術をとりました。スペイン艦隊は従来の戦術通り、敵船に船体を寄せ、兵士が乗り移って戦うことを主眼にしていたので、素早く近寄って砲撃を加え、さっと離れて距離を取り、白兵戦を避けるイングランドの艦船を捕捉することができず、砲撃の被害が増えるだけでした。

イングランド上陸を想定していたため、多くの歩兵を乗船させ、1隻あたりの兵士数がかなり多くなり、船が重くなったのも不利でした。

アルマダ海戦と総称される一連の海戦によるスペイン艦船の損失は資料によってまちまちで確定的ではないのですが、操作性に優れた艦船で大砲、鉄砲による砲撃を行ったイングランド海軍が優勢に戦ったものの、スペイン艦隊に決定的なダメージを与えることはできなかったと考えられます。

ドーヴァー海峡で苦戦したスペイン艦隊は、ネーデルラント総督のパルマ公の陸軍と合流することも果たせず(当時の通信技術では海軍と陸軍の連絡がうまくいかず、ネーデルラントの妨害も加わったので)、いったん北海に退避して態勢を立て直すつもりが、折からの嵐にあって、艦船の30%以上が沈没し、兵士の約半数が命を落としたといわれています。

スペインの艦船、兵士で犠牲となったのは戦闘によってではなく、多くは嵐の犠牲によるものでした。スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻でした。死傷者は2万人に及び、スペイン衰退の予兆となります。ただし、この戦いの後、イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して大西洋における制海権を確保し続け、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっています。イングランドがスペインに代わる海洋覇権国家になるには、まだまだ長い年月が必要でした。スペインとイングランドにはそれほどの国力の差がありました。

このスペインの艦隊を「無敵艦隊」というのは、この艦隊と戦うことになったイングランドで、半ば皮肉混じりに恐怖と賞賛の意味を込めて呼んだ呼び名であり、スペインが名付けたものではありません。

 

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青池保子展 CONTRAIL  航跡のかがやき」 開催初日に、下関市立美術館に行って来ました。

10月14日まで開催されます。

 

「エルアルコン鷹」のティリアン・パーシモンは、青池保子さんの作品において、「黒髪サド目族」と分類される登場人物の先駆けと言われています。「アルカサルー王城ー」の主人公ぺドロ1世はティリアンの先祖、「エロイカより愛を込めて」のクラウス・ハインツ・フォン・エーベルバッハ少佐は、ティリアンの子孫と設定されています。

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「アルカサルー王城ー」

著者 青池保子

発行所 秋田書店

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エロイカより愛をこめて

著者 青池保子

発行所 秋田書店

 

高校時代、私の友人たちはみんなエーベルバッハ少佐推しで、私も一緒になって騒いでいましたが、実は、一番好きだったのは、「エーゲ海の鷲」のアル・シャインでした。

エーゲ海の鷲」は、「イヴの息子たち」2巻に収録されています。

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「イヴの息子たち」

著者 青池保子

発行所 秋田書店

 

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「総特集 青池保子 船乗り!泥棒!王様!スパイ!ーキャラが物語をつくる」   より引用

エーゲ海の鷲」は、後の青池保子さんを決定づけた「帆船もの」シリーズの記念すべき第1作です。

 

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「総特集 青池保子 船乗り!泥棒!王様!スパイ!ーキャラが物語をつくる」

著者 青池保子

発行所 河出書房新社

この本には、2007年に宝塚歌劇星組公演「エルアルコンー鷹ー」で、ティリアン役を演じられた安蘭けいさんと、ギルダ役を演じられた遠野あすかさん、主演コンビと、2020年に、ティリアン役を演じられた礼真琴さんと、キルダ役を演じられた舞空瞳さん、主演コンビからのスペシャルメッセージが写真と共に掲載されています。

 

参考資料

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「図説 海賊」

増田義郎 著

河出書房新社 発行

 

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「人類5000年史Ⅳ   1501〜1700年」

出口治明 著

ちくま新書 発行

 

 

次は、「壮麗帝」

 

 

ディズニー編⑧

王様の剣の巻✨

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ディズニーアニメーション映画「王様の剣

1963年制作

DVDカバーより引用

 

遠い昔。大勢の勇猛な騎士達がしのぎを削り合っていたイングランドでは、時の国王ユーサー・ペンドラゴンが世継ぎを残さずに亡くなった事で、次の王の座を巡る戦乱が各地で始まり、国は乱れました。そんな中、ロンドンの街に石台に刺さった一本の剣が出現し、剣のつかには金色の文字で、『この剣を石台から引き抜いた者こそ、全イングランドの真(まこと)の国王である』と書かれていました。乱れきった国を正してくれる新たな王が現れる奇跡を人々が願うなか、大勢の力自慢が剣を引き抜こうとしましたが、王様の剣はびくともしませんでした。

奇跡は起こらなかったのです。

こうして、イギリスには、王のいない日々が続き、この剣のことも忘れ去られていきました。

イギリスのとある地方領主 エクター卿の城ではワートという少年が働いていました。 ある日、エクター卿の息子ケイと狩りに出かけ矢をなくしてしまったワートは、一人で森の中に探しに行き、そこで魔法使いマーリンと出会います。未来を見通す力を持つマーリンは、ワートが将来、大物になる事を予見し、彼に魔法の訓練をつける事を決心し、ワートを大成させるべく不思議な特訓を課していきます。

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ディズニーアニメーション映画「王様の剣

1963年制作

パンレットより引用

 

王様の剣」の元となったアーサー王物語は、ケルト神話、特にウェールズの伝承を元に作られています。

ケルト人は、ギリシア語「ケルトイ」に由来しています。この言葉は、紀元前5世紀の「歴史の父」ヘロドトスによれば、イストロス川(現ドナウ川)上流に住む人々のことでしたが、多くの場合、近代的な意味での民族ではなく、ギリシアから見て西方、すなわち中央ヨーロッパから西ヨーロッパの人々を漠然と指していたようです。

古代ローマでは「未知の人」を意味し、やはり、もともとは民族を示す言葉ではなかったようです。

 

ブリテン諸島には、太古の昔から人が住んでおり、紀元前2200年頃〜1900年頃には、そこにビーカ人と呼ばれる戦士らが加わって、今も残る巨石記念物(ストーンヘンジ)を残したことで知られています。

青銅器時代の末期、前7世紀になると、大陸からケルト人が渡来しました。この時代にブリテン島にやって来た古いケルト人は「ブリトン人」と呼ばれます。

続く鉄器時代には戦争が頻発し、そのため多くの丘上要塞(きゅうじょうようさい)が作られました。住民の大半は農民でしたが、美しい工芸品を作る職人もいました。

紀元前55年〜54年、ローマのカエサルブリテン島に遠征し、ケルト人を征服しますが、急遽、属州ガリア(現フランス)に戻る必要が生じ、ローマ軍は年貢を納めることを条件に引き上げました。しかし、紀元後43年、クラウディウス帝の時に、ローマ軍は再び、南東イングランドに上陸し、ケルト人を戦で破りました。ローマ人は、ロンドン、ヨーク、バース、エクセター、リンカン、レスター、グロスター、マンチェスター等、現在も残る都市の基礎を作りました。道路を建設し、法律を導入したのもローマ人でした。

122〜123年、ハドリアヌス帝が、ローマ人の支配の及ぶ所と及ばない所の境、すなわち現在のイングランドスコットランドの間に長城を築きました(ハドリアヌスの長城)しかし、3世紀半ばになるとローマは衰退し、ブリテン島の支配もおろそかになります。

4世紀後半に、スコットランドからピクト人とスコット人が南進し、大陸からはサクソン人たちも侵入しました。ゲルマン人ガリアに侵入すると、新たに軍を派遣する余裕などない西ローマ皇帝ホノリウスは、410年、ブリテン諸都市に自主防衛することを命じ、ブリタニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き上げました。事実上、ブリテン島におけるローマの支配は終わりました。ローマが撤退すると、ブリトン人は、ピクト人の攻勢に直面しました。慌てたブリトン人は、ゲルマンのアングロサクソン人に自分たちを守ってもらうように頼んだと「アングロサクソン年代記」に書いてあります。

アングロサクソン年代記」には、449年、アングロサクソン戦士が三隻の船でブリテン島にやって来たと記しています。5世紀半ば、続々とブリテン島にやって来たアングロサクソン人たちは、はじめのうちこそ、ブリトン人との約束通りピクト人を打ち破りますが、やがて一転、反旗を翻し、ブリトン人への猛烈な攻撃を開始します。圧倒的な攻勢の前にブリトン人は押され続け、どんどん土地を奪われていきました。そんな中、ブリトン人は、アーサー王の原型と考えられた軍事指揮官アンブロシウス・アウレリアヌスに率いられ、形勢を挽回した時期もありました。けれども、結局は力を盛り返したアングロサクソン人に屈する形になっていきました。

ブリトン人から力ずくで奪い取ったブリテン島のイングランドと呼ばれる地域には、アングロサクソン人の半国家的な自立勢力が次々と現れました。それらは、6世紀後半に、大きく七つの王国へと統合されていきます。すなわち、ケント、イーストアングリアノーサンブリアマーシアエセックスサセックスウェセックスアングロサクソン七王国ヘプターキー)は、こうして成立しました。

アングロサクソン人がイングランドを支配するようになると、一部のブリトン人は、ブリテン島からフランスのブルターニュ半島へ渡りました。こうして中世には、ケルト人の勢力はアイルランドスコットランドマン島( スコットランド北アイルランドに挟まれたアイリッシュ海の中央に位置する島)、ウェールズコーンウォールイングランド南西端)、ブルターニュとなりました。

 

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アカルパ's  portfolio 5分でわかるイギリスの歴史

より引用

 

現在の「イギリス」という国は、正式名称を「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」と言い、イングランドウェールズスコットランド北アイルランドという歴史的・民族的に成立事情の異なる4つの「国」でできています。

 

 

アーサー王が実在したかについては、現在でも歴史家が議論を続けており、結論は出ていません。アーサー王の歴史性を証明する、信頼できる初期の資料が非常に乏しいためです。現在親しまれているアーサー王の物語を創り出したのは、1130年に「ブリタニア列王史」を書いたジェフリー・オブ・モンマスです。それによると、アーサー王は5〜6世紀のブリテンの王であったとされます。彼は石に突き立てられていた、王者のみが引き抜けるという剣を引き抜いて、亡父の後を継いで、わずか15歳で王となります。やがてアーサーは、湖の中央で乙女の手が剣を捧げ持っているのに出会います。これが名剣エクスカリバーです。その後、彼はキャメロットの宮廷を中心に、グィネヴィアを妻とし、魔術師で相談役のマーリンをはじめ、ケイ、ランスロット、サー・ガウェイン、トリストラム、パーシヴァル、ガラハド、ベディヴァら名だたる円卓の騎士を従えて繁栄を誇りましたが、晩年には甥(または不義の子)のモルドレッドが反旗を翻しました。アーサー王は戦いでモルドレッドと刺し違えて瀕死の傷を負います。アーサーはただ一人付き従っていたベディヴァに命じて、エクスカリバーを湖に投げ込ませます。ベディヴァは剣を惜しみ、投げ入れたと二度も嘘をつきますが、三度目にはとうとう本当に投げ込みます。すると、水中から手が出て剣を受け取って消え去りました。そして、瀕死の王は、謎の女たちの乗る船に乗せられて、アヴァロンの島に連れられて行きました。女たちの一人は、マーリンの愛人で女魔術師である「湖の女王」ヴィヴィアンヌでした。そしてもう一人は、アーサー王の妹の妖精モルガン・ル・フェであったともいいます。アーサーは、この時死んだのではなく、アヴァロンに身を隠しただけで、ブリテンが危機の時には再び現れて支配する、とする伝承もあります。

 

アーサー王の物語には、様々に魅力的な騎士が集まって友愛に結ばれ、あるいはライバル意識に燃えながら活躍します。アーサー王伝説は、ケルトの超自然世界の冒険に宮廷風恋愛が交錯しながら、物語が展開していきますが、時代が下るにつれて、そこに、キリスト教的な要素が一段と色濃く浸透していくことになります。

西洋中世社会の花形である騎士は、キリスト教抜きには考えられません。馬に乗って戦う戦士であるだけでは、騎士の名に値しません。騎士は、戦場においては人馬一体となって主君と祖国のために勇猛果敢に戦い、宮廷では風雅を心得た趣味人として、貴婦人に心を込めて尽くすのは当然ですが、それに加えて、教会とキリスト教の防護にも励みました。まさに、憧憬すべき、理想の男性像でした。

 

アーサー王の物語は、その配下の12人の円卓の騎士たちの物語とともに語り継がれました。アーサーは正義を行い、名誉を重んじて国を治め、円卓の騎士はその徳を守ることを求められました。アーサーの食卓は丸く、誰もが平等な扱いで座れるようになっていました。アーサーは次第に理想のキリスト教的君主として描かれるようになっていきます。このアーサー王の物語によって、西洋の騎士たちが、ますます威光を高めたことは間違いありません。

 

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アカデミア世界史

浜島書店 発行

より引用

 

特異かつ強力なキリスト教文化がローマからヨーロッパに入ってくることによって、ヨーロッパの文化は発達し、そこから生まれた科学や技術の強さもあって、世界中がヨーロッパの近代から発生した考え方に大きく左右されています。私たち現代人は、知らず知らずのうちに、キリスト教が生み出してきた文化を規範として思考しているのかもしれません。

ケルト」は民族を指す言葉ではなかったということは既に述べました。上にある「アカデミア世界史  2ケルト人の歴史」の図にもあるように、キリスト教が進出してくる以前、東は現在のポーランドから、西は現在のアイルランド島までのヨーロッパの広範囲にケルト人は居住していました。ケルト人とは、輪廻転生や霊魂の不滅など、独特の死生観を持ち、ゲルマン人のようにキリスト教には帰依しなかった民族の総称であるという考え方もあります。

現在は、ブリテン諸島アイルランドスコットランドウェールズコーンウォールコーンウォールから移住したブルターニュブルトン人等に、ケルト語族の言語が現存しています。

実際は、それ以外の国や地域に住むヨーロッパの人たちも、その背後にケルト的な要素を持っていると考えられます。ケルト文化を知ることは、ヨーロッパの歴史と文化を考えるうえで、不可欠な要素と言えます。

ローマ帝国以前、一つのまとまった国家というものを作らなかったにもかかわらず、ケルト人としての文化的アイデンティティを共有しながら、いくつもの独立した部族集団としてヨーロッパに勢力範囲を拡大していったケルト人の在り方は、現在、EUとしての統合を進めているヨーロッパ各国のモデルとなっているように見えます。ケルト文化をEUの基層文化とする意識も高まってきています。

この二十年以上、欧米各国、そして日本でも、いわゆる「ケルト・ブーム」という現象が見られるのは、神話学、民俗学、考古学、言語学といった学術分野に限らず、エンヤに代表されるケルト音楽や映画、演劇や「ケルズの書」等のケルト美術といった芸術においても例外ではありません。妖精物語やアニメやゲームに登場するケルト神話由来のキャラクター抜きに、現代の若者文化は語れないと言っても過言ではありません。

 

王様の剣」で、マーリンの魔法で、リスや魚になって、ワートが自然界で生きる困難さを学んだり、マーリンがライバルの魔女であるマダム・ミムーと魔法対決をして、最後は細菌になったマーリンがマダム・ミムーの体内に入り、発病させて降参させるというのが面白かったです。

夢と魔法の王国ディズニーとケルトの妖精の要素がタイアップすることで、より一層ファンタジーでマジカルな作品になっていると思います。

 

劇団四季のミュージカル「美女と野獣」の中で、野獣の城に囚われているベルが、文字の読めない野獣に、本を読み聞かせてあげるシーンがあります。結末まで読み終わった時、野獣が「なんて美しい、素晴らしい物語なんだ!本がこんなに面白いなんて!」と感動したのは、「アーサー王物語」でした。

 

 

参考資料

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「図説 ケルトの歴史 文化・美術・神話をよむ」

鶴岡真弓・松村一男 著

河出書房新社 発行

 

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「図説 騎士の世界」

池上俊一 著

河出書房新社 発行

 

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「世界の神話と伝説 神々と英雄」

監修 大泉太良

訳 槙朝子

文 ニール・フィリップ

絵 ニーレス・ミッストレ

発行 小学館

 

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アーサー王 その歴史と伝説」

リチャード・バーバー 著

高宮利行 訳

東京書籍 発行

 

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「戦国ブリテン アングロサクソン七王国の王たち」

桜井俊彰 著

集英社 発行

 

 

「ディズニー編」は、これが最終になります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。次の「宝塚歌劇団編」も読んでいただけますと幸甚です。

 

次は、「エルアルコンー鷹」

 

 

ディズニー編⑦

ラマになった王様の巻✨

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ディズニーアニメーション映画「ラマになった王様

2000年制作

DVDカバーより引用

 

「南米のジャングル奥深くにある国で、クスコという18歳になる王様がいました。彼は富と権力と美貌は持っていましたが、傲慢で超性格の悪い嫌な奴であったため、国民からは全く信用されていませんでした。ある日、気まぐれで解雇した、かつての相談役の魔法使いイズマに毒薬を飲まされ、ラマの姿に変えられてしまいます。クスコはそのまま袋詰めにされ、荷車に乗せられて、ある農村に運ばれます。それは、そこに住んでいる農民たちを強制的に立ち退かせてまで、クスコリゾートを建設しようと王自らが選んだ村でした。城から追い出された彼を救ったのは、その農村に住む貧しい農夫のパチャでした。ラマになっても王様気取りのクスコでしたが、人間に戻るためにパチャと旅をする道中で、人と信じ合うことの大切さを学んでいきます」

 

アンデス山脈は、南アメリカ大陸の太平洋側に沿って、大陸の北端から南端まで伸びています。全長7500キロメートル。ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンの7カ国にまたがり、連続した山並みでは、地球上で最も長い山脈です。南北に長いので、赤道に近い北アンデスでは、とても陽射しが強く、南極に近い南アンデスは、氷河があるほど寒くなります。

ペルーからボリビアにかけての中央アンデスには、アマゾン川の源流があります。この川は、アンデス山脈の森から6500キロメートルも東に流れて、大西洋にそそぎます。

 

アンデス山脈には、何千年も前から、様々な民族が暮らしていましたが、高い山々にはばまれているため、互いに交流を持つのは難しく、多くが、ほとんど孤立した環境の中で、言葉も習慣も違っていました。15世紀に、それらの民族を統一して、一つの国にしたのが当時、中央アンデスに住んでいたインカ族です。インカ族は、現在のペルーのクスコ周辺に、小さな王国を築いていました。

1438年、王に即位したパチャクティは、周りの国々に軍隊を送り、アンデス山脈に住む民族を、次々に征服していきました。その後、パチャクティの息子や孫の代になってからも、インカは領土を広げ、80もの民族を支配下におさめ、現在のコロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンにまたがる、南北4000キロメートルにもおよぶ大帝国を築きました。

 

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「マチュ・ピチュ」は、インカの言葉で「老いた山」という意味の、標高2430メートルの山です。「マチュ・ピチュ」の後方右側にそびえる大きな峰が「ワイナ・ピチュ(若い山)」で、「マチュ・ピチュ」より約300メートル高く、標高は2720メートルです。

インカには文字の記録がないので、ここに住んでいた人々が、この町を何と呼んでいたのか分かっていません。「マチュ・ピチュ」というのは、近くの山の名前に過ぎません。

 

「マチュ・ピチュ」は、かつては、滅亡したインカ帝国の都市だと考えられていました。

 

「マチュ・ピチュ」は、スペイン人がインカ帝国を征服する前に栄えたようですが、スペイン人がやって来た頃には既に、住む人もなく見捨てられた町であったようです。山の下の集落からは、樹木の茂みにさえぎられて急斜面の上に何があるのか見えず、山に登ると突然現れるので、 「空中都市」または「天空の都」とも呼ばれます。「マチュ・ピチュ」のことは、スペイン人の征服者たち(コンキスタドレス)が残したどの記録にも出てきません。征服者たちが、この町の存在を知らず見過ごしたため、破壊を免れ、ほとんど完全な姿のままで、今日、私たちが見ることができるのは幸運でした。

 

1912年に、アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガム教授が、忘れ去られたこの町を再発見しました。多くの歴史学者は、小説からドラマや映画にもなった物語の主人公、架空の考古学者になぞらえて、ビンガム教授のことを、「本当にいたインディ・ジョーンズ」と呼びました。

 

建築物の配置から、人々には階級制度が敷かれ、その社会構造は、大きく3つに分かれていたと考えられています。

中央広場をはさんで、西には宮殿や神殿(別名「太陽の神殿」と呼ばれる塔内にある聖なる一枚岩に刻まれたくぼみに、冬至の朝だけ窓から差し込む光が重なり、その日に儀式が行われたと考えられています)、神官の館が並ぶ区域、東には、貴族や職人が住む区域、そして、広場の南側には、畑や貯蔵庫、家畜小屋などの農業区域がありました。

 

「マチュ・ピチュ」の建物の石組みを見ることで、それを建てた人たちが、優れた技術を持つ立派な石工(いしく)であったことが分かります。近くで取れる花崗岩御影石(みかげいし)が石の道具(隕石が使われることもありました)で計算したように正確に切り出され、 石の表面に、砂と水で磨きをかけて仕上げられました。その上で、隙間なく積み上げられ、ナイフを差し入れるすきもないほど、接合部分をピッタリと組み合わせて、城壁が築かれました。これは、現在でも、大変難しい技術です。

 

ペルーは日本と同じく地震が多い国です。マチュピチュの下にも、2本の活断層が通っているそうです。 後の時代に、クスコやペルーの首都リマに造られたヨーロッパ風の建物は壊れたのに、これらの石建築は、度重なる地震の強襲にも耐えてきました。このような建て方でなければ、とっくの昔に崩落していたかもしれません。

 

物の運搬や情報を伝えるために、全長3万キロメートルのインカ道を整備したことで有名な道路網は、舗装もあり、道幅も7、5メートルありましたが、乗り物ではなく、走る人間のためのものでした。インカ人は車輪を使いませんでした。車輪も牛車も持たない人々が、700メートルも下のウルバンバ川からラマの背中に岩を乗せて運び、傾斜がきつい南側の斜面に、わずか3、5メートルの間隔で高さ5メートルの壁を築きました。ここで農業ができるようにするために、最初にじゃり、それから、ウルバンガ渓谷から良質な土が運び込まれ、水路を巡らして、アンデネスと呼ばれる、階段上の段々畑を作りました。そこでは、トウモロコシやジャガイモが栽培されていました。

 

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Y!きっず図鑑  より引用

アンデスの人々は昔から、荷物を運ぶのにラマを利用してきました。ラマの毛は織物にして、衣類にしました。ラマの毛織物は暖かく、高地の厳しい気候をしのぐのに最適です。

さらに、ラマのフンは、火を燃やすための貴重な燃料になりました。ラマはアンデスの人々の暮らしには欠かせない動物てす。空にはラマの星座があり、「お母さんラマと赤ちゃんラマの星座が地上のラマたちを天から見守っている」と語り伝えられています。また、かつては、ラマも人間の言葉を話したという伝説もあります。 

 

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Andean Condor/ Condor des Andes/ Vultur gryphus   より引用

インカの人々にとって、ラマと同じくらい馴染み深いのがコンドルです。コンドルは、アンデス山脈の高地に住む巨大な鳥です。くちばしから尾の先までは1、2メートル。翼を広げたときの長さは3、3メートル、体重は10〜15キログラムあり、空を飛ぶ鳥では世界最大です。体や翼は黒っぽい羽毛でおおわれていますが、頭には羽毛がなく、首の周りには、マフラーのように白い羽毛が生えています。

重い体で空を飛ぶには、エネルギーが必要です。そこで、コンドルは、あまり羽ばたかず、気流に乗って移動する飛び方で、エネルギーを節約しています。そのため、コンドルの翼は、気流に乗りやすいように幅が広いのです。

インカ帝国では、コンドルは太陽神の使者とされていました。地方によっては、コンドルの血を確実な若返り薬としているところもあり、コンドルを見ると幸運が訪れる、あるいは、不幸に見舞われると信じている地方もありました。

 

中学生の時、音楽の教科書に載っていた「コンドルは飛んでいく」の曲が大好きでした。リコーダーで上手く吹けるよう、一生懸命練習したのを覚えています。

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 Andean Condor/ Condor des Andes/ Vultur gryphus Birds of the World     より引用

 

インカ人は、文字を使わなかったことで有名です。彼らほど様々な面で知的に傑出した民族が読み書きと無関係であったのは矛盾した感じがします。

インカ人は、自分たちが征服した土地に次々と学校を作りましたが、どんなに教育が普及しても、教材といえば、キープといわれる、長い紐に結び目をつけて、十進法で数を記録したり、人口や税金などを記録するものでした。

インカでは、文字を知れば、疫病、迷信、邪悪の元になると固く信じられていました。インカ文明以前の人々が使っていた文字を使うことも禁じられました。禁を犯せば死刑になりました。この掟は固く守られ、文字を新たに考案したある学者は、生きたまま火に投じられました。

 

1532年、スペイン人のピサロは3隻の船に180人の兵士を乗せて、パナマから太平洋を南に進んで、ペルーの地に上陸しました。彼らはインカの皇帝アタワルパの率いる4万人の大軍と戦い、アタワルパを捕えました。インカの大軍を混乱に陥れたのは、初めて見る騎馬兵と鉄砲の威力でした。馬はアメリカ大陸では絶滅していたため、ヨーロッパ人が持ち込むまで見たことはありませんでした。インカ人の武器は石器と青銅器のみで、鉄器すら使用しておらず、大砲等の火器を見るのも初めてでした。

幽閉されたアタウワルパは、 彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を与えるから釈放してほしいとピサロに申し出ました。皇帝の命令で全国から金銀細工が次々と運ばれて、部屋を満たしました。

「インカ」は、「太陽の息子」という意味で、「皇帝」を指す称号でした。インカの最初の皇帝は太陽神インティによって地上へ送られた太陽神の子孫と伝えられています。インカの人々にとって、太陽は父であり、同時に神そのものを象徴していました。その太陽の息子と信じられた皇帝の命を助けるために、インカの人々は必死の思いで金銀を運びましたが、スペイン人は片っ端から融かして金銀の延べ棒にしたうえで、約束を破って皇帝を殺害しました。

 

ピサロのその後ですが、インカを征服したわずか4年後に、母国スペイン国王カルロス1世から、アタワルパを無実の罪で処刑したとして、死刑に処されました。

 

高原地帯には、木のない所が多く、昼は太陽に焼き尽くされ、夜は厳しい寒さが訪れます。生活するのに困難なこのインカの地から黄金が奪い去られてしまうと、スペイン人にとって価値のあるものはなくなり、1911年に、ビンガム教授によって再発見されるまで、忘れ去られていました。

 

 

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ディズニーアニメーション映画「ラマになった王様」で、貧しい農民パチャたちが住む右側の山は、「ワイナ・ピチュ(若い山)」、人間の姿に戻ったクスコが「クスコリゾート」をつくった左隣の小さな山は、「マチュ・ピチュ」のようです。

 

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ディズニーアニメーション映画「ラマになった王様

2000年制作

パンフレットより引用

 

ラマになった王様」は、近年のディズニー作品としては珍しく、ミュージカルではなくセリフやキャラクターの動き、ギャグで雰囲気を盛り上げる、ノンストップコメディになっています。なかでも、推定200歳とも言われる魔女イズマの相棒のクロンクの、味のあるおとぼけ振りが好きでした。

インカ帝国風ですが、実験室にある劇薬のラベルに絵文字が使用されていたり、実験室に行くのに、DLのアトラクションに搭乗する前に説明する音声が流れる等、時代考証はほぼ無視されています。

 

参考資料

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インカ帝国天空の都 マジックツリーハウス48」

メアリー・ポープ・オズボーン 著

食野雅子 訳

株式会社 KADOKAWA  発行

 

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世界遺産 考古学ミステリー マチュ・ピチュのひみつ インカ帝国の失われた都市」

スザンヌ・ガーブ 著

リンダ・オルソン 指導

六耀社編集部 編訳

株式会社六耀社 発行

 

 

次は、「王様の剣

 

ディズニー編⑥

ヘラクレスの巻✨

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ディズニーアニメーション映画「ヘラクレス

1997年制作

DVDカバーより引用

 

「神々の住処であるオリンポス山の支配者ゼウスに男の子が生まれました。ヘラクレスと名づけられたこの赤ん坊は驚くほどの力の持ち主で、雷をおもちゃにして遊ぶほどのワンダー・ベイビーでした。死者の国の王ハデスの陰謀で地上に追われ、素性を知らずに人間の子として育てられた彼は、やがてたくましい若者に成長しますが、その人間離れした怪力をコントロールすることができず、周囲からうとまれて孤立していました。

しかし、自分が実は神ゼウスの子であると知り、ヘラクレスは神の一員となるべく、故郷であるオリンポス山を目指します。オリンポス山へのパスポートは唯ひとつ、「本物のヒーローになること」でした。

伝説のヒーロー・トレーナーのピロクテテスのコーチを受け、冒険の旅が始まりました。しかし、彼の行く手には、巨大で恐ろしい怪物たち、謎に包まれた美女、そして、死者の国の王ハデスの邪悪な罠が待ち受けていました。」

 

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ディズニーアニメーション映画「ヘラクレス

パンフレット   より引用

 

文学的記録として残っているギリシア神話で最も古いものは、ホメロス叙事詩です。ここにはもう後のギリシア神話に登場するほとんど全ての神々の名前が出てきます。ホメロスより少し後のヘシオドスは著書「神統記」の中で、この世界に初めて生まれた神は「カオス」で、「カオス」から次々に新しい神が生まれ、やがてそれがゼウスを中心とするオリンポスの神々へと連なっていく経緯を詳しく物語っています。

「カオス」とは、光も形もない「虚空」「深淵」を意味する原初神です。この「カオス」から「ガイア(大地)」が生まれ、「ガイア」は一人で生んだ息子の「ウラノス(天空)」を夫とし、クロノスとレアらティタン巨人神族と百手の巨人神、一眼の巨人神ら合計18人の子供を生みました。父親のウラノスから支配権を奪ったクロノスは妹のレアを妻としました。レアは、ヘスティアデメテル、ヘラ、ハデス、ポセイドンを生みましたが、クロノスは、これらの子供たちが生まれるや片っ端から飲み込んでしまいました。天の神から、「己れの息子によって、いつの日か、撃ち倒されるであろう」という予言を聞いていたからです。これを悲しんだ母レアは、密かにクレタ島に渡り、山中で末子のゼウスを生みました。そしてゼウスの代わりに大きな石を産着に包んで赤ん坊に見せかけ、これをクロノスに飲み込ませました。成長したゼウスは、思慮の女神メティスの計略で、彼女からもらった薬をクロノスに与え、これまで飲み込んだ兄姉たちを吐き出させることに成功しました。ゼウスは、兄姉たちと力を合わせて父クロノスとその兄弟のティタン神族と戦い、十年に及ぶ激戦の末、これを征服してクロノスを王位から追放し、ゼウスがこの世界に君臨することになりました。

この辺りのことは、ディズニー映画「ヘラクレス」の冒頭で、5人のミューズがゴスペルの曲調で歌っています。

この戦いに勝利を収めた神々の一族は「オリンポスの神々」と呼ばれています。オリンポスは、ギリシア北部にそびえる高さ2911メートルの山で、その頂は万年雪におおわれ、雲をたなびかせ、容易に人を近づけさせなかったため、古代のギリシア人はオリンポスを神々が住む神聖な山として尊び、崇めていました。

ゼウスは二人の兄と籤(くじ)を引き、ゼウスは天空、ポセイドンは海、ハデスは地下(冥界)を支配することになりました。

 

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「NEW  STAGE  世界史詳覧」

浜島書店 発行

より引用

 

ゼウスとその妻ヘラ、ポセイドン、デメテルアポロン、アルテミス、アフロディテ、ヘパイストス、アテナ、ヘルメス、アレス、ヘスティアを、「オリンポス12神」と呼んでいます。古代アテナイのアゴラ(中央にある公共広場)に設けられた12神の祭壇は町の中心点とされており、アッティカ地方の道路の距離はここを起点に測られていたといいます。今でいう「道路元標」です。

ゼウスの兄のハデスが、ギリシアの神々のなかでは極めて地位の高い神でありながら12神に入っていないのは、彼が死者の国の支配者で、神々からも人間からも嫌われ、いつも地下の冥界に住んでいたからでしょう。あるいは、古代ギリシア人が死者の国の王の名前には触れたくなかったのかもしれません。ギリシア人がハデスを祀る神殿を建てることはありませんでした。

ディズニーアニメーション映画「ヘラクレス」では、死人に囲まれた自分の仕事にも、まわりをうろつく死霊たちの群れにもうんざりしていたハデスがゼウスを倒して世界の支配者になるという野望を抱き、脅威となるヘラクレスを陥れ、排除しようとします。

 

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「世界一よくわかる!ギリシャ神話キャラクター事典」

著者 オード・ゴミエンヌ 

発行者 長瀬聡

発行所 株式会社グラフィック社 

監修 松村一男 

翻訳 ダコスタ吉村花子 

 

それぞれの神に対してお茶目なコメントがあり、肩肘張らずに楽しみながらギリシア神話の勉強ができる本です。

 

ゼウスは、「最も畏怖される神々の王、大地と天空をを司り、神々と人間を治めています。まさに、神そのものですが、浮気癖が玉にキズ」と紹介されています。

ギリシア神話では、ゼウスは美しい女性を見るとすぐ恋の情熱を燃え上がらせる浮気者で人間的な神として描かれています。女神や人間の女やニンフたちに夢中になり、自分の姿を鷲や白鳥や牛や雲など様々なものに変えて彼女たちに近づき、彼女たちを誘惑します。

 

ヘラクレスギリシャ神話の中で最も偉大な英雄と言われるのは偶然ではありません。父ゼウスは人間たちに彼らを守るための半神を贈ろうと考え、母としてアルクメネを選びました。アルクメネは父と母の祖父がペルセウスの息子であったことから、二重の意味でペルセウスの末裔だったからです。すでに結婚していましたが、ゼウスは夫のアンピトリオンに姿を変え、そっと彼女の寝床にもぐり込みました。そして太陽に3日の間昇らぬようにと言いつけ、愛に満ちた長い夜を楽しみました。」

「世界一よくわかる!ギリシャ神話キャラクター事典」より引用

 

美しい女性たちとの間に数えきれないほどたくさんの子供をもうけ、ゼウスの妻のヘラが嫉妬に狂い、夫の恋人をいじめ抜き、それでもまだ飽き足らなくて、その子供に復讐するというモティーフは、ギリシア神話の中に繰り返し出てくるものです。最も嫌われ、執拗に苦しめられたのがヘラクレスでした。ヘラはまるで「ヴィラン」のような立ち位置ですが、ディズニー映画「ヘラクレス」では、そのようには描かれておらず、悪役は、ハデスが一人で引き受けている感じです。

 

「不名誉なことに、ヘラはオリュンポス山の神々の中で最もひどい女神とされています。浮気っぽいゼウスの妻であり、姉でもある彼女は、嫉妬に悩まされ続け、気難しく執念深い性格になってしまったのです。彼女自身は貞節だったので、「婚姻の女神」「女性の守護神」となり、人々から崇められていました。特に結婚や妊娠を望む女性たちからは、深く敬われました。」

「世界一わかる!ギリシャ神話キャラクター事典」に、ヘラはこのように紹介されています。

 

ゼウスの妻であるヘラは、オリンポスの女主人であり、ギリシアの女神のなかでは最高神になります。そんなヘラをヴィラン扱いするわけにはいかないとディズニーは考えたのかもしれません。

ゼウスとアルクメネの子ヘラクレスは、ギリシア神話の中で最も偉大な英雄です。各地方に伝わる様々な冒険譚や武勇伝が次第にヘラクレスに付け加えられたため、その足跡は全世界に及び、成し遂げた功業も膨大な数に及びます。なかでも有名なのが、「ヘラクレスの12の功業」といわれるものです。ヘラクレスはテバイ王クレオンの娘、王女メガラを妻に迎え、平穏な生活を送っていましたが、執念深いヘラはこれが気に入らず、ヘラクレスの気を狂わせます。正気を失ったヘラクレスは様々な乱暴を働き、あげくの果てに自分の妻メガラと子供を弓で射殺し、弟イピクレスの二人の息子を火中に投げ込んで殺してしまいました。正気に戻った彼はこれを深く悲しみ、デルフォイに赴いて、どうすれば自分の罪を償うことができるか、アポロンの神託に尋ねました。それに対して、巫女のピュティアはヘラクレスにティリュンスへ行き、エウリュステウス王のもとで12年間仕え、その間、王に命ぜられる仕事を全てやり遂げねばならないと告げました。

1・ネメアのライオンを絞め殺して退治しました。

美術作品のなかでヘラクレスは常に筋肉美あふれる裸体の男性として、上半身にライオンの毛皮をまとい、頭にはライオンの頭部の毛皮をかぶっていることもありますが、このネメアのライオンの毛皮だという説があります。

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2・レルネの水蛇ヒュドラを退治する。

巨大な胴体に九つの頭がついた怪物で、どの頭も切られた端から次々に新しく2つの頭が生え出てくるので、いつまで経っても勝負がつかなかったのですが、蛇の頭を切るとすぐその傷口を燃え木で焼き、新しい頭が生えるのを防いで、やっとのことで退治することができました。

3・黄金の角をもつケリュネイアの牡鹿を生け捕る。

4・エリュマントス山の大イノシシを生け捕る。

5・アウゲイアス王の家畜小屋を掃除する。

6・ステュンパリデス沼地の怪鳥を退治する。

7・クレタ島の牡牛を生け捕る。

これは、迷宮(ラビリンス)のようなクノッソス宮殿に住む牛頭人ミノタウロスで、後にアテナイの王子テセウスが退治したことでも有名です。

8・ディオメデスの人食い馬を退治する。

9・ヒッポリュテの帯 ギリシアのはるか北方に住むアマゾネス族の女王ヒッポリュテが持つ宝石を散りばめた華麗な帯を手に入れる。

10・ゲリュオンの牛を盗む

11・ヘスペリデスの園の黄金のリンゴを取ってくる。

12・冥界の番犬ケルベロスを連れて来る。

 

ディズニーアニメーション映画「ヘラクレス」では、1・ネメラのライオン  2・レルネのヒュドラ  4・エリュマントス山の大イノシシ  5・アウゲイアス王の家畜小屋の掃除  6・ステュンパリデス沼地の怪鳥  7・クレタ島の牡牛  9・ヒッポリュテの帯  

が出てきました。

 

ヘラクレスは、ギリシア人の中でもドーリア人(部族)の英雄です。これに対して、テセウスイオニア人(部族)の英雄です。

イオニア人は既存のクレタ文明を受け入れて、ミケーネ文明を生み出した先住のギリシア人です。ドーリア人はイオニア人より800年ほど後から来てミケーネ文明を破壊した野蛮なギリシア人です。その性格の差は彼らの敬愛する英雄の性格にも反映しています。ヘラクレスは粗野で気が短く、乱暴者であるのに対して、テセウスは強くはありますが、紳士的でルールを守り、ヘラクレスに比べればずっと品よく温和です。

ヘラクレスが、当時の全世界を舞台に暴れ回ったのに対して、テセウスが活躍した範囲は比較的限定されています。遠くてもせいぜいクレタ島黒海沿岸どまりとなっています。ヘラクレスがやがてドーリア人の枠を超えて全ギリシア的な英雄に昇格していったのに比べ、テセウスはあくまでもアテナイなどの地方的英雄にとどまっています。しかも、ヘラクレスは死後天上に上り、神格化されてオリンポスの神々の列に加えられています。

ギリシアの各地方には昔から様々な野盗、野蛮人、病気、自然災害などを退治し、平定した地方的な英雄の伝承がありました。それらを語り継ぐ人々は、自分たちの地方的英雄とヘラクレスとの関係を深めることによって、自分たちの家系をより栄光あるものにすることができると考えたせいか、地方的な英雄の功績や冒険をできるだけヘラクレス伝説の中に組み込もうとしました。その結果、「ヘラクレスの12の功業」をはじめとする、広範囲に渡る数多くのヘラクレス伝説が生まれたと考えられます。

 

 

前回のディズニー編⑤「アナスタシアの巻」は、ロシア革命を1回で終わらせるため、文章量が多くなり、読み直した、池田理代子さんの「オルフェウスの窓」の「オルフェウス」について書く余裕がありませんでした。

「世界一よくわかる!ギリシャ神話キャラクター事典」では、

 「オルペウス」を「偉大なる音楽家

「旅する英雄オルペウスは、この世で最も有名な音楽家。その歌の美しさに石さえも涙を流し、木々は揺らぎ、動物はため息をついたと言います。」と紹介しています。

 

アポロンから竪琴を授けられ、ギリシア神話中で最高の竪琴と歌の名手として知られるオルフェウスは、エウリュディケという名のドリュアス(樹木の精霊)を熱愛していました。しかし、婚礼の日、エウリュディケは突然、毒蛇に踵を噛まれて命を落としてしまいます。オルフェウスは妻恋しさのあまり、彼女を取り戻そうと決心し、冥界に下りました。彼が奏でる淋しい哀調を帯びた竪琴と歌の調べは、冥界の番犬ケルベロスをはじめ、冥界に住む全ての霊魂たちを感動させました。冥界の王ハデスと王妃ペルセポネは、オルフェウスに対して、「地上に戻るまでは決して振り返って妻の顔を見てはならない」という条件で、エウリュディケを連れ戻すことを許しました。しかし、地上に達する直前に、心配でたまらないオルフェウスは思わず後ろを振り向いてしまいます。泣きながらエウリュディケは永遠に消えてしまいました。

日本にも、これとよく似た話が、「古事記」にありますが、妻のイザナミの神に死なれた夫のイザナギの神が黄泉(よみ)の国に行き、妻を連れ戻そうとするところまでは同じですが、見てはいけないと言われたのに、見てしまった妻の体は、ウジがわき、見るも恐ろしい姿に変わり果てていました。そんな醜い姿を見られたことを怒って追いかけてくる妻から逃れるように、この世に逃げ戻り、最後は激しい夫婦喧嘩の末にお互いに呪い合うという、ロマンティックとはほど遠い結末になります。民族性の違いでしょうか。ロマンティックで美しいオルフェウスとエウリュディケの物語の方に惹かれます。

このオルフェウスとエウリュディケの悲恋の伝説に基づいて、ロシア革命に翻弄される男女を描かれた池田理代子さんは天才だと思います。「オルフェウスの窓」は「ベルサイユのばら」以上の傑作だと思います。

 

参考資料

 

「世界一よくわかる ギリシャ神話キャラクター事典」

 

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「図説 ギリシア神話 神々の世界編」

松島道也 著

河出書房新社 発行

 

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↑この本の表紙にあるのが「ファルネーゼの休息するヘラクレス像」で、自身の棍棒にもたれかかって休息するポーズをとっています。左手を持たせかけている棍棒には「ネメアのライオン」の毛皮が添えられており、右手には「ヘスペリデスのリンゴ」を3個持っています。どちらも「12の功業」の冒険の成果です。

 

「図説 ギリシア神話 英雄たちの世界編」

松島道也 岡部鉱三  著

河出書房新社  発行

 

 

次は、「ラマになった王様

 

 

 

ディズニー編⑤

アナスタシアの巻✨

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アニメーション映画「アナスタシア」

20 世紀フォックス 制作

DVDカバーより引用

 

「アナスタシア」は、ディズニーの制作ではありませんが、ディズニープラスで配信されていますので、ディズニー編のシリーズで書かせていただきました。

 

「8歳になる、ロマノフ朝のアナスタシア皇女は宮殿で幸せな毎日を送っていました。あるパーティーで彼女は、大好きな祖母であるマリー皇太后に子守唄のオルゴールになっている宝石箱と、宝石箱の鍵のペンダントを贈られます。

しかし、そのパーティーに邪悪な魔法使いラスプーチンが現れ、彼の呪いによってロシア革命が起こります。召使の少年ディミトリの助けでアナスタシアとマリー皇太后は宮殿を脱出し、パリヘ向かおうとします。しかし、混乱の中で、ひとり取り残されたアナスタシアの手に残ったのは、祖母がくれた「パリで会いましょう』というメッセージが刻まれた宝石箱の鍵のペンダントだけでした。

その後、彼女の消息が不明なまま10年が過ぎました。18歳の孤児アーニャは、魅力的な詐欺師ディミトリと彼の仲間の元貴族ウラジミールに出会います。彼らは偽のアナスタシアを仕立てて、アナスタシアを探している、パリに住むマリー皇太后から莫大な報酬を手に入れようとしていました。

過去の記憶を持たない孤児アーニャは孤児院を出て、家族との唯一の手がかりのペンダントに刻まれたパリに行こうとしていました。 

彼ら3人と愛犬プーカはパリに向かって旅を始めます。

一方、ロマノフ朝を滅ぼした張本人であるラスプーチンは、ロマノフ家最後の生き残りであるアナスタシアの命を狙い、彼らの前に立ちはだかります」

 

ロシアの起源は、9世紀に興(おこ)ったノブゴロド国とキエフ国です。しかし、13世紀半ばにチンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍に侵略され、ロシアは「キプチャク・ハン国」の支配下に入ります。この「タタールの軛(くびき)」と呼ばれる状態は200年も続きました。タタールとはヨーロッパやイスラムからのモンゴル人の呼び名の一つで、「ロシア人は、モンゴル人に首根っこを押さえられ、家畜のように扱われた」という意味です。そんな状態から、ロシア人を解放したのがモスクワ大公国のイヴァン3世です。彼は1472年に、ビザンツ(東ローマ)帝国の最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し、1453年にオスマントルコによって滅ぼされたビザンツ帝国の後継者を自認しました。モスクワは、「第3のローマ」と呼ばれるようになります。「皇帝」を意味する「ツァーリ」(古代ローマカエサルをロシア語化したもの)の称号を初めて用いたのが、イヴァン3世でした。次の「雷帝」と恐れられたイヴァン4世によって国力を伸ばしますが、彼が死ぬと、その独裁政治に不満を持っていた人々がツァーリの命令に従わず、ポーランドなどの侵入もあって、ロシアは混乱します。

ロシア人たちは結束して外敵を駆逐する一方で、各地の貴族、高位聖職者、大商人などからなる「全国会議」という身分制議会を開きました。この会議で、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴(すいたい)され、ロマノフ朝の開祖となりました。ロマノフ朝のもとで農奴制が強化され、ピョートル1世、エカテリーナ2世の時代に、ロシアは領土を拡大していきます。

アナスタシアの父、ニコライ2世は、1896年に戴冠式を行い、世界の6分の一を支配するロシア帝国ツァーリとなりました。

 

ニコライ2世の運命を変えたのは、3度の革命です。1度目は「日露戦争」のさなか、2度目と3度目は「第1次世界大戦」のさなかに起こります。戦争が、いかに国民生活を困窮させ、追い詰めていくかが分かります。

 

1904年2月8日、朝鮮の仁川(インチョン)と中国の旅順にいたロシア艦隊が日本軍に攻撃され、日露戦争が始まりました。(宣戦布告が出されたのは2日後の10日でした)

緒戦でロシア軍は極東艦隊が持つ艦船の半分を失い、楽勝ムードは吹き飛びました。さらに8月の満州での大敗北によって、政府の威信は地に堕ちました。12月、ステッセリ将軍が旅順を日本へ明け渡したことは、首都に動揺を引き起こしました。その首都ペテルスブルクで、1905年1月9日、10万人もの生活苦にあえぐ労働者が妻子を引き連れて、教会の旗とイコン、そしてツァーリ肖像画を掲げて、冬宮への行進を始めました。ツァーリに「正義と庇護(ひご)」を求めるもので、デモを率いたのはガポンという神父でした。冬宮前に集まった大勢の民衆に兵士が発砲し、子供を含む2000人以上が死傷し、広場の雪は血に染まりました。これを「血の日曜日事件」(第1次革命)といい、ニコライ2世は、「血のニコライ」とあだ名されます。イギリス国王ジョージ5世とニコライ2世の母親は姉妹であり、実の従兄(いとこ)にあたりますが、そのイギリス王室が、ニコライ2世を犯罪人扱いしました。(イギリスにも、「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」と恐れられたメアリー1世がいます)

ロシアでは、旗色の悪い知らせが伝わるにつれて労働運動が激しくなっていきました。地球を半周して極東へ派遣されたバルティック(バルト海)艦隊が5月末に長崎県対馬沖で撃沈されたという知らせでカタストロフィーに至ります。6月には黒海戦艦ポチョムキンの水兵たちが蜂起し、赤旗を掲げました。

国力を使い果たし、有利なうちにロシアとの講和を実現したい日本はアメリカのルーズベルト大統領に仲介を依頼していました。一方のロシアは、日本と戦う余力を持ちながら、国内の革命勢力と対峙し押さえ込まなければならない事情から、講和に応じ、1905年、ポーツマス条約を結びました。全権大使には、セルゲイ・ヴィッテが任命されました。ロシアにヴィッテ以上に有能な政治家はいませんでした。日本はまだ我が領土に踏み込んでいないという、彼の巧みな外交手腕によって、ロシアから日本への領土の割譲はサハリン南部のみに留めることができました。日本があれほど強く望んだ賠償金も突っぱね、おかげで、日本の全権大使だった小村寿太郎は、日本に帰国すれば暗殺されるのではないかと危惧されることになりました。

いずれにせよ、ロシア政府にとって、国内の革命勢力の方が、日本よりもっと恐ろしい敵であったということです。

ニコライ2世は名君ではなかったものの、暴君でもなく、規則や礼節を重んじる真面目な性格でした。が、優柔不断で気が弱く、人の意見に左右されやすいところがあったといわれています。彼は、イヴァン雷帝のような征服者ではなかったし、ピョートル大帝のように後世に残る都市を建設したこともないし、祖父のアレクサンドル2世のような改革者でもありませんでした。

政略結婚ではなく、熱烈な恋愛結婚で皇后に迎えたアレクサンドラとの間に、結婚の翌年から一年おきに4人の王女、 オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアが誕生しています。統治者としては凡庸であったニコライも、家族にとっては優しい夫や父親であり、政務より家族との生活を大事にする傾向があったといわれています。結婚後10年間は世継ぎに恵まれませんでしたが、1904年、アレクサンドラは待望の男児を出産し、アレクセイと命名されました。

この世継ぎの誕生が、ロマノフ家の悲劇の始まりでした。アレクセイは血友病でした。一般に女性を通じて遺伝しますが、男性にだけ発病する病気で、アレクサンドラは母と祖母のヴィクトリア女王から血友病を受け継いでいたのです。血友病患者は、血が凝固しないため、少しの怪我でも出血が止まらなくなり、苦しむだけ苦しんで早逝する運命にありました。ロシアの現ツァーリのたった一人の息子が生まれつき「死の病」にかかっていることは極秘とされました。

アレクセイの血友病発作を鎮める不思議な力があるという理由で、アレクサンドラは、1907年より祈祷僧グリゴーリィ・イフィーマヴィチュ・ラスプーチンに篤い信頼を寄せるようになります。

しかし、ラスプーチンは、彼の進言によって皇帝から遠ざけられた側近や近親者から恨まれ憎まれたのはもちろんのこと、大勢の女性信者に取り巻かれて、数々の醜聞を流したことで、ロシア正教の教会からも顰蹙(ひんしゅく)をかい、支持されませんでした。何より、彼がニコライ2世の政策に悪い影響を与えていると信じる民衆の不信感と憎しみを一身に集めるようになりました。

それでも、1913年に盛大に行われた「ロマノフ家300年祭」で、軍楽隊が「神よ、ツァーリを守らせたまえ」を演奏すると、つめかけた民衆の「ウラー(万歳)」の叫びがこだまし、この時はまだ、ロマノフ家の悲劇を予想することはできませんでした。

1914年、第1次世界大戦が始まります。対ドイツ戦の初期には、皇帝と国民の一体感が再び生まれますが、長くは続きませんでした。1914年8月、タンネンベルクの戦いで、ヒンデンブルク将軍率いるドイツ軍に大敗し、死者2万人、捕虜9万人を出してしまいます。

1915年、東部戦線のロシア軍は総崩れになって「大退却」が始まりました。

もし第1次世界大戦が起こらなかったら、ロシアの運命は全然違ったものになっただろうといわれています。

鉄道網の不備を原因とする前線の物資の不足も深刻でした。軍の最高司令官に就き、首都から大本営に移って指揮をとることになった夫のニコライに代わり、摂政をつとめた妻のアレクサンドラは、ラスプーチンに心酔するあまり、彼が求めるままに、1年間に内務大臣を5回、戦争大臣を3回交代させ、混乱を極めました。

1916年12月、宮廷の奸(かん・悪人)を取り除くべく、皇族も1人加わった、義憤に燃える、正義の暗殺者たちは、モイカ宮殿にラスプーチンを招き、周到な打ち合わせ通り、地下室で青酸カリの入った酒を飲ませ、そして銃を発砲しました。それでも彼は信じられないほどの生命力を示したといいます。致命傷を負ったラスプーチンはロープでがんじがらめに縛られて、モイカ川の氷の穴の中に投げ込まれました。

 

日露戦争中に、血の日曜日事件(第1次革命)が起こりましたが、それ以後の革命運動は、ストルイピン首相によって抑えつけられてきました。しかし、第1次世界大戦が長期化するなか、食糧、燃料などの不足に苦しんだ民衆の不平不満が、また表面化してくることになります。

第1次世界大戦が勃発し、敵国ドイツとの開戦直後に、ドイツ風の呼び名ペテルスブルクからロシア風のペトログラードに改称した首都では、数万人規模のストライキがたびたび起こるようになりました。

1917年2月23日、女性たちの叫びで二月革命が始まります。首都の繊維工場の女工たちが「パンをよこせ」の声をあげながら、街頭に出ていきました。(フランス革命の「ベルサイユ行進」のようです)「パン・平和・専制政治打倒」を求める大規模なデモに発展し、労働者と兵士の代表による「ソヴィエト」が各地に組織されました。最高司令官として首都を遠く離れていたため、ペトログラードの情勢を理解できず、迅速な対応をとることができなかったニコライ2世は退位に追い込まれ、約300年続いたロマノフ王朝はついに倒されました。

二月革命後、ドゥーマ(国会)によって「臨時政府」が建てられました。この国会や臨時政府は、「立憲民主党(カデット)」や「社会革命党(エスエル)」右派の資本家の議員が多数派でしたから、資本主義の発展を目指して、イギリスやフランスと協力して、ドイツとの戦争を続行する政策をとりました。そのため、民衆の困窮した生活は放置されることになります。

二月革命が起こった時、「ボリシェヴィキ(社会民主労働者党多数派)」の指導者レーニンはスイスに亡命中でした。ロシアに帰国したいレーニンとロシアとの戦争を終わらせたいドイツは手を組み、ドイツは「封印列車(他の客車や外部から隔離された客車)にレーニンを乗せて、国力を見せつけるために高級料理でもてなしながら、スイスからヘルシンキ経由でペトログラードに運びました。レーニンは帰国早々、「四月テーゼ」を発表して、「戦争反対」という方針(テーゼ)を示しました。

ボリシェヴィキに率いられた労働者・兵士らが武装蜂起して、ブルジョワ革命の臨時政府を倒したのが、「十月革命」です。

二月革命」で退位した後、ツァールスコエ・セロー(皇帝の離宮)に拘禁されていた皇帝一家をイギリスに亡命させる案が検討されましたが、イギリス国内の社会主義者と労働運動からの突き上げを恐れた国王ジョージ5世(ニコライ2世の従兄)は、ロシア皇帝一家とは関わりたくないと考え、受け入れには応じませんでした。

運命の日、1918年7月16日、ウラル山脈の街エカテリンブルクでニコライ2世とその家族に何が起きたのか。その日以降、ロマノフ家の人々の消息は杳(よう)として知れませんでした。

ところが、1991年にソヴィエト連邦共産主義体制が崩壊すると、長い間、封じ込められ、歪められてきたロマノフ家に再びスポットライトが当てられました。数々の証言がなされ、肖像画、写真フィルム等が次々と掘り起こされ、修復されました。

 

「長い間、旧ソ連の『正史』は、皇帝一家の処刑はエカテリンブルクのソヴィエトが勝手に決めたことだと匂わせてきた。事実は全く違う。6月終わりにモスクワで開催された第5回ソヴィエト大会において、レーニンが処刑を決定したのだ。内戦が始まっており、白軍(反革命軍)勢力であるチェコスロヴァキア軍団とコサック部隊がエカテリンブルグに迫っていた。ボリシェヴィキは撤退しなければならなかった。白軍勢力はニコライ2世が自分たちのリーダーだとみなしていた。『彼らの旗を生かしておくのは危険だ』(レーニン)」

 

「月の出ていない真夜中の3時ごろ、黒服の男が突然、部屋に入ってきた。彼の背後には、おそろしげな10人の部下がいた。全員が銃を持っていた。銃殺隊だった。黒服の男はニコライ2世の方に歩み寄り、まるで判決を読み上げるように、「ニコライ・アレクサンドロヴィチ、あなたの親戚は、あなたを救助しようと望んだが失敗した。我々はあなたを処刑せねばならない」と述べた。これに反応しての皇帝の動作と言葉(「いったいこれは…」)は中断させられた。黒服の男が至近距離からニコライの頭を撃ったからだ。革命は、裁判なしに、彼に最後の言葉を語らせることなく、彼を処刑した。数秒後、アレクサンドラは十字を切り終えるまもなく撃ち殺された。次は、オリガ、タチアナ、マリアの番であった。射撃は続き、皇帝一家と最後まで彼らに忠誠をつくした者たちは次々に倒れた。床は次第に血に染まり、火薬の刺すような臭いと煙が部屋に立ちこめた。弾薬を使い果たした者は銃剣で、持っていた枕が弾よけになっていた侍女のアンナにとどめを刺した。血まみれの体の折り重なりの中から、うめき声が聞こえた。アレクセイだった。少年は小さな青白い手を伸ばし、父親のジャケットにしがみつこうとしていた。冷酷にもアレクセイの頭に2発撃って処刑した。次はアナスタシアだった。気絶していただけの彼女が意識を取り戻して叫び声をあげると、銃剣で何度も突かれた。11人の遺体は夜明け前に森に運ばれ、斧や鋸で切り刻まれ、顔が判別されないように硫酸がかけられた。

翌々日、アレクセイとマリアの遺体は焼却され、森の中のもう少し離れた場所まで運ばれて埋められた。 土や乾枝で埋め、その上に枕木を敷き並べて、トラックを数回往復させてならして、穴の跡が残らないようにした。遺体捜索を困難にするためだ。残りの9人の遺体は廃鉱に投げ込まれた。これを監督していた同志の男は満足げに「世界は、我々が彼らに何をしたのか決して知ることがないだろう」と述べた。

虐殺が起きてから72年後の1990年、廃鉱の奥から人間の遺骨が発見された。発見された遺骨は、綿密なDNA検査の対象となった。疑いの余地のない結論が出た。ニコライ、アレクサンドラ、オリガ、タチアナ、アナスタシアの遺骨が同定された。皇帝一家虐殺からちょうど80年後にあたる1998年7月17日、ロマノフ家の末裔の立ち会いのもと、皇帝夫妻と三人の皇女はサンクトペテルブルクのペトロパヴロフスキー大聖堂に埋葬された。2007年、エカテリンブルクに近い森の中で、若い娘と少年の遺骨が発見された。ロシアの研究機関とアメリカの研究機関が分析したところ、同じ結論が出た。19歳のマリアと13歳のアレクセイの遺骨であった。この二人も、ロシア最後の皇帝となった父親の側に葬られることになった」

 

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「アナスタシア」パンフレット

20 世紀フォックス映画会社 発行

 

1920年2月17日、一人の若い女性が、ベルリンの運河に身を投げて死のうとして助けられました。その女性の名前は、チャイコフスキー夫人、別名アンナ・アンダーソン。ロシア皇帝一家の唯一の生き残りのアナスタシア皇女を自称して、その後世界中にセンセーションを巻き起こしました。

彼女は1928年に、ヨーロッパからアメリカに渡りました。アメリカではたちまちマスコミの人気者になり、ハリウッド流の伝説が広まりました。マスコミに追いまくられた彼女がロングアイランドのホテルに身を隠した時に使ったアンナ・アンダーソンという偽名が、その後ずっと彼女に付きまとうことになります。アンダーソン夫人のもとには、ロシア皇后の妹のプロイセン公ハイリッヒ殿下夫人イレーネ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の義理の娘ツイツェル皇太子妃など、ロシア皇家ゆかりの人々が訪ねてくるようになりました。もちろん、彼女が本当にアナスタシアなのかどうか確かめるためでした。

その後、アナスタシアの祖母であるマリア皇妃からはじまり、プロイセンのイレーネやオリガ太后女、ブクスへーヴェーデン男爵妃など、アナスタシアとごく親しかったロマノフ家の親戚の人々は、ほとんど全員一致でアンダーソン夫人を認めることを拒否しました。特に重視されたのは、元ロシア皇帝の歯科医だったコストリツスキーの証言で、1918年にトボリスクでアナスタシアを最後にみた彼のもとに、1927年、アンダーソン夫人の歯からとった石膏型が送られました。彼はそれを点検して、「歯並びや顎の形や構造が、まったくアナスタシアのそれと一致しない」と断言しました。

 

 

参考資料

 

「皇帝ニコライ処刑  ロシア革命の真相 上」

エドワード・ラジンスキー 著

工藤精一郎 訳

NHK出版 発行

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「暗殺が変えた世界史 ニコライ2世からチャウチェスクまで」

ジャン・クリストフ・ピュイッソン 著

神田順子・清水珠代・濱田英作 訳

原書房 発行

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「よみがえるロマノフ家」

土肥恒之 著

株式会社講談社 発行

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「皇女アナスタシアは生きていたか」

桐生操 著

株式会社ベネッセコーポレーション 発行

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「夢幻美女絵巻」

山崎洋子 文

岡田嘉夫 絵

株式会社小学館 発行

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今回、ロシア革命について書くのに、池田理代子さんの「オルフェウスの窓」を読み直しましたが、オルフェウスについては、次の「ヘラクレス」の巻で書きたいと思います。

 

 

 

ディズニー編④

ポカホンタスの巻✨

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ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス

1995年制作

DVDカバーより引用

 

ネイティブアメリカン、パウアタン(ポーハタン)族の首長の娘、ポカホンタスは、旺盛な好奇心と自分の未来は自分の手でつかもうと考える意思の強さを持ち、大いなる精霊と共に大自然の中を自由に駆け回る女性です。そんな彼女の前に現れたのは、一攫千金を夢見るイギリス人探検家たちでした。その中のキャプテン・ジョン・スミスとポカホンタスは出会った瞬間から心を通わせ、惹かれあっていくのですが、新大陸征服の野望を抱く、彼らイギリス人開拓者とパウアタン族の対立は激化し、一触即発の状態になります」

 

ポカホンタスの実名の「マトアカ」は、「雪のような真っ白な羽毛」という意味です。「ポカホンタス」はニックネームで「小さないたずらっ子」という意味です。なぜ名前が2つあるかというと、彼らにとって実名はごく身近な近親者だけが呼ぶべき大切なものだったからです。実名には不思議な魔力があると信じられており、その魔力がすり減ってしまわないように、ニックネームで呼んでいました。

 

講談社版『ポカホンタス』の中で、ポカホンタスの父パウアタンはこう言っています。

『他人を傷つける言葉を使う者は、同時に自分自身を傷つけることになるのだ。逆に、愛に満ちた言葉を使う者は、人のこころを愛で満たし、そして、自分自身の心も愛にあふれる。喜びに満ちた言葉を使う者は、人の心を喜びで満たし、そして自分自身も喜びにあふれる』」

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ポカホンタスの秘密」

著者 「ポカホンタス」研究会

発行者 鵜野義嗣

発行所 株式会社 データハウス

より引用 

 

これは、日本の「諱(いみな)」 「言霊(ことだま)信仰」に驚くほどよく似ています。

 

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ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス

1995年

パンフレット  より引用

 

「実在のポカホンタスは『ロミオとジュリエット』に『風と共に去りぬ』を足して、さらに『マイフェアレディ』を地で行ったようなジェットコースター・ドラマも真っ青の実に激しい波瀾万丈の人生を送った伝説のヒロインだったのだ。おまけに、アメリカを作ったといってもいい歴史的人物でもあった。彼女がいなければ、アメリカは英語の国ではなく、スペイン語かフランス語の国になってしまったかも知れないというほどの重要人物だったのである。何を隠そうアメリカが今日あるのもポカホンタスのおかげなのだ!」

ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス

のパンフレットに掲載されている

和栗隆史さんの文章より引用

 

 

ポカホンタスとキャプテン・ジョン・スミスの出会いは、イギリス人がアメリ東海岸(大西洋沿岸)のパウアタン族の領土であった地に「ヴァージニア植民地」を建設した1607年のことでした。ジョン・スミスは、ヴァージニア初の入植地「ジェームズタウン」を建設しようとする、イギリスの植民請け負い会社である「ヴァージニア会社」の植民請け負い人でした。

ポカホンタスの父パウアタンは、30の部族と9000人を束ねるパウアタン部族連合の長でした。パウアタン連合は、今のヴァージニア州のおよそ5分の一ほどの広さを占めていたといわれています。

スミスたちより、十年ほど前にイギリスから入植団がこの地にやって来て、当時ヴァージン・クイーン(処女王)と呼ばれていたエリザベス一世にちなんで「ヴァージニア」と名付けられました。スミスたちが築いたジェイムス・タウンは、エリザベス一世の次の王、ジェームズ一世に由来しています。

 

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先住民族シリーズ2 北アメリカの平原インディアン」

ロビン・メイ 著

河津千代 訳

発行所 リブリオ出版   

より引用

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ジョン・スミスは、パウアタンの戦士に捕らえられ、パウアタンの村々を引きまわされた後、パウアタン首長の王宮に連れて行かれます。そこで、ジョン・スミスが処刑されようとした時、ポカホンタスが身を挺してスミスを救いました。

「パウアタンは、棍棒を振りかざしたまま首長の指図を待っている戦士に、そのまま振り下ろすように目配せした。その瞬間、自分の願いが受け入れられないと知ったポカホンタスは、羽を広げた白鳥のように白い羽を植え込んだマントをひるがえしスミスにかけ寄った。そして、いままさに打ち砕かれようとしていた彼の頭の上に覆いかぶさったのだ。彼女の勢いに、棍棒を下ろしかけていた戦士はかろうじてその腕を止めた。王宮がどよめいた。パウアタンはもう娘を止めることはできなかった」

ポカホンタス

著者 和栗隆史 

発行 講談社   より引用

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ポカホンタスに救われた後、大けがをしたスミスがイギリスに帰国するところで、ディズニー映画「ポカホンタス」は終わります。

でも、和栗隆史さんが言われた「ジェットコースター・ドラマも真っ青の波瀾万丈な人生」は、むしろここからでした。

 

それが描かれている、ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス2」で、ポカホンタスとジョン・スミスが結ばれるかと思いきや、まさかの大どんでん返しがありました。

 

1613年、ポカホンタスは、敵対するパウアタン部族連合との交渉に、彼女を利用する事を考えた、ジェームズ・タウンの白人に誘拐されます。連れて行かれたジェームズ・タウンでパウアタン部族連合との交渉の材料とされる一方、野蛮なネイティブアメリカンをレディに変身させるための様々なイギリス流の教育を受けました。西洋風の服をまとい、英語を教えられ、大いなる精霊と共に生きてきた自身の考え方、信条を棄てさせられ、キリスト教に改宗させられました。

白人指導者ジョン・ロルフと出会い、結婚したのはこの頃でした。ジョン・ロルフは、ポカホンタスのアドバイスでタバコ栽培に成功し、植民地の経済的な基盤を作った人物です。

一攫千金をもくろみ、金やダイヤモンドを掘り当てようとしていた夢が徒労に終わり、悲嘆に暮れていた植民地の人々を救ったのが、ロルフのタバコ産業でした。ポカホンタスは、このロルフの農園で一子(いっし)トーマス・ロルフを生みましたが、ポカホンタスは姉たちに「トーマスはロルフの実子ではない」と説明しています。

 

その後、ポカホンタスは親子3人で渡英し、国王ジェームズ一世やアン王妃に謁見しました。ポカホンタスは「ネイティブアメリカンの姫」と紹介され、イギリスにセンセーションを巻き起こしました。ポカホンタスは植民地のイメージを良くし、滞りがちな本国からの投資や植民を促す、植民事業の広告塔としての役割を担うことになりました。

ヴァージニアに戻ってタバコ栽培をすることを強く望んだロルフは、ヴァージニアに戻る船旅の途中で病気になったポカホンタスがイギリスのケント州で亡くなった後、幼いトーマスをイギリスに独り残し、単身ヴァージニアに戻り、なんと2度目の再婚をしたそうです。誘拐され、故郷に戻ることもないまま、イギリスで客死したポカホンタスは、この時まだ23歳でした。こんなに早く幼い我が子を置いて逝かなければならない無念さと、我が子を顧みることのなかった夫に半ば裏切られたような形になったことが、可哀想でなりません。

 

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ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス

1995年

パンフレット  より引用

 

 

「一生に一度の恋をしたことがありますか」

「風の色が見えた時、二人の愛が始まった」

が、ディズニー映画「ポカホンタス」のキャッチコピーでした。この映画で「一生に一度の恋」の相手であったはずのジョン・スミスが「ポカホンタスに助けられた」と主張し始めるのは、1624年に出版された「ヴァージニア総史」での記述が最初で、ポカホンタスの死から7年も経ってからでした。

ネイティブアメリカンは文字を持たなかったので、現在ポカホンタスについて知られていることは、全て後世の文献に記録されたものを通して語られたものであり、現実のポカホンタスの考え、感情、行動の動機などは分かっていません。

ジョン・スミスと激しい恋をし、自分の部族に捕らわれて処刑されそうになったジョン・スミスを我が身を挺して救ったと語られたポカホンタスは伝説になりました。アメリカの子どもたちは何世代にもわたって、その名前を聞かされ、アメリカ人ならだれでも知っている歴史的ヒロインになりました。

17世紀から19世紀の白人たちは、開拓、布教を伴う植民事業に先住民の女性を利用し、彼女たちの従順で献身的なイメージを作り上げることで、自らの侵略行為を正当化しようとしたのではないかという見解もあります。

時代に翻弄され、白人に利用された感のあるポカホンタスですが、従順さの裏に隠された、したたかさが見て取れるのが、ポカホンタスの最も古い肖像画と言われる、1616年のサイモン・デ・パスによる、この銅版画です。

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ポカホンタスが被っているのは男物の帽子で、押し付けられた女性らしさへの抵抗を示しているとも言えます。また、上流階級の女性が身につける胸の開いたドレスではなく、あえて衿の詰まった服を身につけ、半裸の先住民といった野蛮なイメージを消そうとしているという見方もあり、服装を通して独自の自己主張をしているのがうかがえます。

 

命を投げ出してまでスミスを救おうとしたポカホンタスの勇気にあやかろうという意図で、ポカホンタスやパウアタンの名前を船の名前にしたり、その像を船首に付けたりしたというのは興味深かったです。幕末の浦賀に現れ、鎖国していた日本に開国を迫ったペリーの「黒船」艦隊も、その旗艦の名前は「パウアタン」号でした。(サスケハナ号の準同型艦

 

もう一枚紹介したいのが、この絵です。

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イギリス カッセル社の「合衆国の歴史」

1874年出版

挿絵

より引用

ディズニーアニメーション映画「ポカホンタス」の映画のパンフレットより引用した、一輪の花を持ち岩に腰かけるポカホンタスの絵もそうですが、この絵で、右から2番目に描かれているパウアタン族の首長が平原インディアン(ネイティブアメリカン)のような格好をしています。多くの人がイメージする典型的なインディアンが、大平原部に住む「平原インディアン」で、馬にまたがってバッファローを追い、皮で作ったテントで生活をするというもので、代表的な部族はスー族です。羽根冠をかぶる風習があったのは、数あるインディアン部族の中で、この「平原インディアン」だけだったそうです。

「パウアタン族」は、「北東部インディアン」と「南東部インディアン」の境目の辺りに暮らしていた部族なので、羽根冠を被る風習はありませんでした。白人が「インディアン=羽根冠」という画一的なイメージを持っていたのがよく分かります。インディアンの各部族の違いに目を向けることなく、先行するイメージで一緒くたにしてしまうやり方は、最近、日本で問題になっている、織田信長に仕えたとされる黒人、弥助を巡る「ヤスケ問題」に通じるものがあるのではないかと思います。

 

「イギリス人たちは『邪教を信じる野蛮人をキリスト教に改宗させる』という目的を持っていた。誘拐されたポカホンタスが改宗を迫られ、そして、『レベッカ』というクリスチャン・ネームをもらったことを見てもそれがわかる。しかし、おそらくポカホンタスにとって、キリスト教の教えは理解できないものであっただろう。なぜなら、決まった曜日に決まった時間に決まった建物(教会)に行かなければ神様に会えないというのは、ポカホンタスたちの考え方とはまったく異なるものだったからだ。ポカホンタスにとって、彼女を導いてくれる『大いなる精霊』は、空にも空気にも山にも木にも花にも、どこにでも宿っているものだった。それはいつもポカホンタスと共にあるものだったからだ。

ポカホンタスは『大いなる精霊』と共に生きていた。そして彼女は自分自身がその大いなる精霊に見守られた『聖なる輪』の中の一員であると自覚していた。したがって誰にでも訪れる『死』は、けっして『滅びて消える』ことを意味しない。『死』とは、聖なる輪の中で形を変えることにほかならない。ゆえに、『死』は悲しみの対象というよりは、新たな旅立ちといった方がふさわしい。講談社版『ポカホンタス』で、ポカホンタスは死の間際に夫であるロルフにこう言っている。

泣かないでロルフ、だれもが一度は死ぬのです。

さあ、泣かないで、笑ってロルフ。

ポカホンタスはそう言って死んでいく。

スミスが書き残した記録によると、たしかに実在のポカホンタスは、『だれもが一度は死ぬのです』と言って息を引き取ったという。

その言葉に見られるように、クリスチャンとなりレベッカと名を変えていた彼女は死に臨んで、パウアタンの森で『大いなる精霊』と共に生きてきたポカホンタスとして死んでいったのである」

 

ポカホンタスの秘密」

著者 「ポカホンタス」研究会

発行者 鵜野義嗣

発行所 株式会社 データハウス

より引用 

 

ジョン・ロルフと結婚して、一緒にイギリスに行くことがなければ、ポカホンタスはもっと長く生き、幸せになることができたのではと思いましたが、この文章を読んで、少し晴れやかな気持ちになりました。

 

 

次は「アナスタシア」

ディズニー編③

アラジンの巻✨

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ディズニーアニメーション映画「アラジン」

1992年制作

DVDカバーより引用

 

「貧しくても純粋な心を持ち、夢と希望を胸に生きる青年アラジンが、魔法の洞窟で不思議なランプを見つけ、魔神ジーニーに3つの願いを叶えてもらいます。一つ目の願いは、市場で偶然出会い、一目惚れした王女ジャスミンにふさわしい王子になることでした。

王国支配を企み、ランプを自分のものにしたい、大臣ジャファーとの戦いや様々な冒険を通して、偽ってうわべを飾るのではなく、ありのままの自分であることの大切さに気がつきます。」

 

「アラジン」は、「アラビアンナイト」の中でも最も有名な「アラジンと魔法のランプ」を原作に、ディズニーらしい脚色が加えられた作品です。

アラジンとジャスミンが魔法のじゅうたんに乗って、エジプトのピラミッド、ギリシアパルテノン神殿、中国長安の都の、打ち上げられる花火に染まる宮殿を巡るロマンティックなシーンが大好きでした。野生馬が駆けているのはトルコでしょうか?

 

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ディズニーアニメーション映画「アラジン」

1992年制作

パンフレットより引用

 

アラビアンナイト」の原名は、「アルフ・ライラ・ワ・ライラ(千夜一夜)」といい、その題名どおり、千と一夜の間に、一人の賢く美しい娘が王様に語って聞かせる夜話という形になっています。

 

「今は昔、インドと中国を支配するシャハリャールという王がいました。彼の弟は、サマルカンドの王シャー・ザマン。ある時、弟が兄を訪ねようと宮殿を出発しましたが、途中で忘れ物に気づいて引き返してみると、そこで見たものは、奴隷と浮気をする妃の姿でした。弟王は即座に2人を斬り殺して兄王の所へ行きましたが、ショックで心は楽しまず、食も進みませんでした。ところが、ある日、兄の留守中に、兄の妃が愛人の奴隷と乱行の限りを尽くしているのを目撃し、「兄さんより僕の方がまだ幸せだった」と自分より不幸な人がいるのを知り、晴れやかな気持ちになりました。弟の様子の変化に気づいた兄は弟を問い詰め、ことの真相を聞き出しました。失意の兄は弟を誘って宮殿を抜け出し旅に出ます。

その旅先で、とある湖水で休んでいると、水中から巨大な魔王が、櫃(ひつ)を頭に乗せて出てくるのを見て、近くの樹上に隠れました。魔王は木の下に座り、櫃の中から美女を出し、その膝を枕に眠ってしまいます。美女は樹上を見上げて二人の王を誘い、自分に従わなければ魔王を起こしてそなたたちを殺させると交情を迫りました。兄弟はやむを得ず、美女の情欲を満たしてやりますが、こと終わった後、美女は兄弟の指輪を取り上げ、これを今のように魔王の目を盗んで密通した男たちから巻き上げた指輪をつなげた数珠に加えました。その数は570個に達しており、美女が言うには、自分は婚礼の夜にさらわれて、七重に鍵のかかる箱に閉じ込められたが、女というものは、やろうと思えばどんな邪魔があってもやってのけるものだと言うのでした。

これで完全に女性不信に陥った兄王は(弟王はこの後、まったく物語に出てきません)、まず、彼の妃らを皆殺しにし、それからというものは、一夜限りの妻として処女を迎えては、翌朝には殺してしまうようになります。これを3年も続けたために、とうとう都に若い娘がいなくなってしまいました。

これをやめさせようと、大臣の娘シャハラザードが父の反対を押し切って、彼女の妹と共に王の所へ行き、王の枕もとで夜ごと物語を語るのですが、ちょうどテレビの連続ドラマのように、いいところで続きはまた明日と焦らし、続きを聞きたい王は彼女を殺すことができず、とうとう話は千と一夜続き、その間、王はシャハラザードとの間に、子宝にも恵まれていました。王はいつしか心からこの賢い女性を愛するようになっていて、女性不信の念も消え失せていました。王はシャハラザードを妃に迎えて、幸せな余生を送りました」

 

アラビアンナイト」は、表現力に富むアラビア語で書かれているということが重要で、アラビア語の味わい深さを他の言語に訳すことは、どんなに苦心しても難しいと言われています。アラビア語には多様な派生形があり、対をなす双数という概念があり、章句の繰り返し、韻を踏む美しい響きがあります。

イスラーム教の経典を「コーラン」と言いますが、当初はアラビア語以外への翻訳は禁止されていました。 アラブの人々がコーランを朗誦しながら感涙にむせぶのは、宗教心からだけではなく、アラビア語の抑揚や響きに陶酔するからだとも言われています。

 

もう一つ、「アラビアンナイト」の特徴は、イスラーム独特の宿命感に根差した話しが多く、世の中の全てはアッラーの御心次第であるという世界観に徹している点です。

イスラーム教の「六信五行」の「六信(イスラーム教徒が信じる6つのこと)」の一つ、「天命」は、「人間の諸行為はすべてアッラーが創造したもので、神の意思は人間の意思・行為を通じて現れる」というものです。

 

ちなみに、「五行(イスラーム教徒が行うこと・義務とされる5つのこと)の一つ「喜捨(ザカート)」は「自分よりも貧しい人に可能な限り施しを行うこと」です。

日々の糧にも困り、盗みを働くほど貧しいアラジンが、市場で盗んだパンを貧しい子どもに与えていたのが、この「喜捨(ザカート)」にあたります。

 

アラビア半島とアフリカ北部の乾燥地帯に帯状に広がる、アラブと呼ばれる地に誕生し、現在16億人以上が信奉するイスラーム教を語らずして、「アラビアンナイト」を語ることはできません。

 

6世紀の後半、アラビア半島西部のメッカの町に生まれたムハンマドマホメット)が、7世紀初めに、唯一神アッラーから啓示を受け、創始した宗教がイスラーム教です。ムハンマドアラビア語で、マホメットはフランス語です。

イスラーム教では、アッラーの前では、信徒はみな平等です。このことから、イスラーム教はアラブ人の「民俗宗教」にとどまらず、キリスト教や仏教と同じ「世界宗教」に発展することになります。

 

信徒の平等を唱えたイスラーム教は、メッカの大商人らの猛反発を受けます。自身の首に懸賞金をかけられたムハンマドは身の危険を感じ、622年、メッカからメディナに移住しました。これを聖遷(ヒジュラ)と言います。ムハンマドは、その10年後に死にますが、カリフと呼ばれるムハンマドの後継者が4人続いた「正統カリフ時代」にイスラーム教の共同体はさらに発展していくことになります。イスラーム教を信仰しているアラブ人が居住する地域以外にも戦争をしかけていき、イスラーム教以外の宗教を信仰する異教徒との戦いを聖戦(ジハード)と呼びました。ジハードで戦死した場合、即天国行きとなるために、死を恐れないイスラーム戦士は無敵の強さを誇りました。642年にササン朝ペルシアを破り、滅亡に追い込んでいきます。

 

4人目のカリフを暗殺し、権力を握ったウマイヤ家が建国したのがウマイヤ朝です。そのウマイヤ朝を打倒したのがアッバース朝で、「アラビアンナイト」にも度々登場する第5代カリフ「ハールーン・アッラーシッド」の時代に最盛期を迎えます。アッバース朝の首都バグダードは、創建された当時、円形をした見事な計画都市でした。「平安の都」と呼ばれたバグダードですが、13世紀にモンゴル軍の侵攻を受けた時、徹底的に破壊され灰燼(かいじん)に帰してしまったため、現在ある建造物は皆、その後新しく再建されたものです。

 

ディズニー映画「アラジン」で、アラジンが暮らしている「アグラバー」の街は、バグダードがモデルだと思い込んでいましたが、ジャスミンが国王である父と住んでいるサルタン宮殿は、インドのアーグラーという都市にある、墓廟として有名な「タージ・マハル」によく似ています。白大理石でできた美しい景観は宮殿のようですが、ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハンが、愛妃ムムターズ・マハルのために建てた墓廟、つまり世界で一番美しいお墓です。

 

「アラジンと魔法のランプ」の冒頭に、「今は昔、中国のある町にアラジンという少年がいました。父親のムスタファは仕立て屋をしていましたが、息子のアラジンは遊んでばかりで、家業を継ごうとはしませんでした」とあるように、アラジンは中国人という設定になっているため、ディズニーの映画を観たイギリスの子どもたちは、アラブ風のアラジンに戸惑ったそうです。

 

アラビアンナイト」は、アラブ世界ではそれほど高い評価を受けて来たわけではありません。大衆向けの下賎な作品集であるということで、知識人がかえりみるようなものではなかったからです。ところが、ルイ14世時代のフランスで奇跡が起こります。一人の東洋学者が訳した「千一夜物語」がベストセラーになり、その後、英語にも翻訳され、生まれ故郷ではたいして注目されることのなかった「アラビアンナイト」が、ヨーロッパで熱狂的に受け入れられていきます。

 

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「世界の童話 4 アラビアンナイトのお話」

発行所 小学館

 

日本で最初にアラジンが翻訳されたのは、明治21年のことでした。日本では、「アラビアンナイト」は二通りの読まれ方をするようになります。アラジン、アリババ、シンドバッドは、子ども向け文学全集の定番となりますが、バグダードやカイロで繰り広げられた恋愛物語のいくつかは、大人向けエロチックファンタジーとしての地位を確立することになります。戦後になると、昭和三十年代に入って普及し始めたテレビの画面にも登場するようになりました。「シンドバッドの冒険」のシリーズや、「アラジンの魔法のランプ」をモチーフにした「ハクション大魔王」、人形劇「ひょっこりひょうたん島」も「アラビアンナイト」に題材を求めた作品です。どの番組も物心がついた頃から観ていましたが、特に「ハクション大魔王」の、数字に弱く、ハンバーグが大好物な大魔王に親しみを感じ、キュートで魅力的な、大魔王の娘アクビちゃんが大好きでした。

 

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この壺や器に盛られている宝石を憧れの眼差しで飽きずに眺めていたのを覚えています。

グリム童話」とは、また違う、魅惑のファンタジーに、子供心にも胸がときめき、ワクワクしました。アダルトでゴージャスな「アラビアンナイト」には、宝石がよく似合います。

 

 

 

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